思い出のプロ野球選手、今回は阪本 敏三選手です。

 

阪急黄金時初期のショートのレギュラーとして君臨し、4年連続でショートでベストナインを受賞し、また当時チームメイトであった福本豊選手が盗塁王を初めて獲得する前のパ・リーグ盗塁王を獲得し、阪急をはじめパ・リーグのみ4つもの球団を渡り歩いた選手です。

 

【阪本 敏三(さかもと・としぞう)】

生年月日:1943(昭和18)年7月13日
没年月日:2022(令和4)年3月22日(享年78歳)
経歴:平安高-立命館大-河合楽器-阪急('67~'71)-東映・日拓・日本ハム('72~'75)-近鉄('76~'78)-南海('79~'81)

通算成績:1,447試合 打率.272 1,303安打 97本塁打 449打点 243盗塁

タイトル:盗塁王 1回('69)
表彰:ベストナイン 4回('68~'71) ※4年連続

オールスター出場 1回('72)

節目の記録:出場-1,000試合出場('75.4.29)
      安打-1,000安打('75.4.26)

 
●個人的印象
南海のベテラン選手、でした。
幼少時でしかもテレビにあまり出てこなかったので、ハッキリ顔と名前が一致した訳ではなく、南海にこんな名前の選手がいたなぐらいの印象しかありませんでしたが、当時見ていた1981(昭和56)年版の選手名鑑に名前が載っていて38歳となっていて、当時としては長く現役を務めたんだな、というのが印象でした。実際にはこの年の開幕前に引退したそうで、この年は現役としての実績はなかった訳ですが…。
 
南海の選手の印象しかなく、他の球団にいた事は後から知ったのですが、阪急にいたとか全然知りませんでした。
 
このブログである時からここまで「昭和10年代(戦前?)生まれで、かつ自分が現役時代を知っている選手」にスポットを当てて書いてきましたが、もう多分他にはいないと思います。
 
冒頭あげた写真ですが、現役時代のカラー写真がなかなかなく、この野球カードのモノクロ版をupさせて頂きました。それも阪急時代以外の写真がほとんどなく、南海時代のものをupしたかったものの見当たりませんでした。
 
●プロ入り前
高校時代は平安高校で、衣笠祥雄選手の3つ上にあたり入れ違いとなります。甲子園で準決勝までいった事がありましたが、法政二高戦で敗退しました。相手投手は柴田勲村上雅則というプロで素晴らしい実績をあげる事になる存在でした。
大学は立命館大学で、関西六大学リーグで3度優勝し、リーグ七季連続盗塁王獲得という素晴らしい実績を残しました。
スポーツ推薦をとっていなかったという当時の立命館大学では、強い選手が集まらない等あり、プロ入りしたOBは同期に一人(中退して入団)いたものの、先輩後輩とも少し年が離れており、特に直下の後輩とは10歳差以上あり、同世代のOBがほとんどいない格好です。古田敦也、長谷川滋利といったビッグネームはかなり下の世代で登場する事となります。
また立命館大学出身で初のドラフト指名選手でもありました。
大学でドラフト指名がかかるも拒否し、社会人の河合楽器へ進みました。ここでは2つ上に後のヤクルト監督となる武上四郎選手がいました。
社会人を1年過ごした後、1966(昭和41)年の第二次ドラフト5位で阪急ブレーブスに指名され、2年連続でドラフト指名された形ですが、ここでプロ入りする事となります。
 
●阪急で活躍
1967(昭和42)年がルーキーイヤーとなりますが、途中からレギュラーとなって、規定打席には少し足りませんでしたが打率.272で88安打、9本塁打24打点の成績を残し、またこの年は阪急のリーグ初優勝の年でもあり、優勝に貢献する形にもなりました。
 
2年目1968(昭和43)年以降は完全にレギュラーに定着し、阪急黄金時代を引っ張る存在となり、遊撃手としてこの年から4年連続でベストナインを受賞するなど主力として活躍しました。
この年は初めて規定打席に到達しただけでなく、盗塁を50個も記録しており韋駄天ぶりも見せつけましたが、タイトルは近鉄・安井智規選手(54個)が獲得しました。
3年目1969(昭和44)年には、リベンジの形で盗塁王のタイトルを獲得(47個)し、これがプロでの唯一の獲得タイトルとなりました。自身の規定打席到達時の最高打率である.284をマークし、3年連続の優勝に貢献しました。
わずか3年で通算盗塁が100を超え、阪急の韋駄天の名を欲しいままにしていた感があり、また当時の盗塁王としては南海・広瀬叔功選手がいて、これを脅かす存在となりました。
 
