学校には行かない -5ページ目
<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5

学歴

高校へは行けへん。そういいながらも、いろんな紆余曲折を経験しました。いえ、今も経験中といえるでしょう。


これは不登校の子どもだけではなくて、高校へ行った。だからどうしたんや。高校へ行ったから人生は完結したんか?といえばそうとちゃうやんね。


だから、高校へ行けへんという人生を歩いているだけで、実はほかの人間とすごくちがう人生をあるいているわけとはちがうんやって私は思います。


せやけどね・・・学歴の壁というもんは生半可な壁とちゃう。高卒がなかったらお料理の専門学校かっていかれへん。たしかにね、高卒がないということで、だめ!とシャットアウトされるものの数は多くなります。


もちろん、可能性が多いからって人生の可能性も大きいかってゆーたらそうとちゃう。ただなぁ・・他人様からあかんの烙印をもらうのは、結構、堪えるんやな・・本人はどうかしらん。親はめっちゃ堪えるんや。。


息子が高校へは進学せーへん・・・といいつつ最初に見つけてきたのは東京自○学園という音楽の専門学校で高卒の資格も取れるというサポート校でした。

たしかに、本人も、バンドをやってみたりピアノを習ってみたりして音楽には興味があるらしい。


中学時代、身動きが取れなかったことを思ったら、自分で探し、自分で決め、自分で親を学校までつれてゆき、ここからがんばる!というのだから、親だって死に物狂いでできることをしようとおもいます。


せやけどな・・・結果を先、ゆーと、まったくあかんかった。取れたのは音楽の1単位だけ。


何をいっても机を並べて勉強するところへ通うことが、やっぱりでけへんかった。


いや、彼なりに必死で通ったんです。


だけど、授業は受けたけど試験がまだ。試験は受けたけどレポートがまだ。両方できたけど、スクーリングに出てないからだめ・・。


結局、サポート校とはいえ、不登校の子どもも実態を学校はぜんぜんしらんし、その実態に即してるとは到底いわれへんし、ましてや、学校へでてこられへん子どもに対しては、「僕らにはどうするすべもありません」ということやった。


音楽1単位もらうために払い込んだお金は150万円。前期、後期の2分割せいやった。まったく登校できてない後期の授業料も、なんの猶予もしてもらわれへんかった。後期が後期ぶんの学費なのではなくて、一年分を分割しているだけですから・・ということやった。


まあ、その学校へ寄付したようなもんやった。


そのお金は私が郵便局の学資保険で18年かけてためたお金やった。


アメリカならインターネットをとおして学卒の単位をとることもサポートしている。近所に来ていた牧師さん(アメリカ人)の娘さんは日本の学校になじむことができず、結局、インターネットで、勉強して学校卒業資格を取っているというお話やった。


日本はそんなにご親切やない。


まあ、たぶん、ご親切であろうが、なかろうが、本人が乗り越えやんなん課題はちっちゃなるわけとちゃうんやろうけど。


まあ・・・なにがサポート校やねん・・と私は人間不信を非常に深くした経験やった。

市の教育相談は最悪や

市町村でやってる教育相談は最悪なところが多い。長年の不登校の母放浪ものがたりをやってきた経験から感じたこと。それは、自分が行った教育相談もそうやし、同じような人がいったのを聞いた場合もそうやった。


教育相談。本当に真剣にそれにかかわろうとしている相談員の人がいるところは少ない。


あとからわかったのは、あれは退職者の受け皿にすぎない。退職した校長先生やなんかが、市町村に受け皿を作ってもらって、かかわってる。まあゆーたら天下り?


