思い出のプロ野球選手、今回は「長池 徳士」選手です。

 

肩にアゴを乗せた独特のフォームで数多くのホームランを放った「ミスター・ブレーブス」と呼ばれた名選手で、ミスター・ブレーブスは福本でも簑田でも松永でも石嶺でもない、誰あろうこの長池選手の事です。

 

【長池 徳士(ながいけ・あつし)】

生年月日:1944(昭和19)年2月21日
経歴:撫養高-法大-阪急('66~'79)

通算成績:1,449試合 打率.285 1,390安打 338本塁打 969打点 98盗塁

タイトル:本塁打王 3回('69、'72、'73)、打点王 3回('69、'73、'74)

主な表彰:MVP 2回('69、'71)、ベストナイン 7回('67、'69~'73、'75)→'75のみ指名打者、他はすべて外野手での受賞
記録:オールスター出場9回('67~'75)、月間本塁打15本('72/9)、32試合連続安打('71.5.28~7.6)、4打数連続本塁打('67)

節目の記録:安打-1,000安打('74.4.10)、

      本塁打-100号('69.9.27)、200号('72.9.3)、250号('73.9.14)、300号('75.6.22)
      出場-1,000試合出場('74.6.8)

  

●登録名

本名は長池徳二(ながいけ・とくじ)で、個人的にもこの「とくじ」の印象はありました。現役最後の年となる1979(昭和54)年から長池徳「士」の登録名とし、名前の読みも「あつし」となっています。徳士の印象はありますが、「あつし」の印象はありませんでした。

 

●強い阪急の代打の切り札

自分が野球を見始めた頃の彼は「阪急の代打」のイメージでした。優勝を続ける強い阪急で、代打の切り札的存在のベテラン選手、そんな感じでした。

なのでその当時は、彼がかつてバリバリのレギュラー選手でホームランを打ちまくっていた、なんて全然知りませんでした。そして知らぬ間に引退していた、そんな感じでもありました。引退後もしばらくは背番号3をつけていたので、80年代初頭は引退していたと思っていませんでした。

 

●南海との縁

元々は南海に入るつもりで、以前から繋がりがあったようですが、高校卒業後に南海のテストを受けたそうです。

当時の鶴岡監督に、まだものにならないと判断されて「大学に行ってこい」と言われ、鶴岡氏の母校である法政大学に進学したのだとか。

 

●夕刊で知ったドラフト

南海に入るものと思っていたら、フタを開けたら「阪急?」とビックリしたそうです。

ドラフト制度の一期生であり、ドラフト1位の指名を阪急から受けながら、その事を知ったのは「夕刊」だったといい、その時は京都へツタンカーメンを見に行っていたのだとか、当時は今みたいにドラフト情報がすぐに分からなかった訳ですが、それにしてもドラフト上位で指名がかかるのをある程度分かっていた選手が、実にのんびりしたものだったんだなと。

 

●阪急入り

入団時はプロについていけないとまで思ったそうですが首脳陣の「和製大砲をつくりたい」の思いに、彼が指名されて強化されていったといいます。

この写真にもありますが、肩にアゴを乗せて、手を大きく引くこの独特のフォームはそんな猛練習の中で編み出されていったものだといいます。

1年目は約半分の出番といったところで、ホームランは7本、22打点を記録しています。

 

●レギュラー入り

2年目の1967(昭和42)年からレギュラーポジションを掴み、初めて規定打席に達し、打率.281で27本塁打78打点の好成績を残します。そしてこの年が「阪急の初優勝」でもあり、ここに4番打者として大きく貢献した訳です。

3年目1968(昭和43)年は打率.238と沈んだものの、本塁打は初の30本台にのせました。

そして4年目1969(昭和44)年は初のタイトル獲得年となり、41本塁打101打点の大活躍で二冠王に輝き、初めてのMVPも受賞しました。打率も.316と初の3割をマークしました。この年までチームは3年連続でリーグ優勝しており、日本一こそV9時代の巨人に阻まれていますが、強い阪急の4番打者として君臨していました。

 

●ライバル

1970(昭和45)年はチームは優勝を逃し4位へ転落しましたが、長池選手は.309と2年連続3割をマーク、本塁打こそ28本へ落ちましたが、102打点をマークしました。

翌1971(昭和46)年は3年連続3割の.317をマークし、すっかり打率の高いイメージもつくようになりました。この年40本塁打114打点をマークしながら、無冠に終わったという厳しい年で、本塁打王は東映の大杉勝男選手にさらわれました。しかしながら2度目のMVPとパ・リーグ記録の32試合連続安打をマークしています。

この前後の数シーズンにおいて大杉選手との、特にホームラン王争いのデッドヒートぶりは後世にも語り継がれる名勝負となりました。

 

●再度タイトル

1972(昭和47)年は、大杉選手にさらわれていたタイトルを自身の手でもぎ取り「雪辱」を果たした形で、打率は.290と連続3割は3年で途切れたものの、41本塁打95打点で、本塁打王を獲得し、翌1973(昭和48)年は打率.313と再び3割にのせ、43本塁打109打点とキャリアハイの記録で、本塁打・打点の二度目の二冠王を獲得、ここがピークとなりました。

翌1974(昭和49)年は本塁打こそ27本と落ちましたが、2年連続で打点王(96打点)を獲得しています。

という訳でここまでで、本塁打王・打点王をそれぞれ3度獲得しています。

 

●昭和50年代

昭和50年代に入ると、守備よりも導入されたばかりのDH(指名打者)への起用が多くなり、DHでの初代ベストナインに選ばれています。

しかし打率.270と明らかにそれまでとは成績が下がり、25本塁打58打点とレギュラーを獲ってから最低の成績になってしまい、なんとか届いた規定打席もこの年を最後に到達しなくなります。守備をやらずに打席のみに立つことで「野球を半分しかやってないような感じ」だったそうです。

以後は膝の故障などで思うように働けず、自分が見始めたのはこの頃からでしたが、すっかり代打要員でした。阪急が3年連続日本一に輝いた「V3」の時はまだ現役でしたがすっかり控えに回っていて、チームの栄華と反比例するようなキャリアを重ねていく事となりました。

そうして徐々に出場機会を減らしていきながら、チームがリーグ優勝を逃した1979(昭和54)年に35歳で引退しました。最後は17安打で打率.250の2本塁打8打点でした。

 

引退が早かったのと、レギュラーで活躍した期間があまり長くない為、「ミスター」と称されながらも1,500試合も出ておらず、1,500本もヒットを打っていませんが、そんな中でのシーズン40本塁打以上を4度も記録している選手は長いプロ野球の歴史でもそうはいません。

また通算338本塁打は阪急/オリックスを通じてこの球団では、現在でも史上最多です。

 

今回はこのミスター・ブレーブスに改めてスポットを当て、改めてこの選手の素晴らしさに敬服いたします。

 

 

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