こんにちは。

 


今回は、偉大な人ほど人に敬われへんことについて述べます。

新約聖書 マタイによる福音書 十三章四十四節〜五十八節(拙訳)
「更に、天の王国は、畑に隠された宝のようや。それを見付けた人は隠して、その喜びのために行って、持ってる物すべてを売り、その畑を買う。更に、天の王国は、良い真珠を探してる商業の人のようや。非常に高価な真珠を一つ見付けると、行って、持ってた物すべてを売り、それを買う。

更に、天の王国は、海に投げ入れられ、あらゆる種類から集めた底引網のようや。満杯にされると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものを器に集めたが、悪いものを外に投げた。世の終わりにかようになるだろう。天使たちが来て、正しい人々の中から邪悪な者どもをより分け、火の炉の中に投げ込むだろう。そこで、慟哭と歯ぎしりがあるだろう。」
イエスは、彼ら(十二使徒)に言う、

「これらすべて理解したか。」

彼らは彼に言う、

「はい、主よ。」
しかし、(イエスは)彼らに言わはった。

「これ故に、天の王国を教えられたすべての書記は、その倉から新しいものと古いものを取り出す家長の人のようや。」
イエスはこれらの例え話を終えた時、そこから出て行き、そして、彼の故郷に来はった時、彼らの会堂で彼らに教えはった。それ故、彼らを驚かせて言わしめる。

「この人に(ある)この知恵と奇跡を行う力は何処からや。こいつは大工の息子やないんか。彼の母親はマリアと呼ばれ、彼の兄弟はヤコブ、ヨセ、シモン、ユダやないんか。彼の姉妹たちは皆、我々と共に居るんやないんか。それなら、これらすべては、何処からこの人に。」
そして、人々は彼(イエス)に気分を害されたが、イエスは彼らに「預言者は、その故郷とその家以外では、尊敬されへんことはない」と言わはった。
人々の不信仰の故に、そこではあまり強大な業(奇跡)をしはらへんかった。


一、主イエスは神の民のためにこの世を買い戻す
上記聖句のとおり、「天の王国は、畑に隠された宝のようや。それを見付けた人は隠して、その喜びのために行って、持ってる物すべてを売り、その畑を買う」と、主イエスは話しはった。比喩の意味は、前回記事「種を蒔く人の例え」のとおり、畑はこの世であり、そこに隠された宝こそが神の民である人間で、それを見付けた主イエスはその事実を言わずに隠しはり、神の民となるべき人間を見付けた喜びのために、その人が神の民となるべく育まれるように、持ち物すべてを売ってまで、この世の所有権を買い戻すということが言われてる。ここに、主イエスの神の民に対する大きな愛が分かる。そして、勘違いすべきではないのは、神の民がこの世に存在するからとて、この世を永続させるという意味ではないということや。前回記事やその他の過去記事において、この世は滅びることが予定されてると聖書に書かれてることを拙者が散々説明したとおりで、神の民が定員に達し、この世の存続期間六千年満了より少し前には、この世はキリストの再臨時に滅ぼされる。その時までこの世が取って置かれてるに過ぎひんのであり、永遠に滅びひんのではない。再三言うが、主イエスは、不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)等を愛してるのでもない。

