こんにちは。

今回は、エリヤを信じひんのなら滅びるについて述べます。

新約聖書 マタイによる福音書 二十一章二十三節〜三十二節(拙訳)
それから、(イエスが)神殿に来はって、祭司長たちや民の長老たちが教えてる彼(イエス)に近寄って来て言う。

「何の権威によってこれらをし、誰があんたにこの権威を与えたのか。」
しかし、イエスは答えて彼らに言わはった。

「我もあんた方に一つの事を尋ねよう。もしそれに答えるなら、我も何の権威でこれらをするのか、あんた方に言おう。ヨハネの洗礼は何処からやったか。天からか、それとも、人からか。」

すると、彼らは彼ら自身で議論して言う。

「もし『天から』と答えれば、それ故に『何故彼(ヨハネ)を信じひんかったんか』と我々に言うだろう。しかし、もし『人から』と答えれば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者として看做してるから。」
そこで、彼らはイエスに答えて、「分からん」と言うた。

すると、彼(イエス)は彼らに言わはった。

「何の権威によってこれらをするのか、我もあんた方に言わへん。」
「ところで、あんた方にはどう思えるか。ある人は二人の子を持っていて、長子のところに来て、『子よ、今日行って、我がぶどう園で働きなはれ』と言うた。しかし、『やりたくない』と答えて言うたが、後で悔いて出掛けた。また、次子のところに来て、同様に言うた。しかし、『主よ、我は…』と答えて言うて、出掛けへんかった。二人のうち、どちらが父の意向を行ったか。」

彼らが「長子」と彼(イエス)に言う。イエスは彼らに言わはる。

「確かにあんた方に言うとく。徴税人たちや娼婦たちは、神の国に向かってあんた方に先んずる。義の道にある(洗礼者)ヨハネがあんた方のところに来たのに、あんた方は彼を信じひんかったからや。しかし、徴税人たちや娼婦たちは彼を信じた。しかし、あんた方は(それを)見た時、彼を信じるために後で悔いることもなかった。」

一、世俗の宗教団体は自分らが神に仕えてると高慢にも思い込んでる
上記聖句の「何の権威によってこれらをし、誰があんたにこの権威を与えたのか。」というのは、言い換えれば、「我々(祭司長や長老)は、あんた(イエス)が神殿内で商売を邪魔したり、人々に対して聖書について教えることを許可した覚えは無いぞ。何を勝手な事をしてるんだ」と言うことを、神である主イエスに歯向かって言うたということや。この祭司長や長老らの発言から分かるとおり、彼らがこの世において神に仕える者で、彼らが権威や支配権を持ち、彼らが誰が神殿において何をして良いかを決める権限があると思い込んでたのが分かる。しかし、実際は神が彼らを選んだ訳やないし、彼らの勝手な思い込み、驕り、勝手な決め付けでしかあらへん。一世紀当時のみならず、中世暗黒時代の欧州でのローマ教皇をはじめとするローマ・カトリック教会による横暴な支配も同様で、過去記事で言及したとおり、聖書を翻訳することも、聖書を所持することも彼らによって規制され、逆らえば処刑された。そして、現代でも同じことが言え、ローマ教皇、カトリック、イエズス会、プロテスタント、偽ユダヤ教徒らといった反キリストどもが不当に権力や富を持ち、世の大多数の人間を欺き、主イエスに逆らい、自称聖職者以外の人が伝道すればデマ扱いしたり、勝手に異端視する。実際、彼らは神に忠実でもないし、神との契約に背いて律法を守らず、神に仕えてもいないくせに、勝手に権威を持ってると自称し、聖書に無知な大衆を騙し続けて支配してる。拙者が過去記事で散々論証してきたとおり、パウロはファリサイ派であり、キリストの使徒と勝手に自称した偽使徒であり、その偽使徒パウロの偽福音や偽教義を基にした反キリスト勢力がカトリック、正教会、プロテスタント等や。彼らは、キリスト教徒の振りをしてるだけで、実際は神が律法で禁じはってる偶像を崇拝する者や悪魔崇拝者であり、彼らが神に選ばれた者ではないし、神から権威を与えられたのでもない。せやから、世の諸教会や諸教派に所属したり、彼らを信じて従うのもやめよ。もしやめへんなら、地獄行きになっても文句言えへんで。

二、洗礼者ヨハネをどう見るかでその人の立場が分かる
主イエスが祭司長らや長老らの主張や問いに対して答えて言わはったとここでもあるとおり、「答える」からにはその前に必ず誰かの主張や問いの発言があって然るべきで、それが無ければ、答えるというのは有り得ず、おかしいからや。前回記事「実を結ばな滅ぶ」で拙者が言うた本来あった筈の言葉が削除されたのではないかという疑いはそれである。
さて、主イエスは、立場を弁えずに偉そうに歯向かってきた祭司長や長老に向かって、「我もあんた方に一つの事を尋ねよう。もしそれに答えるなら、我も何の権威でこれらをするのか、あんた方に言おう。ヨハネの洗礼は何処からやったか。天からか、それとも、人からか。」と言わはった。洗礼者ヨハネの業が天からか、人からかという質問で、これは洗礼者ヨハネのことをどう見てるのかを確認するという意図の質問やった。もし主イエスを神、メシアと信じてるなら、主イエスよりも先に来て主のために整備するべく悔い改めを説いていた洗礼者ヨハネをマラキ書の預言にあるエリヤであると理解出来た筈であり、洗礼者ヨハネの業を迷うことなく「天から」と回答することが出来ただろう。しかし、彼らは内輪で議論して、即答せえへんかった。何故か。それは彼らが主イエスをメシアとも洗礼者ヨハネをエリヤであるとも信じてへんかったからや。せやから、「もし『天から』と答えれば、それ故に『何故彼(ヨハネ)を信じひんかったんか』と我々に言うだろう。しかし、もし『人から』と答えれば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者として看做してるから。」と、彼らは場合分けして想定し、どちらを回答しても自分たちに不利と考え、「分からん」と言うて、主イエスの質問に答えることをせず、逃げた。さすがに彼らは抜け目が無く、安易に「人から」と本心を言うことを憚った。かように憚った理由は、その議論の内容から、祭司長や長老どもは、群衆を恐れてたからやと分かる。何故、権威を持つ筈の彼らが群衆を怖がる必要があったのか。答えは簡単で、権威というのは一種の宗教のようなもので、信じさせて従わせる者と信じて従う者の両者が揃って初めて権威や権力というのは確立するからや。もし信者が信じて従うことをやめれば、その権威と権力はすぐに瓦解するからや。宗教が勃興する際も、信じさせる教祖が現れて、それを信じて従う信者が居てこそ宗教として成立するからや。
そして、言うておくが、拙者は宗教家でも教祖でもない。たとえ当ブログの支持者が減ろうが、居なくなろうとも拙者はあんたらから利益を得てる訳やないさかい、困ることもない。聖書と当ブログを読まへん者や拒絶する者自身が地獄行きになるというその人自身の損失になるだけやからや。しかし、世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)や諸教派や他の宗教(創価学会や統一教会等)は、信者から政界や経済界や司法界で働く人を生んで社会を思いのまま動かしたり、信者から献金という名の金銭的利益を受けたり、奉仕という名の信者のタダ働きによる労働力を得たり、性欲を満たすために性的暴行をしたり、そういった目的を持ってたり利益を狙っており、それ故に彼らは信者を多く獲得するために敷居を低くし誰でも歓迎し、来た者を繋ぎ止めるのに必死になる。しかし、拙者は彼らとは異なり、それらの利益を一切享受してへん故、宗教家ではないし、新たな教えをする教祖でもないことは明白や。それにも拘らず、心と頭が非常に悪く、正当な根拠も証拠も無いのに拙者に敵対する一部の愚か者どもが拙者を教祖やカルト呼ばわりした中傷及び嘘をつくことは大きな罪や。現に、彼らの言い分は聖書的根拠が一切無い嘘でしかなく、彼らが悪魔の子であることを自ら証明してる。パウロ教(カトリック、正教会、プロテスタント等)や統一教会や創価学会や仏教やイスラム教等といったその辺の偽りの宗教と一緒にするな。聖書(パウロ書簡を除く)は宗教やないし、拙者は純粋に聖書に依拠して、世の誤りや偽りを弾劾し、世に広く信じられてる自称聖職者どもが吹聴してやまへん偽使徒パウロ由来の偽福音やのうて、主イエスと十二使徒に由来する正しい教え(真の聖書福音と預言)について言うてるからや。