校長までやったひとだから、教育のプロやろ!って思ったら、とんでもないことが多い。たいした情熱もないし、頭は固いし、先生しかやってない経験から物をいってもらっちゃなんの助けにもなれへん。


だいたい教師を四角四面でやってきて、おまけに現場より昇進試験に情熱をかけて、必死で教育基本法を暗記したひとが管理職になることが多いのだから、自分勝手な頭が固いひとが多いって断言してもいいとおもう。


そんなもんに助言されたら、たまりません。百害あって一利なしとはこのことやとおもった。


世間が狭い。偉いさんとしての助言をなげつけてくる。学校へ行けなくなった子どもの気持ちを学校でしか生きてけーへんかったひとにわかるはずもなし。結局、学校へ行かれへんもんは、あの人たちにしたらドロップアウトした人間でしかない。


助けてやろう・・・援助してやろう・・?大きなお世話です。


いいかげんにしろ!っていいたかった。


ぎょうさんの退職金をもらったんやったらもう、すっこんでくれてたほうがまし。


ボランティアでやろか!っていうくらいの退職校長先生なら、まだ、信頼できる。まだ、こちょこちょ税金からお金をとろうっていう姑息さが気持ち悪い。

不登校の子供をもつ母親

人はとかく原因を特定したがる。それが、他人事なら余計に映画でも見ているような気分だ。あっちを分解して、こっちを引っ付けて見て、興味本位で原因を探ってみたくなる。そして、大方の場合、その一番の悪玉にあげられるのはやっぱり母親だ。



私は息子が不登校になったことは、聞かれれば自分の思うとおり話したりした。そうすると、親身な人ほど、私を叱咤するし、そうでもない人は激励してくれたりした。そして、叱られようが、アドバイスをしてくれようが、励まされようが、どうにもこうにも状況を変えられない母親の私がいた。


じゃあ、誰にも話したりせーへんかったらええやんか・・・と、思うが、実際、母親である私は家に閉じこもるわけにはいかない。学校の役員もあたれば、他の兄弟もある。時には、息子の事情を汲んでもらいたいときもある。不登校の子供をもつ母親としての自分のあり方が、本当に難しかった。辛いのに泣き喚くことができなかった私は、いつも、にこにこと笑ってすごした。人からは素敵なおかあさんやから大丈夫・・などと言われたりした。



ふざけんな・・・



にこにこしながら、苦しくてたまらなかった。だって、学校へ行けないのは息子なのだ。私がどんなに頑張っても、どんなに努力しても、どんなに泣いてわめいても、または、どんなに明るく振舞っても、そんなことで学校に行けるぐらいなら、不登校になんかなれへんのや。


そして、人々の叱咤激励や励ましのうらっかわには、母親の私への裏に表に真綿のような批判を含んでいる・・と感じて苦しんだ。


そんな、非の打ち所の無い母親なんて、いてるんやろうか。非の打ち所の無い子育てなんかあるんやろうか。


たまたま、子供が学校へいけなくなった。それは、この子の人生の課題、またはテーマであって、これをどう乗り越えるのか、これをどう生き抜くのか、またはどう自分の人生の中におさめるのか・・が生きるということだ。別にそれ以外で子供たちが大人になっていくために直面する問題や課題と大差があるわけではないんや・・と今は思っている。



だけど、今の日本では、学校へ行けない・・・ということは、異常事態なのだろう。人にどんなに思われても平気・・他人の目なんかは気にしない・・というのは綺麗ごとや。

学校という世界

いま、小学校で司書の仕事をしている。そして、学校の中にいて思うこと。学校の中で、先生じゃないのは校務員さん、事務員さん、そして司書の私だ。


あとは、全員先生。


先生というひとは、何かの目標があって、小さな目標から大きな目標まで、1つ1つ、こども達に達成させなければならないという使命を負った人だということだ。そして、学年が変わる頃、その成長を親に見せなければならない。そして、親もそれを願っている。むしろ、そのために学校にやっていると思っている。


先生、特に小学校の先生は時間に追われている。キンコンカンコンと町内じゅうに聞えるその大きな鐘の音におわれて、先生は職員室にもどり、また子どもをおいたてて教室へ向かう。


ともくんは、1年生。彼が1年生になって、やっと2ヶ月。彼は、虫が好きだ。図書室にやってくると、虫の本を一生懸命探す。探し始めたときは、楽しそうに探している。


それが、休み時間がなくなると、出してはしまい、出してはしまい、これはあかん、これは見たと、せわしなく本を出したり入れたりする。そして、チャイムが鳴ると、それが一層、激しくなるのに、一向に、本を一冊、決めることができない。私は根気よく、つき合う。虫以外の本も出してみる。