二、価値あるものは全力で取得する
上記聖句のとおり、「天の王国は、良い真珠を探してる商業の人のようや。非常に高価な真珠を一つ見付けると、行って、持ってた物すべてを売り、それを買う。」と、主イエスは話しはった。なお、箴言八章十一節にあるとおり、真珠よりも知恵は良いものであると言われる。なぜなら、ほんまもんの知恵とは、神から与えられるものであり、そのためにはその人が神に認められないかんからや。若い時のソロモンは、その父ダビデのように主なる神を信じて従い、神に知恵を得ることを願い出て、それによって繁栄した。当該聖句は、それとは直接関係無いものの、一般的に価値あるものとして知られる真珠を例に出され、非常に高価な真珠とは、人に例えられており、非常に高価とは非常に価値があるという意味や。非常に価値ある人間を一人、神が見付けると、すべてを売ってまでその人を買う、取得するっていうことです。たった一人であっても、非常に価値がある人なら、神はその人を全力で取得するってことです。このことから神の神の民に対する強い愛を感じるでしょう。神にとっては、「一人位なら救い損ねても別にいいや」とはならへんのです。そのことは、マタイ十八章十四節に書かれてる、「これら小さな者の一人が滅びることは天に御座すあんた方の父の御意志ではない」という主イエスの御言葉からも分かる。この世で取るに足らないと思われるような社会的地位や名声や富も持たぬ小さな者であろうと、神は御自分が選ぶ人間を必ず救いはる。この俗悪な世の人間たちは、金持ちや社会的地位を持つ者や有名人や外見的に美麗等というのを高く評価するが、神は、そないな愚かな人間の価値基準で評価しはらへん。神は、人の心を見てはり、この世で目立たぬ人や存在が小さいと一見して思われるような人を軽んじず、神の律法・掟・戒めを守る真のキリスト者ならば、神はその人を高く評価しはるさかい、そないな人間こそを軽んじてはならんのや。よう覚えときや。拙者も、この世では多くの人間に軽んじられたり、嫌われることが多いけども、そないな人は何も分かってへんし、神から遠い。
かように、神は、価値あると思えば全力で取得するっていう姿勢や行いを覚えとくべきであり、それに倣う真のキリスト者も同じようにすべきってことです。但し、使徒ヨハネの言葉から分かるとおり、この世や世にあるもは価値あるものとは言えず、あくまで神の民(真のキリスト者)という人が対象や。そして、分け隔てない隣人愛が基本ではあるけども、信仰の兄弟に対する対応はまた格別であるべきと分かるであろう。前回記事「種を蒔く人の例え」でも繰り返し述べたとおり、主イエスは多数派の選ばれぬ人への対応と、御自分が選びはった十二使徒の弟子たちへの対応とでは、大きく異なることからも理解出来るであろう。そういった対応の仕方を間違えれば、その責任は大きい。その事にも考えが及ばず、世俗的な誤った価値基準や好き嫌いで人を判断するような者は、人を見る目が無く、判断と対応を誤る故、愚か者なんや。

三、世の終わりに人間は否応無しに二分される
上記聖句のとおり、「天の王国は、海に投げ入れられ、あらゆる種類から集めた底引網のようや。満杯にされると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものを器に集めたが、悪いものを外に投げた。世の終わりにかようになるだろう。天使たちが来て、正しい人々の中から邪悪な者どもをより分け、火の炉の中に投げ込むだろう。そこで、慟哭と歯ぎしりがあるだろう。」と、主イエスは話しはった。漁に例えられており、漁師が底引網を海に投げ入れ、満杯になるまで入れられるだけ入れ、それを岸に引き上げ、良いものだけ集めて、悪いものを投げ捨てる。要するに、ここで言われてるんは、神による人間の選別です。神の民以外、即ち、不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)、口先だけで行いが伴わへん自称キリスト者等は悪い者とされ、火の炉の中に投げ込まれ、その者どもが泣いて歯ぎしりすると明言されてる。そこには「可哀想」なんていう同情はもはや無く、神は天使に命じてかように選別作業を淡々としはるからや。拙者も同情せえへん。拙者は二千十七年からこのブログを書き続けてるが、長く正しい信仰を持ち続けてる人はごく少数や。脱落した多くの者、当ブログや動画に見向きもせえへん者や愚かな野次を飛ばす者どもに対して、世の終わりには拙者は何も思わず、同情もせえへん。神の裁きを正しいと信じてるし、この世が悪人だらけという事実を既に承知しており、悔い改めぬ悪人には然るべき罰を与えるべきと思てるからや。

