思い出のプロ野球選手、今回は「水沼 四郎」選手です。
カープ黄金時代の正捕手として活躍し、特に「江夏の21球」を演出した捕手として一躍名をはせた捕手です。
【水沼 四郎(みずぬま・しろう)】
生年月日:1947(昭和22)年2月27日
入団:広島('68・ドラフト2位)
経歴:報徳学園高-中大-広島('69~'82)-中日('83)
通算成績:1,333試合 打率.230 706安打 41本塁打 273打点 64盗塁
節目の記録:出場-1,000試合出場('79.7.13)
個人的印象
冒頭書いた事と同じですが、カープ黄金時代の正捕手、です。
特に1979~80年のカープの連続日本一の時は正捕手として活躍していました。
同じチームに水谷実雄選手がいて、子供心に水谷と水沼を混同してしまっていました。
後に中日へ移籍して引退しましたが、中日にいた時の記憶は全くありませんでした。
プロ入り前
高校は報徳学園高で、基満男選手と同期で、谷村智啓投手が1学年下になります。
甲子園には3年春に出場していますが、夏には県大会の予選で惜しくも敗退し甲子園を逃しています。
大学は中央大学へ進学し、1学年上に中塚政幸選手、1学年下には萩原康弘選手がいました。中央大学ではバリバリの正捕手として活躍し、1学年下の大矢明彦選手が中大入りを志望していましたが、水沼選手がいるからレギュラーになれない、と周囲から止められ、駒澤大学に入る事になったという話がありました。
東都大学リーグでの中大優勝時の主力として活躍が注目されたか、広島東洋カープから1968(昭和43)年のドラフト2位指名を受け入団しました。
ちなみにこの時の1位が山本浩二選手で、この時は全体的に「大豊作ドラフト」でした。
初期キャリア
ルーキーイヤーであった1969(昭和44)年から一軍戦に出場し、49試合に出場、42打数5安打の打率.119で、初本塁打による打点1のみの成績でした。
2年目1970(昭和45)年から100打席を越えるようになり、131打数27安打、打率.206で2本塁打6打点と、その後出番を増やしたり減らしたりしながらキャリアを積み重ねていきます。
3年目1971(昭和46)年は3本塁打と年々1本ずつホームランが増える格好となりました。この年は初めて200打席を越えました。
5年目1973(昭和48)年は107試合と初めて100試合以上に出場し、273打席とかなり出番を増やし、0本塁打ながら15打点で、1971年から1974(昭和49)年まで4年連続打点は10点台でした。
初優勝
ここまでレギュラー争いをしながら、なかなか定着しきれずに、でもレギュラーをずっと狙い続ける形で実績を積み重ねてきました。
そうして1975(昭和50)年、カープは外国人監督ジョー・ルーツを迎えますが、開幕して程なく退団する事態になり、古葉竹識氏が監督に昇格し、快進撃の中で球団史上初のセ・リーグ優勝を遂げる事となりました。
その優勝時の捕手が水沼選手でした。
ここまで7年間の自己ベストである116試合に出場し、53安打、19打点、打率.233これらもすべて当時ベストの成績でした。
カープ黄金時代へ
水沼選手の活躍した時代がカープ黄金期とほぼ被る格好になりますが、キャリア的には1976(昭和51)年から1980(昭和55)年までの昭和50年代前半の5年間がピークになるといえます。
この5年間のうち4回300打席以上を記録しており、カープ黄金時代の正捕手でした。
1976年に初めて300打席を越え、82安打で打率は.250と更に自己ベストを更新し、本塁打は11本と現役生活で唯一2ケタを記録しました。
1977(昭和52)年は381打席と規定打席まであとわずかのところまできました。
84安打は自己ベスト更新となりました。
そして1978(昭和53)年、15年間の現役生活で唯一度だけ規定打席に到達しました。
キャリアハイの127試合に出場し、445打席に立ち105安打と安打も唯一、100安打越えとなりました。打点46も1976年と並びキャリアハイで、規定打席に届いての打率.271も捕手としては立派な成績でした。
1979(昭和54)年からは少し出番を減らし、規定打席には届かなくなりますが、翌1980(昭和55)年と共にいずれも100試合以上に出て、300前後の出数で60本台の安打で…と絶対的なレギュラーという訳ではありませんでしたが、いずれも日本シリーズでは全試合に先発マスクを被り、そういう意味ではやはり黄金期の正捕手でした。
そして1979年の日本シリーズでは「江夏の21球」のドラマの渦中に捕手として座り、日本一を決めた時、江夏投手と共に優勝に湧く歓喜の輪の中心にいました。
1979年7月に通算1,000試合出場を果たしています。
水沼選手の通算安打は706本、本塁打は41本と派手な打撃成績は残しておらず、意外にもベストナインやGグラブ賞の受賞歴もなく、この1,000試合出場だけが節目の記録として残るいわば「勲章」であるといえます。
晩年
カープ黄金期が過ぎた1981(昭和56)年、同僚選手の運転する車が交通事故に巻き込まれ、自身も重傷を負い、それまで控え捕手だった道原裕幸選手に出番を譲り、加えてそれまでほとんど実績のなかった達川光男選手も台頭するようになり、顕著に出番が減っていきました。
1982(昭和57)年がカープ在籍最後の年となり、21安打で打率.191でした。
達川選手のレギュラー一本立ちを見届けるような形で広島を退団しました。この時既に35歳でした。
この年オフの広島は79・80年連覇時のベテラン選手が大量に引退・退団した年で、世代交代の波が一気に進んでいきました。カープに限らず、いろんな球団でこの年は世代交代が進んだと思います。
カープでは渡辺秀武、金田留広、佐伯和司、内田順三の各選手が引退、福士敬章投手が韓国球界へ、水谷実雄選手が阪急へ、中大で同期だった萩原康弘選手がヤクルトへ移籍しています。
引退
しかし広島で引退とはならず、1983(昭和58)年に中日へ兼任コーチの形で移籍となりました。背番号はそれまでつけていた22ではなく「66」となり、完全にコーチになる前提で移籍したという感じでした。
それでも23試合に出場し、38打数10安打と控えなりに出番がありました。当時の中日といえば、中尾孝義捕手が前年リーグ優勝した際にMVPを獲得するほどの中心にはなっていましたが、ケガが多い中尾選手のサブとして控えに回していたというところでしょうか。
本塁打は0でしたが5打点を挙げ、これを最後に36歳で引退しました。
▼1981年「カープ手帳」の名鑑より
カープが連続日本一に輝い翌年のものでした。捕手の中では最も出場の多い正捕手でした。
二番手捕手が道原裕幸選手で、達川光男選手は4年目でしたが、まだほとんど実績がありませんでした。
1980年は33歳で、早生まれだったので34歳のシーズンに当たりますが、当時の捕手でこの年齢で7盗塁というのはなかなかのものだと思います。