そして、世にはびこる人を騙して搾取するだけで救わへん宗教のみならず、政治的権力、世俗社会も同じことや。現代で言えば、大統領や内閣(総理大臣と国務大臣)らが世の権威を持ち、彼らの悪に気付かずに盲従するか、たとえ気付いても目をつぶって従う愚かな庶民が居てこそ、彼らの権威と権力が維持されるからや。もし庶民が抵抗して誰も従わぬのなら、彼らの権威は失墜し、即座に崩壊するからや。現代においては、大統領、首相、議員等というのは実権を持たぬ操り人形及び役者に過ぎず、ロスチャイルドやロックフェラーやビル・ゲイツといった大富豪や選挙も無く短い任期でもない官僚が裏で表舞台に立つ役者である政治家を操る。無能で知性も無く、自分の利益のためなら売国を平気で行う人間どもが不正選挙で政治家や大臣になる。実際、彼らは役者に過ぎひん。官僚が作成した原稿無しに何も喋られへんことからも明らかやろ。世間では重鎮と呼ばれる一部の政治家も高級官僚らは、ローマ教皇やイエズス会の手の内にあり、バチカンのために働いてるのが現状や。庶民が彼らに従わず、大勢で団結して抵抗すれば、即座にこの悪い権力構造は崩壊し、世を立て直すことも可能やのに、世の多数派が愚かで、無抵抗で、漫然と彼らに従い続けてるから悪の権力は維持され、悪魔崇拝者の支配層による暴虐が長年続くんや。
しかし、権威の失墜は、時間が掛からず、すぐにでも起こり得る。せやから、「権力者に従わねばならない」という意識が強い間だけ、権力は維持される。しかし、ある時に目が覚め、もはや為政者とは認めへんとか、敬わへんと決めたなら、途端にあからさまに従わなくなり、排除さえするものです。せやから、権力者は自らの権威や権力や地位を失うのを恐れており、それ故に庶民を洗脳し、支持を確保し、時に強引に無理やり従わせることさえする。幕末も同じで、ペリー来航以後の江戸幕府の弱腰外交を見て、多くの人々が徳川将軍に権威を感じなくなり、従わなくなる者が増えて世直しを目指して倒幕へと傾いたように。もっとも、これは悪しき西洋かぶれと英国による間接植民地支配の始まりであった明治維新を肯定してるんやのうて、権威の維持と崩壊について言うてる。過去の歴史と同じように、現代の悪徳政府に対する態度や大富豪の支配層に対する庶民の態度も同じことが言え、彼らの言う事におとなしく聞き従うから、世の権威は権力を持ち続けられるんや。しかし、人々が従わなくなったら、その権力は失われる。せやから、庶民が明治維新以来続いてる偽りの権威を信じて従うのをやめれば、世は動くやろし、簡単に変えられる。神に認められる正しい人間になるには、洋服を着るのを即座にやめ、その他諸々の西洋かぶれをやめ、この世の偽りの権威に盲従するのもやめ、聖書を読み、神の律法を守り、憲法等の基礎知識も入れて知識武装し、賢くなり、悪人らの悪事を弾劾したり、獣の刻印を押されることのないように終生努力すべきです。
話が逸れたが、マラキ書どおり、主イエスの再臨前に主のために道を整えて神の民を用意する者、即ち、エリヤと言えるような男に注意を払うようにと過去記事「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」でも述べたように、エリヤに対する認識や態度でその人の立場が明らかになるし、神からの待遇にも影響が出る。もしエリヤを無視したり、軽んじたり、中傷したり、迫害すれば、その報いは推して知るべし。
さて、多くの人が気が付いてへん話をしよう。それは洗礼者ヨハネと十二使徒であるペトロに関する事や。ヨハネ一章三十五節から四十節を読んで分かるとおり、ペトロとアンデレは、主イエスに従う前は洗礼者ヨハネの弟子であった。この事実を軽く読み飛ばしてる人が多いだろう。ペトロとアンデレは、主イエスが公の場に出てくる前、洗礼者ヨハネが大物であると早期に信じて弟子になっていた。多くの人が、世捨て人であった洗礼者ヨハネを中傷したり見下してたのに、ペトロとアンデレは彼に弟子入りをしてた点からもペトロとアンデレは見る目があったと言える。少なくとも、彼らはこの世が悪であることを知り、それから逃れるべく、救いを求めており、それ故に洗礼者ヨハネに弟子入りしたのだろう。その姿勢自体は間違いではなく、洗礼者ヨハネに見向きもせんかったり、中傷したり、迫害した権力者や一部の庶民とは雲泥の差や。