四、主イエスの教えを理解せん人は反キリスト
上記聖句に、「イエスは、彼ら(十二使徒)に言う、「これらすべて理解したか。」彼らは彼に言う、「はい、主よ。」」とあるとおり、主イエスは十二使徒にすべての例えを理解したかと確認しはり、十二使徒は主イエスに理解したと返答した。ちなみに、この十二使徒の返事で「はい、主よ」なのにも拘らず、改訂版(RV)底本では、「主よ」という単語がギリシア語から削除されており、単に「はい」とだけ書かれてる。明らかに、現代で多く普及してる市販聖書の底本では、イエス・キリストを「主」として扱いたくなさそうな翻訳者の悪意と敵意が分かるというものやろ。しかし、十二使徒はイエス・キリストを主と信じてるさかい、「主よ」と言うた。そして、過去記事「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」と、そこに貼った動画でも説明したとおり、ドイツの聖書学者は反キリスト故にイエス・キリストを主と呼びたくない等という悪い思いから、底本を改ざんしたと思われる。小さな点と思われるかもしれへんが、こないな塵も積れば山となり、頁数が多い聖書において誤訳だらけになると悪影響も大きくなる。せやから、正しい底本による正しい翻訳をすべきなのに、それが行われてる市販聖書は現状は一冊も無い。この世の情勢は年々悪化し続けており、人権や自由がある時間も残り少なくなりつつあり、拙者一人でやるのも時間が足りず、このまま正しい底本による正しい翻訳の聖書は出版されずに終わる可能性が高い。そのことで誰も救われへんということにはならず、少なくとも当ブログや動画を理解して実践していれば、救われる要素は網羅しており、それで問題無い。問題なのは、それに気付かへんか、認めへん者が多く、素直に聞き従わへん人間が多いことや。それは聖書に書かれてる主イエスの教えを理解してへんことを意味し、その人が反キリストであることの証拠でもある。もし理解して実践してるなら、行いを以って信仰を示しなはれ。偽使徒パウロの反キリスト教義や偽福音、及び、それらを信奉してる世の諸教会や自称聖職者や偽教師どもを信じてるようでは救われへん。

五、天の王国を知った真のキリスト者は書き残す
上記聖句に、「これ故に、天の王国を教えられたすべての書記は、その倉から新しいものと古いものを取り出す家長の人のようや。」と書かれ、主イエスはかように例えを言わはった。書記と訳したが、律法学者の意味もあり、その意で使用されることもあるが、当該文脈では律法学者は不適切であろう。なぜなら、当時のファリサイ派に所属した多くの律法学者たちは天の王国の事を主イエスから学ばず、むしろ拒絶したからや。せやから、ここでは彼らの事を指すことは有り得へん。そして、家長とあるんは主イエスを示し、主イエスのようと形容されることからも、真のキリスト者でなければ該当し得ない。よって、拙者は書記とした。そして、書記とは書き記す者であり、昔で言えば、聖書の原本となる書物を書き残す、預言者が神の御言葉を受けて書き残す等といったことを指す。マタイ十二章三十五節より、倉とはその人の内を指す。新しいものと古いものは、新契約(主イエスによる)と旧契約(モーセによる)を指す。よって、当該聖句は、天の王国を教えられたすべての書記は、その人の内から新契約と旧契約を取り出す家長である主イエスのようということや。主イエスのようと言われてるんは、真のキリスト者であり、主イエスの教えを守り、主イエスによる新契約を結んでおり、かつ、旧契約の律法も廃止されてへん故に蔑ろにせずに守り、その新旧の両方の重要性と必要性を書き記す者ということや。そないな者だけが主イエスに似てるということや。これらすべての要件を行いによって満たした者は、今までの長い歴史を見ても殆ど居らへんやろ。特に、神の律法を蔑ろにしてるパウロ教信者たる世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)に属する者やその他のにわか信者どもは論外であり、これに当てはまらず、真のキリスト者とも言えへんし、主イエスのようとも言えへん。むしろ、偽使徒パウロとパウロ教信者どもは、神の律法を守り通して律法を廃止せえへんと断言しはった主イエスとは対照的であり、似ても似つかぬ。モーセの律法を古いものと看做して無視して違犯しまくるような人や、律法を擁護する振りをしつつも実際は守っておらず誤解釈して拙者を非難するような人は、主イエスから義と認められず、救われへんという事実に気付き、早よ悔い改めい。そして、伝道活動もせえへんにわか信者も同じやで。主イエスが言わはったとおり、書記、即ち、書き残す人と書かれており、書き残すという作業をせえへん人もこれに該当せえへんからや。拙者は何遍もネット上でも伝道をするように言うてきたとおりで、主イエスの教えに則る。愚か者は、拙者が自分勝手に言いたい放題してると勘違いしてるが、ほんまにそないな者どもは聖書を理解せず、主イエスの教えも理解してへん事が明らかで、反キリストであるのが分かるであろう。そないな者になったらあかんし、そないな者の悪行を放置して見て見ぬ振りしたり、積極的に加担して罪を犯してはならない。