「ともくん、チャイムが鳴ったら、教室でしょ」

担任の先生の大きな声。


それと同時に

「これに決めた」

と一冊の本を取り出して、走っていく。


それは、一番最初にこの本はいらないといった本じゃないか・・と私は思う。


「一年生になって、もう何ヶ月たつんですか。チャイムの意味はしってるよね」先生が念を押す声がともくんが廊下をはしる足音とともに遠ざかっていく。


学校は走り出すと、止まれない所なんだ。結果をださなければいけないところなんだ。先生は結果を出すために雇われた人々なんだ。だけど、その成果がとぼしいとき、先生は親のせいだとおもい、親は先生のせいだと思い、子どもは自分のせいだと思う。


幼稚園にはきっとチャイムなんてなかっただろう。

自分がどうしたいかまだ言えた場所だろうと思う。そして、できないって言ってもいい場所だったとおもう。


先生が一生懸命教える。親が一生懸命サポートする。子どもは一生懸命 努力する。そして、みんなが、誠意でやっている。一生懸命やっている。努力を積み重ねている。


だから、止ることは許されない。


走れる子も、走れない子も、みんな走り続けなくてはならない。


学校って、そんな場所だ・・・と思う。

小学校6年 春


小学生、学校へ行けなくなった時、6月だった。だんだん、汗ばむ季節なのに、彼は、寒いと言って、長袖のシャツを着て、ベストをきて、上着もはおった。そして、ポケットにはカイロを入れていった。彼は毎日、毎日、鼻血をだした。学校を休んで、宿題をやっていると教科書に真っ赤な血がぽたぽた落ちる。食べられないのに、出血し、下痢し、このままでは死んでしまうと私はあせった。

1ヶ月以上たって、病院をめぐっても何処も悪くない。整腸剤をいただいたり、自律神経失調症だと言われたり、または起立生調節障害だといわれたり、または小児うつ病だといわれたり、怠慢だといわれたり・・。

でも、息子は、朝になると学校へ行く用意をする。「これくらいの微熱、平気や。僕、補修で残るのいややねん。学校へいくわ」

学校では休んで遅れた分を放課後、補修してくれるのだった。

お昼になるかならないか・・で、電話が鳴る。給食で吐きました。保健室で休んでいます。微熱があるので迎えに来てください。

帰りの車で、息子が言う。「学校は、なんか空気が薄い。窓の近くでないと座っていられない」


あっちの病院、こっちの鍼灸医、大学病院に、整体に、名医・・。


こんなに症状があるのにどこも悪くないなんて、信じられなかった。何か、難しい難病なんじゃないかと心配した。

不登校だと私が確信するまでには結構な時間がかかった。「不登校で死ぬことはない」それだけが、頼りの子育て再出発でした。



不登校の値段

obento   息子のためにつくるお弁当



息子が中学生だったある日。学校へいって驚いたのはその日が文化祭だったこと。

学校からなんの連絡もなかったのだった。

担任の先生は確かに一生懸命やってくれている。そして、家にも来てくださったりした。だけど、ひとたびクラスで何か問題が起きると、そちらにかかりっきりになってしまい存在さえも忘れられてしまうのだった。

先生一人で30人からの子供を見ている。そして、1つの団体としてある目標を掲げ(受験など)先生は、ひっぱっていく責任があって、一人のことも忘れないで・・・などというのは無理なんだろう・・・


と母親の私は変に先生に理解を示してしまったりする。



だけど、おかしいじゃないかという気持は変わらない。


教育を受ける権利は全員にあるんじゃなかったんだろうか。

学校へ行けないことで、学校の大きな行事さえ知らないと言うのは、息子が頑なに行かないとしても、先生がおいでと声をかけてくださらないのは、あまりではないか・・と思った。


中学生なので、せめて高校受験に遅れないようにと私は息子に家庭教師のお姉さんに通ってもらうことにした。先生は、こつこつと教えてくださった。だけど、家庭教師の先生にも時に、勉強しないと言っては、反発して先生が泣いて帰ったこともあった。

家庭教師の費用3万5千円、カウンセリングに通うお金、月2万円。他に交通費もいれば、食費も別にかかる。給食費を止めてもらったのは随分後で、食べない給食費用をおおかた半年払っていた。もちろん、いくつもりだから払っているのはよいとしても、パンぐらい届けてくれてもいいんじゃないかと私は思う。