しかし、このヨハネ一章の記述とマタイ四章十八節から二十節と矛盾するのではないかという疑問が生じるだろう。しかし、矛盾ではない。時期が異なるから矛盾してるかのように見えるだけや。鍵となるのは、洗礼者ヨハネであり、彼が領主ヘロデによって身柄を拘束されたか否かに注目すれば分かる。マタイ四章十二節において、主イエスは洗礼者ヨハネが捕らわれたと聞いたとあり、主イエスは洗礼者ヨハネの拘束後に宣教を開始しはり、その後、ガリラヤ湖で漁をしてたペトロとアンデレを弟子になるように誘いはった。対してヨハネ一章では、洗礼者ヨハネがまだ自由の身であった時や。せやから、両者は異なる時期の話であることが分かるやろ。ヨハネ一章の方が時期的に早いということや。洗礼者ヨハネが主イエスを「神の子羊」と言うたことで、ペトロとアンデレは洗礼者ヨハネの弟子を辞めて、主イエスに付いて行ったとの記載がヨハネ一章にある。しかし、マタイ四章では洗礼者ヨハネが拘束された後であり、主イエスがペトロとアンデレを漁をしてた時に誘っており、その時に彼らはすべてを捨てて主イエスの弟子になったとある。この違いはどういうことか。考えられるのは、ヨハネ一章の記載どおりにペトロとアンデレは一度は洗礼者ヨハネから離れて主イエスの弟子になったが、主イエスは「未だその時ではない」と思し召して本気を出しはらず、その様子を見たペトロとアンデレは「この人が神の子羊とは思えへん」等と疑うなどして離脱し、洗礼者ヨハネがヘロデに拘束されて彼の許にも戻れず、漁師として世俗社会に戻ったのではないかと推察出来る。ルカ五章八節で、ペトロが自分は罪深いから離れてくださいと主イエスに言うた理由にも関係する。もしガリラヤ湖で漁をしてた時が初対面だとすれば、かように言うのは不自然やからや。しかし、ヨハネ一章のことが前にあったのなら、ペトロは一度主イエスから離れた(弟子を辞めた)経緯があった故、主イエスに対して合わせる顔が無いと感じて恥じたため、ペトロが自分は罪深いから離れてくれと言うたのは辻褄が合う。ペトロのように主イエスから選ばれた人であれば、一度弟子から離脱しても、絶対に主を否定せえへんと誓った後で三度も主を否定しても、復帰が許されたが、誰でもそういう訳にはいかへんことは肝に銘じるべきや。古代イスラエル初代王のサウロのように、油を注がれたにも拘らず、ちょっと勝手な真似をしたらすぐに神から見限られ、悪霊に支配され、転落して行った例もあるからや。ヨハネ一章ではペトロとアンデレの方から主イエスに付いて行こうとした。しかし、ヨハネ十五章十六節で主イエスは、弟子たる十二使徒が主イエスを師として選んだんやのうて、主イエスが彼らを選んで(十二使徒に)任命したと言わはったとおり、人間が神の王国での地位や救いについて選ぶ立場になく、神が救うべき人間や地位を選ぶ事実がここからも分かるというもの。過去にした予定説の話もこれと合致する。人間の自由意志という不確かなもん、かつ、被造物の意向なんかで創造主である神の御予定や御意志を変動させられへんからや。せやから、ペトロとアンデレが洗礼者ヨハネの弟子として一緒に居った時にペトロたちから主イエスの方へ来たが、その時は未だ適切な時期ではなく、主イエスから選ぶ形を取るため、一度頓挫したのだろう。「すべての事に定められた時があり、天の下のあらゆる出来事には時がある。」(コヘレト三章一節拙訳)ともあるように、主イエスの弟子になるのに適切な時があったのだろう。人間が思う時機が神の御予定や御意志ではない。かように散々やらかしたペトロも内心は「自分は駄目人間だ…」と何遍も思たやろが、彼は失敗から腐って自暴自棄にならず、懸命に主イエスに従おうとし、諦めへんかったことが捨てられへんかった要因かもしれへん。読者各位もペトロの姿勢を学び、泥臭くても結構であり、失敗しても腐らず、諦めず、きちんとしたキリスト者になるための努力を怠るべきではない。諦めた時点で人生終了やからや。なお、諦めへんという点は、往生際が悪いのと勘違いせんといて欲しい。改善に向けて必死に良い努力を続けて、成長し、実を結ばな、意味が無いからや。単に「信仰を諦めない」、「キリスト者として働きます」等と口先で言うだけとか、内心で勝手に「自分はキリスト者だ」と思い込んでるだけで、実際には成長のために必要な有益な努力をせず、神の律法を守らず、生活様式を変えず、聖書や当ブログの拡散活動もせず、のらりくらりし、遊び呆けてるとか、世俗の仕事や学業等に没頭して信仰のことを蔑ろにし、その他無駄な事をしてるようでは嘘つきでしかなく、意味が無いことに注意や。かような生活態度や行いでは、客観的に見れば諦めてるも同然やからや。諦めてへんと言うには、行いによって証明せな、誰も納得せえへんで。
一世紀当時、洗礼者ヨハネを狂った奴、変わった奴、おかしな奴、悪霊を持ってる等と中傷してた人間は多かった。かような人たちは、神に選ばれぬ悪魔の子やった。同じように、終末時代、主イエスの再臨前に来るエリヤに対しても中傷したり、分を弁えぬ言動をする悪魔の子が多い。歴史は繰り返すからや。同じ過ちを犯さぬ者だけが賢いが、世の多数派はそうではない。そもそも、パウロ教信者を含め世の多数派は、終末時代、主イエスの再臨前にエリヤが来ることすら気付いてへんし、気にも留めてへんし、誰がエリヤなのかも理解せえへん。せやから、かように盲目で愚鈍な人間はあかんのや。

