思い出のプロ野球選手、今回は「水谷 実雄」選手です。

 

前回取り上げた「加藤英司」選手が阪急から広島へトレードされた時の交換相手が、この水谷選手でした。広島で山本浩、衣笠といった選手らと同年代でレギュラーを務め首位打者も獲得、阪急へ移っても打点王と、両リーグでタイトルを獲得した選手でした。

 

【水谷 実雄(みずたに・じつお)】

生年月日:1947(昭和22)年11月19日

経歴:宮崎商高-広島('66~'82)-阪急('83~'85)

通算成績:1,729試合 打率.285 1,522安打 244本塁打 809打点 44盗塁

タイトル:首位打者 1回('78)、打点王 1回('83)

主な表彰:ベストナイン 1回('71)

記録:オールスター出場1回('71) 

節目の記録:本塁打 100号('78.6.25)、150号('80.7.8)、200号('82.8.15)

安打 1,000安打('80.4.18)、1,500安打('84.6.21)

●ジンちゃん

という愛称で親しまれていました。

「実雄」という名前から取ってジンちゃんになったのか、と勝手に思っていましたが、若い時に腎臓病で入院して、その病名があだ名になってしまったといいます。

 

●入団まで

甲子園に出て投手として活躍し、1965(昭和40)年の第一回ドラフト会議でドラフト4位として広島へ入団し、この時も投手で入団したといいます。

1年目のオフに野手転向となり、その後暫くは二軍が主となり一軍での出番もなく、3年目1968(昭和43)年は初の一軍なしとなり、4年目の翌1969(昭和44)年に少しだけ出番を得て、

2ケタ安打(13本)と本塁打1本(初本塁打)を記録しています。

 

●一軍定着後

5年目1970(昭和45)年にようやく一軍定着といえる活躍を見せ、106試合に出場し57安打、7本塁打を記録すると、6年目1971(昭和46)年に初の規定打席に到達し打率.283をマークし、初の3ケタ136安打を放ちました。

この1971年は最初で最後のベストナインを受賞(外野手)し、これも最初で最後のオールスターにも出場し、打率.283は堂々の3位に入り、最良の1年となりました。

という事で、さあこれからレギュラーで!というところでした

 

●停滞期

翌1972(昭和47)年はやや規定打席に届かず、しかし初めて2ケタ本塁打(12本)を放ちました。

この時期は競争相手に外国人選手を当てがわれ、レギュラーを明け渡し気味の年が続いていきます。

特に1973(昭和48)年~1974(昭和49)は出番が少なくなり、ヒットも50本ずつほどしか打てませんでした。

チームが悲願の初優勝を遂げた1975(昭和50)年は、ほんのわずかに規定打席に届きませんでしたが、レギュラーとして貢献4年ぶりに3ケタ安打(102本)を記録し、今後のキャリアへの足固めとなっていきました。

 

●レギュラー期

1976(昭和51)年より、毎年規定打席に到達する純粋なレギュラーに定着しました。

という事で11年目にして2度目の規定打席到達で、初の3割(.308)で本塁打も初の20本越え(26本)を記録、中距離砲的な活躍を続けていく事となります。

30歳になる1977(昭和52)年にはタイトルこそなかったものの、二塁打をリーグ最多の31本記録し、2年連続3割(.312)と好調を維持しました。

そして、1978(昭和53)年。優勝こそヤクルトにさらわれましたが、打率.348で首位打者を獲得。セ・リーグでは最初で最後のタイトル獲得となりました。またこの年から4年連続で20本塁打以上を記録しています。

1979(昭和54)・1980(昭和55)年は連続日本一に沸きました。打率がこの2年間だけ2割台だったのが少々皮肉でしたが、主力として日本一に貢献しました。

1981(昭和56)年からは再び2年連続で3割をマーク、この年はまた34歳になる年で打点が広島ではキャリアハイとなった82打点を挙げています。当時は山本浩、衣笠、ライトルといった選手陣が居た中でこの記録は大変素晴らしいものがありました。

 

●広島から阪急へ

1982(昭和57)年、打率.303をマークしながら5年ぶりに本塁打20本を割り(18本)ながらも、相変わらずのレギュラーを張っていたものの、オフに阪急・加藤英司選手とのトレードで広島を去る事となりました。

 

1983(昭和58)年から阪急へ移籍となりましたが、当時新外国人の2m・100kgの巨漢・ブーマーを差し置き四番の座に座ると、36歳になる年で本塁打は初めて30本を越えて36本、打点はこれまでを大きく超えるキャリアハイ114打点を記録し、移籍1年目で堂々打点王のタイトルを獲得します。

セ・リーグで首位打者、パ・リーグで打点王と、なかなかの離れ業をやってのけました。それも36歳というベテランにして。

ブーマーを差し置き四番になったことで「ミズマー」と呼ばれ、個人的には彼のあだ名はミズマーだと思ってました(笑) ジンちゃんというのは後から知ったぐらいで。

1984(昭和59)年シーズン用の阪急ブレーブスの「イヤーブック」には、彼の紹介ページに「頼むぞ、ミズマー!」と書かれていました。実はその時、彼が阪急に移籍していたのを知り、「あれ?いつの間に」という感じでした。そういえば広島で見なくなったな…というのも後から感じた事で。

 

●1984・開幕の悪夢

阪急移籍でキャリアハイの成績を残し大吉と出た形で、1984年の開幕を迎え、今年も当然バリバリの主力…

という事で、ロッテとの開幕戦に颯爽と打席に現れた水谷選手。

この時に投げていたロッテ・土屋投手が投じた球が外れ、水谷選手の頭を直撃しました。

倒れて起き上がれない…、、この1984年の開幕戦「阪急-ロッテ」戦は当時デーゲームでTV中継を見ていました(関西につき、当時は一部の阪急戦はTV中継があったのです)

「オイオイ、主力に何してくれんねん??」と思いながら、悪夢のようなデッドボール後の様子を見ていましたが、結局水谷選手は病院へ運ばれ側頭部の骨折等重症で、夏頃戻ってきましたが、往年の打撃は戻らず、それでも3本塁打打ったのがせめてもの報いだった、という感じでした。

なんとか翌1985(昭和60)年も現役続行となりましたが、わずか2安打で1割にも満たず、打点も0のままで、この年38歳になるシーズンで20年間の現役生活にピリオドを打ちました。
 

世の中に「たられば」はないといっても敢えて言わせてもらうなら、あのデッドボールがなかったら、彼は普通に40歳くらいまでは現役を続けていたんじゃないかな、と思いました。

1984年というと阪急は6年ぶりにリーグ制覇した年で、80年代では唯一の優勝でした。その時は戦力としていたものの、ケガもなくなくもっとバリバリのレギュラーで優勝に貢献していれば気分も相当変わっただろうに、と思わずにいられませんでした。

 

 

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