子供が学校へ行かないのは親の責任。そうした学校の裏側の気持が時々すけてみえて、嫌だった。

教育を受ける権利は国が保障してくれることになっているのならば、学校に行けなくなったこども達への日本の施策は本当にお粗末やと思う。

これから結婚する人へ

kabocha


結婚が決まったとき、義父母は別居を考えてくれていた。

なのに、夫は、両親を二人っきりにするのがさみしそうに思ったのだろうと思う。


「一緒に、暮らしてもらえへんやろうか・・・」


ちっちゃな頃から悪ガキで~♪ という歌が昔あったけど、

私は、ちっちゃなころから優等生やった。小学校4年生から、中学校卒業するまで

学級委員やった。人に喜んでもらいたい習性がでてしまった。

ましてや、愛した人には一番良いところをみせたかった。


(わたしなら、できるんじゃないか。頑張って、できないことはないんじゃないか)


あほやった。


頑張ってもでけへんことがある。頑張るから、でけへんこともある。



そら、自分の人生1つしか生きてへんから、偉そうなことはいわれへん。

だから、どうでもええ人には、ふーん・・って聞き流す。

でも、私の大事な人には、「同居は絶対、やめとき」と

たった1この人生をかけて、言う。


一緒に住んでたら、夫は、息子をなかなか脱皮でけへん。

一緒に住んでたら、妻はたった一人の異分子や。

妻一人の常識は非常識、家族みんなでやってる非常識は、ここでは常識や。


別にだんなの親を否定しろっていうんとちゃう。


別々に住んでても助け合うことはいくらでもできる。

むしろ、別々に住んでるから、独立した個人と個人として、お互い助け合える。


一緒に住んでて、依存しあいの助け合いのおんぶにだっこは、助け合いとちゃう。

試行錯誤

  机上に開かれたままの教科書、進むことのなくなったノート、
光がささない闇の中を方向もわからずに歩いてみる。
止まってしまった時間。

  当時私がつらかったのは、実は他人に理解されないという体験だった。
変に噂をされてはかわいそうだとおもい、聞いてくれる人には真摯な気持ちでつたえるものの、
紋切り型の慰めや浅はかな励ましに出くわすだけでなく、時には失跡されることもあった。
結局、なにを聞いても受け入れられない私がいる限り、世間との道は通じないのだった。

  原因はいったい何処にあるのか、これといった悪者を捜し出せないとしても、子どもが倒れるまで、
そのこころの葛藤をしらなかったとは、親として愚かであったと自分を責め続けた。
そして、カウンセリング、学生ボランティア、家庭教師、学校、病院、いろんなところとつながりを持つ努力をした。
打たれて低くなったからこそ注がれる何かを、目をこらし、耳を澄まし感じようと必死になった。
時の止まった命でもちゃんと光と水があたえられるなら、やがて活発に活動しはじめることを信じて。


身体にあらわれた苦しみ

  息子が最初に倒れたのは小学校6年生だった。初めての症状は激しい頭痛。
ついで嘔吐、下痢、鼻血、悪寒、微熱が2ヶ月以上も続いた。
それでも彼は欠席して補習に残されることを嫌がり登校し続けたのだった。
私は不登校だとは夢にも思わなかった。

  「何処も悪いところはありません」といわれては、次々と病院を転院。
4件目の自治体の電話相談では、「専門家と変わります」といえわれて、
電話口に現れたのは精神科のドクターだった。
それからは、薬もない、処置もない、私は何がすればいいのかわからない。
臨床心理士の事務所を探しカウンセリングをはじめると嘘のように身体の症状は失せ、
心と体のつながりを目の当たりにする。

  毎日家で朝から晩までゲームをする、夜はまんじりともせずに過ごすのに朝は起きられない。
過干渉はいかけないとおもいつつ、これならたべられるか、あれなら気が晴れるかと手を出し口を出す私。
そんな中、彼は時にとても不安定になり、いらいらしては身の回りのものを壁に投げつけたり、
弟や妹に当たり散らして攻撃的になるのだった。

<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5