三、行いこそが重要
上記聖句で、主イエスが祭司長や長老に対して、「ところで、あんた方にはどう思えるか。ある人は二人の子を持っていて、長子のところに来て、『子よ、今日行って、我がぶどう園で働きなはれ』と言うた。しかし、『やりたくない』と答えて言うたが、後で悔いて出掛けた。また、次子のところに来て、同様に言うた。しかし、『主よ、我は…』と答えて言うて、出掛けへんかった。二人のうち、どちらが父の意向を行ったか。」という質問を投げ掛けはった。
さて、ぶどう園について誤訳がある。「我がぶどう園」と拙者は訳したが、市販聖書では単に「ぶどう園」としか訳されてへん。ぶどうは、前回記事「実を結ばな滅ぶ」で説明したとおり、血統イスラエル人を指す。親子関係に例えられており、これは父なる神とイスラエル人の関係で、「我がぶどう園」という発言から、イスラエル人は父なる神の所有であることも分かる。この所有を表す語句が市販聖書では外されており、これもおかしい。
そして、聖句の内容について話す。長子は、父から自分が所有するぶどう園で働くように指示された時、「やりたくない」と拒絶した。しかし、「後で悔いて出掛けた。」とあり、言葉では反抗したが、後でその発言と反抗を悔いて、実際には父の指示どおりに行動した。そして、次子も同じように父から言われた際、「主よ、我は…」と明確には返答せず濁し、「出掛けへんかった」ということで、言葉でも明確な返答をせず、更に不作為によって父の指示に従わへんかった、即ち、父の御意志を行わへんかったことが分かる。なお、口語訳では長子の方が「『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。 」と言うたことにされており、原文と逆の内容であり、非常に悪質な翻訳や。口語訳の翻訳者の悪意が感じられる。そして、拙者が次子の返答を濁した形に訳したんは原文に忠実にしたためや。しかし、市販聖書では「行きます、参ります」等と肯定的な返答をしたかのように訳してるが、これは原文には無い故、誤訳と言わざるを得ない。次子は、行くと言うて行かへんのは嘘をつくことになる故、返答を濁したのだろう。しかし、如何ように返答しようが、行いこそが重要であると、この話で理解せないかん。
主イエスの質問は、「二人のうち、どちらが父の意向を行ったか。」というもので、祭司長や長老の認識具合を試しはったと同時に、行いの重要性を強調してはる。神は、人間の言葉よりも実際の行いで評価することがこの御言葉からも分かる。まさに、「我に向かって、『主よ、主よ』と言う者全員が天の御国に入るんやなくて、我が天の父の御意志を行う者が入るんや。」(マタイ七章二十一節拙訳)と、主イエスが別途教えはったとおりで、父なる神の御意志を行う者(神の律法を守り、慈愛ある行いをし、正しい福音伝道をする等)が天国に行くのであり、行いが伴わへん口先だけの偽キリスト者は救われへん。そして、彼らは、「「長子」と彼(イエス)に言う」た。答え自体は誤ってへんのやが、主イエスは次の事が言いたいがために、この質問をしはった。それは、「確かにあんた方に言うとく。徴税人たちや娼婦たちは、神の国に向かってあんた方に先んずる。義の道にある(洗礼者)ヨハネがあんた方のところに来たのに、あんた方は彼を信じひんかったからや。しかし、徴税人たちや娼婦たちは彼を信じた。しかし、あんた方は(それを)見た時、彼を信じるために後で悔いることもなかった。」という御言葉や。
この点、市販聖書は「徴税人や娼婦たちの方 が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」といった誤訳をしており、また先か後かという意味の無い事を言うてる。過去記事「救いに値する完全な者」でも市販聖書の翻訳を非難したとおり、神の王国に入るのが先か後かで何の違いがあるのかがまったく解せん。せやから、これは明確に誤訳であり、正しくは拙者が示したとおり。先んずるとは、他人よりも先を行く、他人よりも先に事を行うという意味や。要するに、神の王国に入るという目標に向かって、洗礼者ヨハネを信じた徴税人や娼婦が悔い改めて、祭司長や長老たちよりも神に仕える者として先を行ってるという意味や。新共同訳、口語訳、新改訳等の市販聖書では、「あなたたちより先に神の国に入るだろう」という訳をしており、これでは先に入るか後に入るかの違いだけで、徴税人や娼婦も祭司長や長老も共に神の王国に入るかのような物言いに曲解されてるのが大問題であり、原文の内容に反する。しかし、原文に忠実な拙者の翻訳を見て分かるとおり、市販聖書の翻訳は原文とは異なる。上述のとおり、洗礼者ヨハネを信じて悔い改めた徴税人や娼婦が、洗礼者ヨハネを信じず悔い改めへん祭司長や長老よりも先んじており、優位に立ってるだけのことで、ほんまに神の王国に入るかどうかは未確定や。なぜなら、誰でも最期まで神に忠実であらねば救いはないからで、途中では何とも言えへんからや。そして、洗礼者ヨハネを信じず、悔い改めへん祭司長や長老も神の王国に入ることが確定してへんばかりか、遅れを取ってるのであり、神の王国から遠く、救われるのが危ういというのが主イエスのお話の趣旨や。偏差値で言えば、洗礼者ヨハネを信じて悔い改めた徴税人や娼婦が偏差値六十以上で、洗礼者ヨハネを信じず悔い改めへん祭司長や長老は偏差値四十以下というようなもの。せやから、エリヤの働きをした洗礼者ヨハネを信じて悔い改めたかどうかで信仰者として優劣が出るということや。終末時代の現在も同様に、エリヤたる男が伝道する聖書に依拠する福音や悔い改めの勧告に聞き従うて悔い改めるのが重要であり、そうせえへん者は一世紀当時の祭司長や長老と同じような状態であり、同じ末路になるだろう。
また、主イエスは「義の道にある(洗礼者)ヨハネがあんた方のところに来た」と言わはり、洗礼者ヨハネが義の道にあると明確に言わはり、主イエスの初臨前にエリヤの働きをした洗礼者ヨハネを義と認めへん者は神の王国に入る人間ではないということや。主イエスの御言葉どおり、洗礼者ヨハネはこそこそと限られた人だけに教えたんやのうて、分け隔てなく多くの人々に向けて悔い改めを説き、祭司長や長老らもそれを知る機会を得ていた。しかし、祭司長や長老らは、洗礼者ヨハネの悔い改めの呼び掛けに耳を貸さず、聞き従うこともなく、彼ら自身が正しい信仰者で神に仕える者やと高慢にも思い込み続けていた。主イエスは「あんた方は(それを)見た時、彼を信じるために後で悔いることもなかった。」と言わはり、祭司長や長老らは、洗礼者ヨハネを信じた徴税人や娼婦が悔い改めて良い方向に変貌していく様を見ても何とも思わず、洗礼者ヨハネの言う事に従わへんのを悪い事とも思わず、悔いて洗礼者ヨハネに聞き従おうと考え直さへん事も非難しはった。せやから、同じく主イエスの再臨前にエリヤの働きをする男を義と認めへんとか、その言う事や行いを認めへん者、言われた事を聞いて悔い改めへん者も当時の祭司長や長老らと同じく救われ難い宗教信者でしかあらへんということや。主イエスの再臨前にエリヤの働きをする男が誰かというのを見誤ってもあかん。騙されへんためには、やはり聖書を注意深く読んで正しい知識を持たないかん。過去記事「預言者と偽預言者の違い」でも言うたとおり、預言者と偽預言者では明確な違いがあり、かつ、洗礼者ヨハネの特徴を覚えときや。主イエスの初臨前にエリヤの働きをした洗礼者ヨハネの特徴は、男性である(生まれつきの性であり、性転換や男装によって男と偽装する者を除く)、世の諸教会や諸教派に属さへん、世俗権力に与せえへん、多くの所有財産を持たへん、金持ちではない、世の悪に染まらぬ世捨て人、奇跡等と目に見える業をせずそれによって人々を惑わさへん、パウロ教信者ではない、神の律法を守って擁護する、他人の律法違犯(不法行為)を咎める、主イエスを証しする、自分の栄光を求めへん、聖書(パウロ書簡を除く)から外れた教えをせえへん、他者に先立って分け隔てなく多くの人々に向けて悔い改めを説く男や。せやから、既にエリヤらしき活動をしてる人より後で真似て同じ事を言う人といった二番煎じ以降は該当せえへん。それらの特徴をすべて満たす男がキリストの再臨前のエリヤであると、まともな人間なら理解出来る筈や。一つでも欠けていれば、それはエリヤではない。女は対象外、不信仰者や異教徒らは論外、ファリサイ派の偽使徒パウロ教信者どもも論外、権力者も論外、金持ちも論外、社会的地位や名誉を持って世の友になってる者も論外、神の律法を守らぬ者や擁護もせえへん者も論外、主イエスの御名を出さへん者や聖書に書かれてるキリストの教えから逸脱する者も論外、夢や幻や不思議体験を聖書の御言葉よりも優先してる者も論外、自分大好き人間で自分語りや自慢をする者も論外、先駆者やのうて誰かから教えを見聞きし、人の真似をして二番煎じなだけやのに自分大好きで自分の功績かのように振る舞い、自分の許に人を集めようとする(散らす行いをする)者も違う。