六、預言者等の特別な人は、その真価を理解されへん
題目に「偉大な人ほど人に敬われへん」と書いたが、これは神や神の民にとって偉大な人を指すのであり、世の権力者や大衆にとっては偉大とは評価せえへん人であると認識してもらいたい。天と地は常に逆であり、価値基準も真逆やからや。天に属する神と神の民の価値基準と、地に属する悪魔と悪魔の子(不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)等)の価値基準は、まったく異なる故、偉大と評価するかしないかも異なるのは当然やからや。世の権力者や大衆は、不信仰故に聖書を無視したり軽んじ、真のキリスト者をも無視したり軽んじるし、誹謗中傷や忌避する等の迫害もする。反対に、この世ではノーベル賞や五輪(オリンピック)の受賞者等が高く評価されたり偉人扱いされるが、神や神の民にとってはどうでもええし、むしろ悪い評価である。なぜなら、それらを達成した人は、世俗的な栄誉を得たり、金持ちになることが目的であるという悪い動機があり、それら世俗的な事に多大な時間、労力、費用を掛けた一方で、聖書を無視して不勉強であり、多くの律法違犯の罪を犯してやめへんからや。
そして、ノーベル賞については過去に言うたとおり、ロスチャイルド等といった支配層に貢献したために贈られる賞であるからで、こちら(BitChute)やこちら(YouTube)のとおり、五輪は悪魔崇拝の祭典であり、受賞に向けて意味の無い努力をして、若い時から聖書の勉強を怠る者が多いからや。そして、動画の説明でもあるとおり、カトリックやイエズス会が五輪大会を後押ししてるのも無視すべきではない。何故、彼らが五輪大会を熱心に推進するかは、五輪大会の本質が宗教であり、彼らが悪魔崇拝者であるからや。先のYouTubeの動画の後半でパウロについて言及があり、彼はパウロは偽使徒であると気付いてへんようやが、拙者が「パウロは偽使徒」と過去記事で証明したとおりで、これを無視したり反抗して、神の律法を無視して違犯してるようでも滅びることに注意が必要や。
そして、健康な体を維持したり病気になるのを防ぐのに必要以上の運動が無意味と言う理由は、前にも言うたとおり、主イエスが「生かしてるのは霊や。肉は、何の役にも立たへん。」(ヨハネ六章六十三節拙訳)と言わはり、肉体をなんぼ鍛えようとも、運動能力を上げても、外見を美しくしようとも、後の世で永遠に生きるかの判断にええように影響することはないさかい、救われるか否かという点においては肉体は何の役にも立たへんからや。神は肉体や運動能力や外見の美醜等については一切評価せえへんからや。野球選手や蹴球選手にしても、一部の例外を除いて三十代という若年で引退する人が多いし、活動期間が短いことからもその無意味さに気付くべきや。そもそも、かようなスポーツなんぞ存在しなくても、人類の存続には影響がまったく無い。日本には明治時代前までは野球や蹴球等も無かったんやから、存在しなくても誰も困らへんのや。また、現代では芸能界を中心に外見至上主義がはびこり、テレビやネットを通じて大衆が芸能人等に憧れ、真似して西洋かぶれし、一般人も整形や化粧をしたりして、必死に外見を良くしようとしてる者が多いが、実際は後の世の事には関係無い無駄な努力をしてる。ほんまにそないな悪い行いをさっさとやめよ。洗脳されてる間は理解でけへんやろけども、洗脳から覚めるとほんまに「なんて莫迦莫迦しい」っていう感覚になるよ。もしそうならへんのなら、まだまだです。
さて、聖句の話に戻す。主イエスはベツレヘム出身であったが、そこは出生地でしかなく、実際はナザレで育ちはり、そこで多くの時間を過ごしはり、公生涯に入った際はカファルナウムに移住しはった。ここではナザレに主イエスが戻って来はった時のことや。上記聖句のとおり、「彼の故郷に来はった時、彼らの会堂で彼らに教えはった。それ故、彼らを驚かせて言わしめる。「この人に(ある)この知恵と奇跡を行う力は何処からや。こいつは大工の息子やないんか。彼の母親はマリアと呼ばれ、彼の兄弟はヤコブ、ヨセ、シモン、ユダやないんか。彼の姉妹たちは皆、我々と共に居るんやないんか。それなら、これらすべては、何処からこの人に。」」と書かれており、ナザレの人々は主イエスに対する文句を言うた。この理由は、彼らは主イエスを幼少期から知っており、それ故、彼らは主イエスを普通の平凡な人間と思い、主イエスを軽んじたからや。彼らは、主イエスが聖霊によってお生まれになったことを知らず、ヨセフという名の大工と母親マリアの間に生まれた普通の男と考えており、また、ヤコブ、ヨセ、シモン、ユダという四人の弟たちが居り、更には複数人の妹たちも居り、彼女らはナザレに住み続けてた事実がこの言葉から分かる。繰り返し言うが、主イエスの弟と妹が複数人居る事実が明確であり、カトリックが強弁してる「マリアは終生処女だ」というのは戯けた妄言、かつ、反聖書的な嘘であり、信じてはならんということや。