思い出のプロ野球選手、今回は土井 正博選手です。

 

 

「18歳の四番打者」として有名なパ・リーグきっての大打者で、パ・リーグ一筋で2,500近い試合に出場し、また2,500近い安打を放ち、昭和10年代生まれの中では屈指の大打者でした。

 

【土井 正博(どい・まさひろ)】

生年月日:1943(昭和18)年12月8日
経歴:大鉄高中退-近鉄('61~'74)-太平洋・クラウン・西武('75~'81)

通算成績:2,449試合 打率.282 2,452安打 465本塁打 1,400打点 78盗塁

タイトル:本塁打王 1回('75)

     最多安打 2回('64、'67) ※当時表彰なし

表彰:ベストナイン 3回('67、'68、'78)

オールスター出場 15回('63~'69、'71、'73~'76、'78~'80)

節目の記録:出場-1,000試合出場('69.7.6)、1,500試合出場('73.9.29)、2,000試合出場('77.8.31)

      安打-1,000本安打('69.5.1)、1,500本安打('73.5.23)、2,000本安打('77.7.5)
      本塁打-100号('67.5.28)、200号('71.7.29)、300号('74.8.16)、400号('78.6.6)、450号('80.7.1)、

 

 

●個人的印象

クラウン⇒西武のベテラン選手、という感じでした。

当時テレビで頻繁に見かけた「土井」選手は巨人の土井正三選手で、こちらは地味な役割で小技のきいたしぶとい選手でしたが、これとは対照的に土井正博選手は主力どころで成績的に目立つ存在でした。

ただ当時はクラウンという弱小チームの打の主力で、また実績がすごい割にタイトルに恵まれなかったところもあってか、当時のパ・リーグの人気があったとは言い難い状況もあり、あまり派手なスポットライトを浴びた感じがしませんでした。

 

●18歳の四番打者

まさに冒頭書いたものですが、大阪・大鉄高校(福本豊選手の先輩)で、2年の時に選抜大会で甲子園に出場していますが、その2年の時に高校を中退して近鉄へ入団、後にライオンズの監督を務める根本陸夫氏のスカウトによるものだそうです。

 

冒頭のタイトルを初めて聞いた時、「高卒新人で四番を打っていたのか!」と思っていましたが、中退していたので四番をうっていたのは2年目の時の事でした。

 

驚きだったのは、高校を中退してまで入団したのに、わずか1年で整理の対象になったという話でした。今ではなかなかない話ですが、昔はそんな事もあったのかと。

ただ監督が代わった事が幸いして首が繋がり、1962(昭和37)年は一転して「18歳の四番打者」として起用されたのもまた驚きでした。

といっても、四番打者で起用されたのはオープン戦だけで、レギュラーシーズンでは全く起用されなかった(ほとんどが6,7番)そうです。これもまたまた驚きでした。単に「18歳の四番打者」といってもよくよく調べると色々出てくるものですね。

 

●真の四番打者へ

18歳の四番打者はオープン戦のみとなりましたが、この年は一軍デビューし129試合に出場(当時のパ・リーグは150試合)し500もの打席に立ち、18歳(19歳になる年ですが、12月生まれにつき、シーズン中は常に18歳)としてはこれだけでもすごい事だと思います。結果として110安打で打率は.231、本塁打は5本で43打点でしたが、打率、本塁打はともかく18歳でこれだけ務めあげたのは素晴らしいですね。本人は外してほしいと直訴した事もあったといわれますが、監督が将来を見据えて辛抱強く起用を続けたという事ですね。

 

3年目の1963(昭和38)年は150試合にフル出場して打席を600に伸ばし、打率.276で13本塁打74打点と飛躍し、シーズン中の四番にも初めて起用され(26試合)、まだホームランはその後ほどではないものの、以降弾みをつけていきます。

 

「ブレイクした」といえるのは4年目1964(昭和39)年で、チームは最下位でしたが打率.296をマーク、28本塁打打点はナント98を記録し、安打も168とリーグ最多を記録しました。当時最多安打は表彰制度がなくタイトルにはなりませんでしたが、リーグを代表するバッターとして躍り出たといって良い成績を挙げました。18歳の四番打者はこの時初めて真の四番打者になった訳です。

 