また、終末時代は、過去記事「聖書の終末預言 一」で言うたとおり、不法(神の律法に反する行い)が増大し、偽預言者も増え、多くの人々を惑わし、過去記事「聖書の終末預言 二」で言うたとおり、偽メシアや偽預言者が大きなしるしと奇跡を起こして選民をも出来れば惑わそうとするからや。せやから、エリヤは誰かと吟味する際は、上記の要件にすべて該当するかが重要であり、目に見える奇跡に決して惑わされるな、そんな事は悪魔でも出来るさかい、奇跡やしるしなんかで人を判断するなと拙者は何遍も言うたやろ。せやから。この警告を忘れんなや。
せやから、エリヤにはなろうと思って簡単になれるものではないと上述の要件から明らかやが、エリヤぶった偽り者に注意しなはれ。言うておくが、エリヤたる男は終末時代にはただ一人だけが該当するのであり、複数人居るんやないで。上記の過去記事でも述べたとおり、一世紀当時では洗礼者ヨハネ一人だけがエリヤであり、十二使徒ですらエリヤではなく、他のキリスト者もそうではなかった。主イエスは、洗礼者ヨハネを「来るべきエリヤ」、「預言者以上の者」と評しはり、同じく終末時代のエリヤもその辺の世俗社会にどっぷり浸かってる役立たずのにわか信者な訳がない。エリヤは神から与えられる特別な役割であり、人間自身が「自分がエリヤになりたい」と望んでなれるものではない。神に主権があり、人間には無いと言うたやろ。洗礼者ヨハネ自身も、エリヤになりたいと思て生まれてきた訳やないし、それを意識して生活してた訳やない。神から予め仕組まれ、そのようになったんや。すべては神の御予定と御意志に基づく。せやから、人間自身が「よし、エリヤになろう」と意気込んでなろうとしても、それを果たせへんやろし、エリヤではないとも言える。なぜなら、それはその人間自身の醜い欲から出たものやからで、神の御意志や予定から外れてるからや。そして、エリヤになれない、エリヤではないからとて、無価値ではないからな。それも誤解せんように。エリヤでなくても、偽りの自称キリスト者にならず、真のキリスト者になれば、同じように神の王国に入れるんやさかい、「自分ではない他の男をエリヤと認めたくない」なんてけったいな対抗心を燃やして邪魔したり、嫉妬したり、足を引っ張ったりして悪い道を歩むべきではない。むしろ、そないな想いや悪行は神とほんまもんのエリヤに反抗してる事実に気付いて悔い改めるべきや。繰り返し言うが、エリヤになろうとしてなれるものではないし、エリヤたる人は必然的にそうなるものやからや。せやから、かように無駄な気負いや対抗心は捨て、自分自身を弁え、冷静に客観視することの方が遥かに重要で、分不相応な事をしても実現でけへんばかりか、その品性の悪さからかえって神から見捨てられて滅びる可能性が高くなる。聖書(マルコ九章)にあるとおり、十二使徒も自分たちの中で誰が一番偉いのか等と議論してたことがあり、主イエスは「仕える者になりなはれ」と言わはった。主イエスが仕えるような人であったことに倣えというものや。食事の席で、料理を作ったり机を掃除して食器等も揃えたりと給仕する者が仕える者で、何もせんと楽して食べるだけの人は仕える者ではない。拙者が過去記事「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」で言うたとおりや。なお、これは仕えることの例えであり、炊事が特別に尊いという意味やないさかい、勘違いすなよ。読解力の無い者は、これを読んで炊事をする主婦(主夫)が偉いのだと勘違いしかねへんからや。家事も日銭を稼ぐことも多くの人間がしてる事で、何ら特別な仕事ではないからや。家事労働者よりも外で金銭を稼ぐ者の方が偉い訳でもない。世間の多くの人間が同じ事をしており、何も特別やないさかい。それぞれの役割があってのことであり、それぞれ自分が特別な事をしてると思うな。せやから、家族における自分の役目をこなしただけで、他者に威張るな、不満を言うな。役割を果たして飯が食えてるんやから、それを忘れるな。働いて稼ぎもせず、家に居て家事もせえへんような人は役立たずやろ。神や他者にとって有益な活動を何もせず、テレビをぼーっと長時間見たり、遊技やユーチューブ視聴に夢中で時間を無駄遣いしたり、あてもなく外をほっつき歩いたり等してる人よ、悔い改めい。
そして、あんた方は、自分が一番になろうとか、余計な事を想い煩うな。男は競争意識が強い人が多いのは承知してる。本能的にもそうなり易い。聖霊を受ける前の修行中の十二使徒もそうやったからね。日本で応仁の乱以後の戦国時代で群雄が割拠し、戦いに明け暮れて多くの血を流したんも男の競争意識が強いからや。自分こそが天下を取って支配するんだ、一番上に立つんだという意識が強い。不信仰故にかような争いが起こるんや。女も上下関係の競争意識や嫉妬や陰湿ないじめ等があるだろう。西洋かぶれが悪化した昭和二十年以降の現代社会では学生時代から偏差値の高低を気にし、それ故に学歴社会が生じた。他人よりも上に立ちたいという欲は、優越感に浸って他者を見下すといった大概ろくでもない動機であり、肉の思いに基づくもので、聖霊に導かれた人には無い。洗礼者ヨハネは、誰にも対抗意識を燃やしてへんかったし、争いもせえへんかった。主イエスのお出ましにより、洗礼者ヨハネは、主イエスが栄えて自分は衰えると言い、分を弁えていた(ヨハネ三章三十節参照)。かように、洗礼者ヨハネは「自分がー」とでしゃばった人ではなく、この世の富や地位等に目もくれず、主イエスに成り代わろうと偽メシアになろうともせず、客観的に自分自身を見て弁えられる人やった。この世の富や地位等に貪欲な世間の偽りの宗教指導者どもなんかとは大違いやろ。
キリスト者になるにあたり、この世と世のものに対する欲は捨てるべきやが、成長意欲は必要不可欠や。キリスト者は、神の律法や秩序を守り、神や信仰の兄弟や隣人にとって有益な活動をせないかんからや。前にも言うたとおり、主イエスがモーセの律法に加え、新しい掟として守るように御命令しはったとおり、キリスト者(パウロ教信者を除く)は兄弟として互いに愛し合うべきであり、競争相手でもなく敵でもない故、貶めるべきではなく、協力すべきや。また、誰かに勝つためや上に立つためには誰かを蹴落とそうとする、他人の足を引っ張ることで自分が上に行こうとする、ちょっと成長したと思ったら横柄になる、誰かを妬んだり恨んだりする性格の悪さを持つようでは真のキリスト者ではない。かような品性では、神の王国に入られへんで。競争は争いであり、永遠に続く平和な後の世に争いを好む人間なんかお呼びでなく、主イエスは絶対にそないな人間を神の王国に入れへん。拙者が偏差値の話をしたのは、各自の成長度合いの目安や指標でしかなく、他者との競争ではない。主イエスが教えはったとおり、神の民は幼い子供のように素直で無邪気であらねばならん。主イエスの教えや神が定める人の役割や運命等について、反抗や言い訳をせず、素直に受け入れないかんということや。上記のエリヤたる要件を満たす人が居れば、それと分かれば、素直に聞き従うことです。「いや、自分がそうなる、自分こそが相応しい」等と思うなら、神の御意志に反抗することになり、神はそないな高ぶる人を拒絶しはる。主イエスは自我の否定も教えはったんやから、それに明確に反するさかい。分を弁えよと拙者は何遍も言うてきたとおり、ほんまに身の程を弁えへん人間が多過ぎるから言うんや。自己愛から自分を過大評価し、愚か故に自分自身を客観視出来ず、自分を高めようとしたり自分を良く見せようと背伸びして見栄を張る人が多いが、あかんで。また、世俗の学歴や資格や経歴や所有財産等といったしょうもない事を自慢げに開示して高ぶる人、極端に卑下して自暴自棄気味になってる人、そないな人は自分で神の民ではない、永遠の命に相応しないと言うてるようなものなのに、自分自身ではまったく気付いてへんからね。痛々しいことこの上ない。