マリアが処女であったのは主イエスが聖霊によって宿った時だけであり、それ以降はマリアは処女ではなく、ヨセフとの間に多くの子供をもうけた。カトリックの嘘や罪はこれだけやない。カトリックは、偶像礼拝をし、太陽神(悪魔)崇拝をし、勝手に十戒を変え、安息日を土曜日から日曜日に変え、ミサや復活祭等と勝手に行事を作り、暦を変え、ペトロを初代教皇と嘘をつき、偽使徒パウロやその他の罪人を神聖視する等、神と神の律法に逆らう反キリストなのに、キリスト教と誤信し続ける者は自分で聖書を読まへん重過失故に知らないか、聖書を知っててもなお故意に逆らう反キリストやさかい、神に厳しく裁かれても同情の余地は無い。カトリックのみならず、正教会やプロテスタント等も同じような罪を犯しており、それらに所属する者たちは、手遅れになる前に回心せねば、救いは無いであろう。黙示録十八章四節にもあるとおり、カトリック教会の罪に加わったり、カトリックに下される神の罰の災いを受けぬように、そこから出て行くようにと主イエスが御警告しはったとおりや。無論、カトリックのみならず、そこから派生したすべてのパウロ教信者の教会(正教会、プロテスタント等)も含む。
さて、聖句の話に戻し、主イエスは幼少期から高等教育を受けた訳でもなく、こんなに普通の家庭育ちの人が、どうしてかように優れた知恵を持ち、奇跡を行う力を持つのかと訝しがった。拙者は原語に忠実に訳し、その訳語に注目してもらえれば分かるが、ナザレの人々は主イエスのことを「こいつ」呼ばわりしたんですよね。更に、「それなら、これらすべては、何処からこの人に。」と二度も「何処からこの人に。」と嫉妬や羨望と受け取れるような言葉を言うた。他に主イエスほどに優れた知恵を持つ者は居らず、奇跡を行う者も居らへんかったさかい、主イエスが三十歳を過ぎて公生涯に入った後で突如変わって、権威ある者として会堂等で教え回ったり奇跡を起こしたことで、ナザレの人々は心穏やかでは居られへんかったんやろな。彼らは主イエスに対して「こいつを子供の頃から知ってるが、こんな奴じゃなかった」、「なんで大工の息子なんかが」、「自分たちには無いのに、なんでこいつが知恵を持ち、奇跡を行う力があるんだ」等と悪い思いを抱いていたのであろう。そうでないと、先のような言葉は出て来ず、素直に称賛しただろうが、実際はそうではなかった。聖句にあるとおり、「人々は彼(イエス)に気分を害された」と書かれており、ナザレの人々は主イエスに気分を害されたんですよね。市販聖書では「躓いた」と訳されることが多いが、適切な翻訳ではない。拙者が説明したとおり、ナザレの大衆の主イエスに対する思いとは、「なんでこいつが」等と訝しがったり、嫉妬したり、そういった悪いものであり、それは気分を害されてることに他ならへん。そして、主イエスは「「預言者は、その故郷とその家以外では、尊敬されへんことはない」と言わはった。」とのことで、預言者という神に選ばれた特別な人は、その故郷とその家以外では尊敬されることは有り得るが、故郷と家では尊敬されることはないということや。まさに、主イエスが故郷のナザレで尊敬されず、家族や親戚等からも尊敬されへんかったことを明確に摘示しはった。その事を主イエスは気にしはり、公生涯に入る際は故郷であったナザレを離れて、カファルナウムに移住しはった。せやから、預言者は、居心地が悪い故郷に留まり続けることは有り得ず、必ず移住するものや。逆に、故郷から動かず移住してへん人や故郷に根付いて人々と仲良くやってる人が預言者を自称したり、預言者気取りをしてたとしたら、それだけでも偽物であると分かる。
故郷の人々から敬われへんのと、家族や親戚からも敬われへんことも重大な問題や。共通して言えるのは、やはり子供の頃から知っているという何ら正当な根拠も無い思い込みや油断なんですよね。肉の親と兄弟姉妹なんてその典型であり、両親の目線に立てば、自分たちの間から生まれた子がまさか預言者なんてことはない、そんな訳ない等と思い込み、他の子と同じように普通の人間でしかないと思うことが多いだろう。兄弟姉妹の立場からは、自分らの間からそんな人が出てくる訳ない等と思って舐めてることが多いだろう。せやから、生まれた時から知ってる、幼少の頃から知ってるというだけで、その人を軽んじる傾向があり、それは故郷の人々も同じだろう。