●ニューヒーローの登場、移籍
優勝を重ね強いチームとなった阪急において、主力として足でも見せる選手となった訳ですが、盗塁王を獲得した翌年1970(昭和45)年はチームメイトの福本豊選手が台頭し、自身は28盗塁となりましたが、福本選手が75盗塁とダントツで盗塁王を獲得、以後13年連続で盗塁王を獲り続ける事となります。そんな福本選手の前に盗塁王を獲ったのが阪本選手という関係性です。
1971(昭和46)年は15本塁打56打点と阪急で最高の成績を挙げ、盗塁は福本選手に遠く及ばないながらも36個を記録し相変わらず主力として活躍を続けました。
が、この年の日本シリーズでの内野守備で、打球にわずかに追いつけなかった事が巨人に日本一を許した要因とされました。
 
阪急は先程来記しているように何度もリーグ優勝を遂げ、阪本選手の入団年に初優勝したのを皮切りに、この5年間で4回もリーグ優勝を達成していますが、日本シリーズでは当時連続優勝を誇った王者でV9を達成する事となる「読売ジャイアンツ」にどうしても勝つ事ができず、一度も日本一になる事ができませんでした。
先のプレーはあくまでもエラーではないものの、当時の阪急首脳陣は守備面のより一層の強化策という事で、東映遊撃手の大橋穣選手に目をつけ、遊撃手同士また、更には捕手同士も交換としてトレードが断行され、東映フライヤーズへ移籍する事となりました。
 
●東映での活躍
1972(昭和47)年より東映でプレーする事となった阪本選手ですが、この年は「東映」としては最後の年となりました。ここでもレギュラーとして活躍し、16本塁打62打点は現役キャリアハイとなりました。一方で盗塁はわずか6個と激減しました。
1973(昭和48)年は日拓、翌1974(昭和49)年は日本ハムと、実に4年連続で所属チーム名が変わりますが、そんな中でもレギュラーとして活躍を続けていきました。
1975(昭和50)年は規定打席ギリギリで、新人の年以来8年ぶりに100安打を割り込む事となりましたが、この年の初めに通算1,000本安打を記録し、3日後には通算1,000試合出場、更には通算200盗塁も達成したという色々な節目となった年でした。
 
●近鉄、南海、引退
東映フライヤーズから日本ハムファイターズまで激動の球団に4年間身を置き、1976(昭和51)年には永淵洋三選手らとのトレードで近鉄へ移籍します。
 
阪急でのルーキーイヤーを除き、日本ハム最終年まで8年連続で規定打席に到達していましたが、ここからは規定打席未達の年が続きます。つまり、前半はレギュラーで後半は控えに回る事が増えるという分かりやすいキャリアとなっていきます。
 
近鉄では目に見えて出番が減り続け、最後の1978(昭和53)年は43試合でわずか10安打、打率.185と限界が見えてきた感がありました。プロ入り初の本塁打0にもなりましたが、近鉄では3年間で2本塁打しか記録できませんでした。
 
1979(昭和54)年は4球団目となる南海へ移籍しました。パ・リーグばかり4球団の在籍となり、阪急、近鉄、南海のパ・リーグ電鉄球団にはすべて在籍しました。実に36歳になる年でしたが、ここでまた息を吹き返し、規定打席には全く届かないながら打率.311(135打数42安打)と活躍しました。移籍で選手寿命を延ばす事に成功したといえます。翌1980(昭和55)年はコーチ兼任となり37歳になる年でしたが、前年とほぼ同程度の出番を得て、3年ぶりの本塁打を含む2ホーマーを放っています。
 
1981(昭和56)年も現役続行の予定だったようですが開幕直前に引退し、選手としては37歳まで、38歳になる年に登録上引退という事になりました。
 
●目まぐるしいキャリア
先述の東映から日本ハムも激動でしたが、現役生活15年で同じ球団にいたのが最長で「5年」で、しかも移籍を繰り返す度にどんどん在籍期間が短くなっていき、目まぐるしい現役時代でした。
最初の阪急が5年間、次の東映~日ハムが4年間、近鉄が3年間、南海は3年間登録はされたものの、実質選手として働いたのは2年間、といった具合でした。
なので自分のように「南海の選手」とイメージする者もあれば、阪急の選手、日本ハムの選手、近鉄の選手…などと、その人の見た時期により彼に対するイメージも随分違うだろうな、と感じました。
 
 
昨年2022(令和4)年3月、78歳で逝去されました。
引退後はコーチを主に評論家活動もしながら、晩年はチームメイトだった長池徳士氏とトークショーに出たりもしていました。
 
引退後、近鉄のコーチとして1985(昭和60)年の選手名鑑に載っていたものです