終わりに、終末時代を感じさせる出来事を共有しよう。
こちら(メモ・独り言のblog)のとおり、いよいよ電子身分証(Digital ID)、電子通貨、社会信用得点制度が始まる可能性が現実味を帯びてきました。個人番号券(マイナンバーカード)もこれらの結び付けるために今まで政府はゴリ押ししてきて、売国裁判官どももこれを後押しした。このことは何年も前から新世界秩序(NWO)についての過去記事で散々警告してきたことや。しかし、未だに多くの人々は分かっておらず、抵抗もしてへん。なんで未だ分からへんの。なんで抵抗せえへんの。何もせずに座して死にたいのか。しかし、獣の刻印を受ける者が世の多数派であり、それを拒否出来る者は選ばれし者しか居らへんため、あんたらに大きな期待を持ってへん。英国でスターマー政権が大勢の庶民の反対を無視して電子身分証を導入を強行し、スイスでは電子身分証法案が二千二十一年に反対されたのに懲りずに再投票を実施し、賛成票(50.4%)反対票(49.6%)とほぼ差が無い僅差で導入が可決され、ベトナムでは電子身分証未登録の銀行口座八千六百万件が強制的に削除され、ロシアは支那式監視国家のアプリ「WeChat」を模倣した電子身分証を導入し、支那は「WeChat」を用いて政府が庶民に社会信用得点を付けて管理してる。世界各地で足並み揃えで電子身分証を無理やり導入してる現状は偶然ではない。コロナ偽感染症も足並み揃えで同じ事を各国がやったように、これもまた同じ事を各国が一斉にやり出してることから、明らかに各国政府は自立しておらず、保守が居らず、支配層の手下である売国奴ばかりで占められ、悪魔と悪魔の代理人の命令に忠実に動いてるのが分かる。この時期に電子身分証のゴリ押しは、拙者が過去記事で二千二十六年から新世界秩序(NWO)が導入される予定と言うたのと合致する。ほんまに時間が無い。日本も改憲されたら終了であり、ナチス条項とも言える緊急事態条項の濫用で個人番号券(マイナンバーカード)の使用が義務化され、悪徳政府から監視管理され、平和主義を捨てて戦争になり、支配層とその手下の政府に反対するまともな人間は迫害されて生きられず、臆病で、悪魔と支配層に媚びる悪人だけが生き残る。そして、支配層も家畜となる被支配層の庶民も同じように目に見えぬ獣の刻印を押され、後で地獄行きになって永遠に苦しむだろう。せやから、この世の生に執着してると後悔するで。
ほんまにすぐに夜が来ます。夜が来れば、もう誰もまともな活動がでけへんでしょう。違憲であろうが、お構いなしに不法行為をやるのが反キリストの悪魔の子らです。正論が通じまへん。かように認識しましょう。正論を言えば、相手は納得して改める訳ではないのです。政治家や官僚や金持ちも貧乏人も皆そうでしょう。法を基にした論理や正論が通じず、感情にだけ支配されてる愚か者が非常に多い。彼らに法令遵守意識は無く、憲法に反しても、法律に反しても、一切無視して悪事を働いてますよね。コロナ犯罪から分かったやろ。せやかて、彼らと同じ悪事をしてええって訳やない。権力者や多数派の庶民が悪事をしたとて、あんたが同じ事をしてええってことやないで。同じ事をすれば、彼らの仲間入りをすることになり、滅びるからや。滅びたないなら、過去記事「多数派に属す者は破滅に至る」で言うたとおり、権力者に追従したり、多数派に属して安心すべきでもない。むしろ、彼らと反対のことをすべきや。
各国政府は「偽情報と戦う」などと言うて、SNSをはじめとするネットでの自由な発言を規制しようと企んでる。それを建前にして真実の情報を共有させへんとか悪の支配層への批判をさせへんという悪しき目的のため、言論弾圧をするためや。しかし、政府や報道機関こそが嘘ばかり言うており、「どの口が言うか」、「おまいう(お前が言うな)」ですよ。直近で言えば、コロナなんていうのがその最たる大嘘であり、在りもせえへん物を在ると嘘を言うて、有害無益で矛盾だらけの対策を世界中の人々に強いて、大量虐殺し、人権と自由も奪ってきたくせに、反省もせず、罪を償わず、まだ悪事をやる。悪魔崇拝者の支配層とその傀儡の政府も、また、彼らに追従する庶民の多数派も、限りなく邪悪やと思い知ったでしょう。