また、主イエスの言い回しに注意してもらいたいのは、預言者は、その故郷とその家以外では必ず尊敬される訳でもなく、尊敬されることが有り得るというような言い方であることや。聖書を読めば分かるとおり、旧約時代から預言者は故郷や家族以外でも軽んじられたり、激しく迫害されてきた歴史がある。エレミヤやダニエル等といった有名な預言者も迫害を受けたし、他には権力者や宗教関係者等によって殺された預言者も多く居った。マタイ二十三章二十九節〜三十六節で、主イエスが正しい人の血が多く流されたということを非難しはったとおりやからや。この世の多数派は神から選ばれてへん者ども故、神に選ばれたごく少数の正しい人を正しいと認めず、相容れずに敵対し、迫害し、尊敬することが殆どなかった。かように、預言者は、故郷以外でも敬われへんかった。せやから、これは故郷というても育った特定の地域という狭義の意味だけやのうて、出身国自体を指す広義の意味の故郷の意味もあるだろう。古代イスラエルの預言者は、同胞の古代イスラエル人から敬われへんかったように。主イエスは逮捕された後、十二使徒たちから逃げられ、使徒ペトロは三度も否定し(但し、イスカリオテのユダを除く十二使徒は後に改心したから問題無い)、総督ピラトが主イエスに罪を見出だせないとしたのに、エルサレムのユダヤ人たちが「十字架につけろ」等と叫んで騒いだことからも、主イエスはユダヤ人でありながら同胞のユダヤ人から敬われず、嫌われた。現代でも同じであり、ほんまもんの預言者は、この世の多数派、同胞、家族から疎まれたり、嫌われたりし、まったく良く思われへんし、ええ扱いも受けず、尊敬もされへん。もし尊敬してるとすれば、尊敬する相手に対してそれなりの言葉遣いや対応の仕方があるだろうが、とてもではないが尊敬とは程遠いことが多い。先の主イエスに対するナザレの大衆の言葉から、主イエスに対する尊敬は微塵も感じられへんことは明らかであろう。かように、預言者は、とりわけ故郷や家の者たちからは尊敬されず、それ以外の人々からも尊敬されることがほぼない。金持ちや有名人や社会的地位を持つ者どもに対しては、媚びへつらったり、へいこらする者が多いくせにね。かような人間性の者どもは、神から遠く、救われることはないだろう。人を見る目も無いし、価値基準がまったくズレてるからや。そないな人間どもに理解されなくても、評価されなくても問題は無いと主イエスと神の民(真のキリスト者)は理解しており、別にその事について何とも思わへん。実際、主イエスは「我は人間から栄誉を獲得せえへん。」(ヨハネ五章四十一節拙訳)、「互いの栄誉を受けて、唯一の神からの栄誉を求めへんあんた方は、どないして信じることが出来ようか。」(ヨハネ五章四十四節拙訳)と発言してはり、主イエスは他の人間から栄誉を受ける事に興味や関心は一切無いし、獲得しようともしてはらへんことが明白や。そして、この世の多数派の人間は人間同士互いの称賛等は受け入れてるが、唯一の主なる神からの栄誉を得ようと求めもせえへん者は不信仰者であり、滅びるとされる。せやから、神の民(真のキリスト者)ならば、主イエスに倣い、この世の人間からの称賛を得たり、賞や勲章や名声等を得ることには何の価値も無いと思い、神からの評価のみを気にして日々生きるべきであり、実際にそうする者だけが神から評価される。せやから、人間からの評価ばかり気にして、神からの評価を気にせえへん者は救われへんというのが真実と分かるやろ。せやから、この俗悪な世の権利者や大衆から評価されたい、褒められたい等と強く思うような承認欲求の強い人間はあかんし、そないな人間は不信仰であり、救われへん者の典型例である。神から評価されるには、主イエスの信仰を隠さずに持ち、神の律法・掟・戒めを守り、死ぬまでそれを継続し、伝道したり、信仰の兄弟たちと交流し、慈愛ある行いをせねばならない。それ以外の事をしても評価に値せえへん。特に、金持ちになったり、権力者になって悪政を行ったり、利権や賄賂等という私利私欲を貪ったり、多くの人を苦しめる等してるような輩はとりわけ厳しい刑罰が待ってるだろうし、社会的地位を持たずに貧しいとしても不信仰であり、聖書や主イエスに関心を持たず学ばずで、平素の行いが悪く、悔い改めなければ、そないな者も地獄行きを免れることはない。
また、「しかし、多くの指導者の中から彼(イエス)を信じたにも拘らず、それどころか、ファリサイ派のために、彼らは破門されへんように信仰を公言せえへんかった。彼らは、神の栄誉よりも、人間の栄誉を愛したからや。」(ヨハネ十二章四十三節拙訳)とも書かれてるとおりで、当時の社会的地位のある有力者たちは主イエスを信じたにも拘らず、当時ユダヤで権力を持っていたファリサイ派を憚り、彼らから破門されて諸会堂で集えなくなったり、社会的地位を失うことを恐れ、主イエスへの信仰を公言せえへんかった。かように、救われへん人間は臆病であり、心が天に向いておらず地に向いており、神からの評価よりもこの世の人間の評価を重んじ、それ故に滅びることが分かるやろ。現代で言い換えれば、カトリック、正教会、プロテスタント等の世の諸教会に所属してる人全員が当てはまり、ファリサイ派であるパウロ教信者の自称聖職者どもから破門されることを恐れ、拙者が語ってる聖書の真理を擁護も伝道もせず、行いで信仰を体現でけへん者たちと一緒や。
また、過去記事「悔い改めへん者は罰せられる」でも述べたとおり、「人々の間で高評価なものは、神の御前では嫌悪やからや。」(ルカ十六章十五節拙訳)という御言葉から、この悪い世の人間から高く評価されたり好かれるものは、神からの評価は低くく、忌み嫌われるものやからや。このことからも、世間の多数派は反キリストであり、神に敵対するサタンであることが分かるだろう。