●弱小チームで気を吐く

一軍デビューした1962年から1967(昭和42)年までの6年間のうち、チームが最下位でなかったのは1963年のみで、他の5シーズンはすべて最下位でした。

当時の近鉄はパ・リーグのお荷物球団といわれ、シーズン100敗以上を記録した事もあった程でした。そんな中にあって、主力打者として奮闘を続けながらキャリアを積み重ねていきます。

1967年には初の3割(.323)をマークし、2度目のリーグ最多安打を記録、初のベストナインにも輝きました。ただし、打率は2位、93をあげた打点も2位に終わり、無冠の状態が続く事となりました。

 

●安定と波乱

1968(昭和43)年よりチームは最下位を脱し、Aクラスに入るシーズンも増えるようになり、この年は打率.309と2年連続3割をマークし、ベストナインも2年連続受賞となりました。

翌1969(昭和44)年も打率.300と3年連続3割をマークし、この年には通算1,000本安打も記録しました。

そんな順調なキャリアを積み重ねてきた中の1970(昭和45)年、球界を震撼させた「黒い霧事件」で書類送検され出場停止処分も受け、一軍デビュー以来初の規定打席未達となり、未達はこの年と引退した1981(昭和56)年の2回だけで、ここで到達していれば19年連続規定打席到達となっていたところで、またシーズン20本塁打以上は6年連続で途切れ、これもここで到達していれば17年連続20本塁打以上になるところだっただけに、実に残念な事となりました。

1971(昭和46)年からも3年連続で3割をマークし、前年の事がなければ7年連続3割をマークしていたかもしれませんでした。

1971年は本塁打を40本の大台にのせ、それまで最多が28本('64、'67)だったのが、一気に40本にのりました。打点は実に113をマーク、40本塁打113打点となれば二冠王でもおかしくないところですが、本塁打は東映・大杉勝男選手に1本差で及ばず、打点は南海・門田博光選手の120打点に及びませんでした。

 

1974(昭和49)年は30歳でシーズンを迎え、通算300号本塁打を達成しましたが、打率は.277と規定打席到達での3割われは実に8年ぶりの事でした。

 

●近鉄から太平洋へ

1975(昭和50)年、トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍する事となりました。

守備に不安がある為だったそうですが、この年からパ・リーグでは指名打者(DH)制度がスタートし、放出した近鉄はかなり後悔したそうです。

ともあれ、太平洋は西鉄から黒い霧事件で揺れに揺れ経営権が代わって間もない不安定なチームで、格好の選手をゲットできたと思ったことでしょう。

 

●無冠を返上

その1975年、太平洋へ移籍初年、遂に打撃タイトルを獲得しました。

34本で本塁打王に輝き、ようやく無冠を返上、これまでどんなにすばらしい成績を挙げてもタイトルにはあと一歩届きませんでしたが、2度目の30本塁打クリアでタイトル獲得となりました。

 

●所属球団が次々変更

太平洋は移籍してから2年で終わり、1977(昭和52)年からクラウンへ、更に2年後1979(昭和54)年には西武と、移籍なしながら自身の所属球団が2年ごとに変わっていくという目まぐるしさでした。

そんな中で、打率は上下しましたが安定して規定打席に到達し続け、本塁打も常に20本以上をキープしてきました。

クラウン時代の1977(昭和52)年に通算2,000本安打を達成し名球会入りを果たし、また同じくクラウン時代の1978(昭和53)年はライオンズ在籍で唯一3割(.303)をマークしています。

西武になった1979(昭和54)年は36歳になる年でしたが、安定した成績を残し、球団は旧ライオンズ色を一掃しようと大幅な戦力の入替が行われましたが、移籍する事なく残り続けました。

37歳になる1980(昭和55)年までレギュラーを務め、1981(昭和56)年はケガの為、出場機会は減り1本塁打8打点に終わりますが、本人は現役続行の意志はあったといいます。しかしながら根本監督が退任すること等あり、自身をプロの世界へ入団させてくれた根本監督に最後は引退させられた格好となり、38歳になる年で現役生活を終えました。入団も引退も根本氏が大きく関わっているという関係性が面白いですね。

 

 

「たられば」はありませんが、正直もう1年やっていたら2,500試合出場と2,500安打は達成できたのではないか、とどうしても思ってしまいます。