世間では鬼滅の刃が人気やが、悪魔崇拝者である金持ちの支配層、支配層の傀儡の政府や省庁の官僚ども、技術官僚(technocrat)、金のために何でもする拝金主義者、彼らは目に見える悪鬼であり、何故彼らを「責任から逃げるな」と言うて必死に退治しようとは微塵も思わんのか、甚だ不思議や。大衆はそれが分からぬ程に愚かであり、臆病で、行動力も無い。大衆も同種の悪鬼やからやろな。



拙者が教えてきたとおり、世の権威を信じて従うことはカルト宗教や。この世で支配層と被支配層が分かれるのも、庶民が被支配層であることを甘んじて受け入れ、つまらぬ肩書きを持った大金持ちの支配層とその下僕である政治家や官僚や有名人どもに安易に従うからや。

また、こちら(Yahooニュース)のとおり、石破氏の後に自民党総裁に就任した高市早苗氏は、「ワークライフバランスを捨てる」と発言した。相変わらずの西洋かぶれで片仮名英語を当たり前のように使い続ける神経がおかしい。この点については、日本国民もまたおかしい。高市氏は統一教会とズブズブの安倍晋三信者であり、彼の嘘つきの悪い癖を引き継いでおり、非常に危険や。こちら(Yahooニュース)のとおり、統一教会が高市氏が自民党総裁になって祝意を示し、同じく統一教会と深い関係の萩生田光一氏を幹事長代行という役職に敢えて起用したことから、自民党は相変わらず南朝鮮の統一教会の支配下にあると言える。こんな反日敵国である南朝鮮のカルト宗教団体の支配下にある政党と議員が日本と日本人のために働くと思える方がどうかしてる。統一教会と癒着してる自民党が政権を取ってるから南朝鮮のLINEも行政と癒着してるんやろな。アプリ経由で個人情報漏れまくりなんやから、LINEなんかさっさと使用をやめろと言うても、アホな日本人は全然言う事を聞かへんからな…。そもそも、政治家なんて悪事しかしておらず、何が働きますだ。彼らの働くは、悪事を働くという意味。政治家らは嘘つきで、詭弁ばかり弄し、政治家が働くのやから、国民も休み無く働けと言いたいのだろう。引き続き低賃金で長時間労働を是認する、即ち、これは日本人を世俗の労働で縛り付ける、こき使うということであり、益々日本人の時間を奪って浪費させ、悪徳政府に抵抗する気力を削ぎ、少子化も加速させるし、日本人を滅ぼす危険な思想を持ってると言わざるを得ない。その投稿欄には「早速左派メディアや左派思想の人たちが言葉狩り初めてて笑うしかない。別に国民に対してワークライフバランスを止めましょうなんて一言も言っていないのにどうして左派の人たちはすぐに怒るんだ?」というのがあった。突っ込み所満載やな。まず、南朝鮮の統一教会と癒着してる自民党員を批判する者を勝手に左派と決め付けてるのかというのが大きな誤り。拙者が過去にも説明したとおり、自民党は極左売国奴の集団や。せやから、左派の売国奴に反対する人は右派や。そして、世俗の労働は、創世記から分かるとおり、神に反逆した罪の結果もたらされたもので、そればかりに固執してたらあかんのが分からん人は滅びる。今もなお不信仰であったり、神の律法に反して罪を犯し続け、神に反逆してる事を反省してへんし、悔い改めもせえへんからや。また、別の投稿では「ワークライフバランスなんて概念がなかったから、日本の国は戦後必死にみんなが焼け野原を立てなおそうと頑張ってくれたおかげで、戦後の奇跡的な経済復興を成し遂げることができたかと。働き方改革やゆとり教育などを言われてから確かに日本の国全体が経済的にも精神的にも衰退してきているのは確かなことかと。」と言うてるのもあった。かような思想の持ち主は危険やな。事実誤認の上、勘違いしてるからや。そもそもの話、その昭和の戦時世代の人間が愚かであった結果やという事実を忘れ過ぎや。過去記事「真の栄光は艱難を経て得られる」でも紹介したとおり、戦争経験者であった伊丹万作氏は、戦争責任について、騙した政府と騙された庶民の両方の責任やと言うたとおりで、拙者もそう思う。フリーメーソンや国際金融資本や武器商人らの欧米人に唆された薩長の売国奴が武力で国家転覆して作った政府とドイツとフランスの憲法をかいつまんで作った明治憲法下で臣民扱いを受けたことにも抵抗せず、明治以降の偽りの天皇に万歳と愚かにも言うて、英米の傀儡である悪徳政府に騙されて追従し、反戦派のまともな日本人を迫害したやろ。そして、強引に米国との戦争に踏み切り、何十万人以上もの日本人が命を失い、空襲を受けて焼け野原にされ、過去の古き良き景観と文化も消され、米国に間接統治され、義務教育に英語を入れられて無理やり勉強させられ、敵国の服装である洋服を着たり片仮名英語の乱用をする等という西洋かぶれすることを恥とも思わぬようになり、現代日本人のような3S政策で腑抜けにされて堕落を極めた日本社会にした昭和人間の大罪を忘れてる。復興と言えば聞こえはええが、そもそも戦争をせず、米国の攻撃で破壊されなければ、復興作業の必要がなく、がむしゃらに働く必要も無かった。元を辿れば、明治維新に必死の抵抗せんかった責任(薩長に抵抗した会津や奥羽列藩等は除く)やペリー来航時の江戸幕府の弱腰外交の責任に遡るし、もっと辿れば、英国やオランダと通じてた徳川家康の謀反と関白豊臣家からの政権簒奪が日本衰退の始まりであったことを忘れるな。諸葛亮のように、たとえ自身が君主よりも優れていても、一度臣従を誓ったのなら終生臣下の道を守り、劉備の死後、その子の劉禅を君主とし続けて分不相応に政権の簒奪をせず補佐に徹したように、もし徳川家康が臣下の道を外れず、豊臣秀吉の死後も秀頼に謀反せずに補佐して仕える人生を送ってたら、日本の在り方は違っていただろう。
話を戻し、高市氏の働きまくる発言については、実際、日本人の性質を考えれば、国民に適用されへんなんていう都合のええ話は有り得へん。「国会議員が休み無く働くと言うてるんやから、我々庶民も休み無く働かねばならん」、「休みが欲しいと言う奴や働く時間が少ない奴はたるんでる」等と非難して同調圧力を加えるアホな日本人が増えることは目に見えてるからや。長時間労働を肯定する昭和の老害どもは、うっとおしいこと極まりない。かように不信仰で聡明とは言えへん人たちが、人権や自由を大事にせず、蔑ろにし、破滅の道を選ぶからや。日本国憲法の草案は、日本人が明治憲法下での数々の悪行の反省を踏まえて起草したのであり、GHQ案ではない。GHQは内容を精査して承認しただけで、彼らが制定したのではないのに、「押し付け憲法」という大嘘を極左売国奴どもが吹聴し、改憲の正当化事由にしてるが、国会議員を含む公務員らが憲法を擁護せえへんのは憲法九十九条違反の不法行為であり、大きな誤りや。憲法九十七条の話もしたとおり、永久の権利と書かれる程に人権は大切や。なぜなら、明治憲法下では人権が無く、それ故に世の権威への服従を強いられ、過去の戦争の惨禍を招いたからや。その反省を踏まえて憲法九条や九十七条等は出来たのに、それらを削除するなんて歴史を学んでへん証拠やし、故意に同じ過ちを繰り返そうとする愚者であり極悪人であり外患誘致罪を犯す犯罪者や。せやから、歴史を軽んじて勉強せえへん奴らはクズや。
また、民間企業において、いつまでも長時間労働や経営者や株主等にだけ都合がええ有期雇用や低賃金で従業員を雇って酷使したり、派遣会社経由等で中抜き等を続けるようでは、その不当な利益を享受してる貪欲な輩どもは破滅を見る羽目になるだろう。ヤコブ五章四節にもあるとおり、他人の賃金を不正に低くしたり、適切な賃金や賞与や残業代等を払わず、労働者が苦しんだ場合、神はその不正をした者を赦さへんからや。法令遵守意識が薄い愚か者が多い日本では、安息日の遵守は益々遠のくでしょうし、聖書を読んで学ぶ時間や心のゆとりも失われる。バチカンと関係が深いカトリック信者の麻生太郎氏が彼女を支持したことから、バチカンの意向を汲んだ人事なのだろうと拙者は理解してます。