七、神は不信仰者相手には殆ど何もしはらへん
上記聖句に、「人々の不信仰の故に、そこではあまり強大な業(奇跡)をしはらへんかった。」とあるとおり、主イエスは不信仰者が多い所ではあまり強大な業(奇跡)をしはらへんかった。過去記事「律法遵守は信仰の証しと復活」で紹介済の「あんたの信仰があんたを癒やした。」(マルコ五章三十四節拙訳)と主イエスが発言しはったとおり、信仰がある人にだけそれ相応の業をしはったが、反対に、不信仰者や自分の中だけで勝手にキリスト信仰者と思い込む者どもは、神から何もしてもらえへんのであり、それで当然と思わねばならん。それにも拘らず、多くの人間は不信仰であり、平素の行いも悪く、神のために神が求めることをせえへんのに、一丁前に利益だけは要求するし、何も利益を得られなければ勝手に怒って神を罵り、神の存在を否定しさえする。例えば、多くの日本人が神社や寺に出向いて少しばかりの金銭を投じて利益を得るように願ったり、世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)に日曜日や行事の際に通って献金という名において金銭を無心されるカモになって虚しく利益を求める祈りをして信仰者ごっこをしたり、こないな神が要求してへん悪い行いをしてても神がそれに応える筈がないと思わなあかんで。そないな悪い行いをしてて善人気取りするようでは愚か過ぎるし、傲慢極まりないからや。神の立場になって考えれば分かるやろ。神の側になってみると、自分を信じず、畏れず、平素は存在を意識もせず、聖書を通じて守れと指示した律法を守らずに罪を犯し続けるのをやめず、契約に違反し、神の戒めや教えも守らず、世俗に馴染んで好き放題してるくせに、利益をよこせとか、天国行きにしろ等と要求する人間をどう思うか。「アホか」ってなるやろ。そう思われて当然の事をあんた方の多くが日常的にやってるんやで。極めて不遜であり、自己中心的で恥ずかしい行いであると思い、反省し、悔い改めい。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。


 

以上