更に、彼女はエボラを理由にして、「緊急事態条項は絶対必要」と言うたことがあり、これもナチスの独裁を肯定する発言で看過し難い。過去記事「全力で改憲反対してワクチンも拒否せい」で紹介したとおり、麻生太郎氏も「ワイマール憲法もいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わってたんですよ。誰も気が付かないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。」と言うたことがあり、危険人物や。高市氏を総裁としたのはお飾りであり、安倍政権時と同様に副総裁になった麻生太郎氏が実権を握り、主要な役職を麻生派の自民党議員や統一教会信者で固め、バチカンの思惑を日本の政治に反映させるためや。いつまでも懲りずに自民党を支持してる奴らは売国奴やし、日本を破滅させる大罪人や。さりとて、自民党以外も売国奴だらけであり、参政党や維新の会も自民党から派生した売国政党であり、維新の会は「自民党と一緒にやらない」と公約にまでしてたのに裏切って自民党と連立するやろ。偽日本人が設立したんやから、嘘をつきまくり、売国しても何ら不思議ではないが、彼らを支持したり放置し続けてる日本人の庶民も同罪や。与野党グルと言うたとおりで、そもそも、三百万円以上という高額な供託金制度は経済的に差別しており、違憲であり、その選挙結果はすべて無効と言わざるを得ない。三百万円を簡単に出せて没収されても平気な金持ちしか立候補が出来ず、更に不正選挙で票は数えられもせず(投票締め切りとほぼ同時の当確報道から分かる)、予め支配層から選ばれた売国奴しか国会議員や都道府県知事や市町村長になられへん状態に長年なってる…。せやから、選挙なんかで政治を変えられると思うな。日本を立て直すなら、多くの純日本人の庶民が目を覚まし、団結して立ち上がり、英米の偽ユダヤやイエズス会の傀儡になってる政治家や官僚やその他公務員らの売国奴全員を失脚させ、明治維新以後の仕組みを破壊して統治体制を変えないかんやろが、無理やろな。聖書預言には無いさかい、実現が見込まれへんからや。現代日本人の堕落具合とこの数年の体たらくを見てると余計に期待でけへん。
話を労働に戻し、長時間働けばええってもんやないことを今一度認識してもらいたい。二千十八年夏の過去記事「もっと気楽に生きよう」、二千二十二年秋の過去記事「日本人の問題点 一」、二千二十三年冬の過去記事「日本人の問題点 三」等と過去に再三、拙者は日本人の労働観の異常さを指摘し、改善を勧告してきた。しかし、未だに改善しようと思う日本人が居らんのは何故や。ほんまに時間が無いで。時間は貴重な資産であり、人生そのものやで。人生は有限の時間の中にあるからや。せやのに、後の世、永遠の世界の事を考えず、この短い現世の事しか見ず、しょうもない西洋かぶれした間違いだらけの世界にうつつを抜かしてる場合やないで。それでは後で地獄行きになるからや。
日本人の労働観の悪さの一つに、生産性の低さや能力の低さを時間で補おうとしてる点や。これを認めず、改善しようともせえへんから、日本人はいつまで経っても不幸のままなんや。ドイツにGDPを抜かれたとおり、ドイツといった欧州は有休も給与額が日本よりも多く、病欠の際にも有休を削らずに済み、残業もほぼせえへん欧州人に日本人が負けてるという動かぬ証拠です。一日二十四時間と仮定した場合、一日八時間の労働というのは三分の一も占め、更に通勤に往復二時間程度も掛け、睡眠も八時間確保し、食事や風呂の時間等も考慮すると自由に使える時間は非常に少ない。せやから、労働時間が長過ぎで、もっと削るべきやろ。実際は一日八時間どころか、十時間超等と働き、多くの時間を犠牲にしても欧米に負けてる現実がある。欧州人に勝つには更なる時間の犠牲を強いるなんて頭がおかしい。それでいつ自分の時間を持てると言うのか。何遍も言うたとおり、人生は時間であり、それは資産でもある。時間を犠牲にするのは資産の無駄遣いをしてるようなもので、他人(会社なら経営者や株主に搾り取られてることを意味する)の金儲けのために自分の大事な人生及び命を削られてることに他ならへん。せやから、仕事第一主義の人は、彼らの駒として生きてるだけで、自分の人生を生きてるのではない。その事の重大性をまったく理解してへん愚かな日本人が多過ぎる。早よ気付いて、悔い改めい。欧州人はその感性は日本人よりもマシで、休暇や自分の時間を大事にする傾向が強い。せやから、欧州人は、残業を嫌うし、定時でさっさと帰る人が多いし、有給休暇もきっちり取る。そんな彼らよりも休暇をあまり取らず、少ない給料で毎日のように奴隷の如く長時間労働していても、負けてるんやからほんまに恥ずかしい。時間当たりの生産性の低さ、人間の能力の差です。それらを上げへんことには、貴重な人生という時間を浪費し、犠牲にしてては滅びるで。この意識が低いから定時への意識も低く、始業時間だけに厳しいくせに、終業時間には緩いという矛盾も許してるのが日本人。終業時間も強く意識し、さっさと帰るのが基本で、残業は余程の理由が無い限り認めるべきではない。残業は、例外措置であることを忘れてる日本人が多過ぎる。残業ありきで仕事の予定を組むのは経営者の無能さが滲み出てる。役員は、労働者ではなく使用者である故、労働法の保護が無く、役員報酬を年初で一年間の報酬額を予め決めて変更でけへん規則があって月額定額やが、雇われるという弱い立場故に労働法に守られて、変動給で残業や休日出勤したら割増賃金が発生する従業員と給与体系の仕組みや立場が違うことを理解せなあかん。せやから、人様を軽々しく扱う事の証明である低賃金で採用したり残業代を未払いで踏み倒す会社、人様の命を削り搾取する労働時間や拘束時間が多い会社、有休を取らせへん会社、人を見る目が無い経営者や人事担当者が多い会社等は、闇企業と呼ばれ、皆が避けて退職したり不買運動をし、正義を行う人々によって淘汰されるべきです。
一度でも、欧州のような恵まれた有給休暇日数があり、一週間どころか二週間位まるごと有休で休む人も居るし、病欠も有休を削る必要も無い、残業は基本するなという環境に居た人なら、日本で働きたくないってなるのは必定です。しかし、それ程待遇が現地でも良くないアジアやアフリカ等といった発展途上国から日本に移民が増えてる。特定技能の外国人は日本人と同等以上の給与が保証されてるからや。なんで日本語が不自由で日本文化も知らず、それに適応せえへん外国人が日本人と同等以上の給与なのか。日本語が不自由で、日本文化の理解もままならぬのでは、日本人が外国人を補助したり、失敗の尻拭きをせねばならず、日本人の負担は増えるのに…。これは明らかに外国人優遇で、日本人差別政策と言える。なんで自国民を差別する政策ばかりなのか。これは明らかに日本政府や官公庁の構成員が純日本人やのうて、偽日本人だらけで、日本人を迫害する差別政策をしてる証拠の一つや。また、こちら(人材ミライ)にあるとおり、外国人を雇う企業に政府は補助金(資金は日本人が納めた税金)を出してる…。ほんまに日本政府は売国奴やろ。日本で外国人雇用が促進されると、日本人の雇用機会を奪い、日本人の居場所も無くし、不良外国人を日本国内で激増させて問題を起こし、日本の治安が悪化し、日本語や日本文化の維持が危機的状態や。せやのに、当事者の日本人は、売国政府の移民政策に無抵抗か、意味の無い小規模抗議だけで抵抗した気になって自己満足しとるから、どうしようもないわ。仮に「同一労働同一賃金」と言うなら、日本語が不自由であったり、日本文化を理解して適応せえへん外国人の採用を拒否するしか道は無く、補助金だのと金に釣られて外国人を簡単に雇って売国すなよ。かように、政治家や官僚のみならず、民間人も金欲しさに売国に加担するから日本は落ちぶれる一方なんや。
日本人の自殺率の高さは、やはりかように息苦しく、正しい人が報われず、金持ちや悪の支配層に媚びへつらう愚かで悪い人間がのさばる社会で、加えて最近は外国人移民の増加で日本人の立場が脅かされてるからや。現代日本人はほんまに愚か者が多く、出る杭は打たれるという感じで個性を出すと嫌い、多数派と同じ事をしないと仲間外れにしたり、外見や嫉妬等とつまらぬ事でいじめたり差別したりし、勉強や労働の時間が長過ぎて自由な時間が少なく、建前やら人の目や評価を異常に気にし、自分に正直にならず押し殺し、精神的に病んでいくからや。精神的に追い詰められるということを軽んじるべきではない。自由な時間や心のゆとりが如何に大事か分かるやろ。せやから、ほんまにこの事を軽んじるべきではない。
世俗の労働なんかに一度しかない大事な人生の時間を献げてる場合ではない。こちら(看護師さんドットコム)にあるとおり、死ぬ前に後悔することの上位に世俗の仕事なんかに時間を多く費やすべきではなかったっというのがあることもお忘れなく。



先に死んだ先人たちは、世俗の仕事なんかに人生の時間の多くを献げたことを死ぬ前に後悔してます。そないな死を目前にした状況で後悔したところで、手遅れですがね。それを知った我等は、同じ轍を踏むべきではないです。そして、度重なる増税をし、減税を渋り、日本経済を駄目にして日本人を困窮化させ、更に居場所まで奪おうと大量移民をも実施してる売国政府に猛抗議し、売国奴を辞めさせるべく動けよ。キリスト信仰も無いし、世俗社会でも有益な活動もずで、現代日本人はほんまに役立たずが多いな。せやから、滅びるんやで。さっさと悔い改めて、行動で示せ。さもないと、ほんまにもうすぐ終わるで。売国奴の売国政策と日本人庶民の不作為により、日本という国がもうすぐ滅びるかもしれへんという瀬戸際の今、「仕事がー」なんて言うてる場合か。国が滅びたら、もはや一巻の終わりやのに、それが分からんのはアホやろ。国が豊かで憂いが無い時は仕事に精を出すのもええかもしれへんが、少なくとも今はそんな時ではない。現実逃避すな。動け。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。

 


以上