思い出のプロ野球選手、今回は「大杉 勝男」選手です。

 

パ・リーグでは東映で、セ・リーグではヤクルトで共に大活躍し、両リーグで1,000本安打を放ち、両リーグで200本塁打まであと1本という偉大な記録を残しています。

 

【大杉 勝男(おおすぎ・かつお)】

生年月日:1945(昭和20)年3月5日
没年月日:1992(平成4)年4月30日(享年47歳)

経歴:関西高-丸井-東映・日拓・日本ハム('65~'74)-ヤクルト('75~'83)

通算成績:2,235試合 打率.287 2,228安打 486本塁打 1,507打点 32盗塁

タイトル:本塁打王 2回('70、'71)、打点王 2回('70、'72)

主な表彰:ベストナイン 5回('67、'69~'72)、Gグラブ賞 1回('72)

記録:オールスター出場8回('67、'69、'70、'72~'74、'77、'80、'81) ※'80は辞退 

 

●ドラフト前入団

1965(昭和40)年に東映のテストを受けて入団したといい、この年のオフからドラフト会議が始まるので、ドラフト前最後の期の入団になります。

個人的には「ヤクルトの和製大砲」という感じだったので、東映にいたのは後から知りました。パ・リーグでそんなに活躍していた選手だったんだ!と驚きましたね。

 

●レギュラー前

入団して2年間はレギュラーという形ではなく、しかし1年目から積極的に起用され、本塁打は1本だけ記録し、2年目は101試合に出場し、50安打で8本塁打と戦力になってきた感がありました。

 

●月に向かって打て

彼を語る上で欠かせないのが、この言葉です。

当時東映の飯島滋弥コーチのこの助言によって打撃開眼したといいます。

いかにもという感じの伝説然とした話ですが、最近江本孟紀氏がYou Tubeで「あれ、ホントらしいね」とコメントされていました。

そんな訳で3年目1967(昭和42)年に初めて規定打席に到達し、以後15年連続で規定打席到達という素晴らしい実績を積み上げていきます。

 

●黄金期

4年目1968(昭和43)年から6年連続30本塁打以上、その中でも1970(昭和45)年から3年連続40本塁打以上という、素晴らしすぎるハイペースでホームランを量産していき、200号到達はあの王選手よりもハイペースであったといいます。打点も1970年から3年連続100打点以上です。

 

1970年は44本塁打129打点で堂々の2冠、1971年は41本塁打104打点で本塁打王、1972年は40本塁打101打点打点王、とタイトルはこの3年間ですべて獲っています。

 

70年は打率.339を挙げていながら首位打者が獲れず、東映時代は70、71年の2回だけ3割をマークしていますが、打率に関してはチームメイトに張本勲という、とてつもない強打者が居たため、無縁のタイトルとなりました。タイトルはすべて東映時代に獲っていて、セリーグではタイトルはひとつも獲れませんでした。

ホームランについては、阪急・長池徳二という強打者がいましたが、彼とのデッドヒートが凄まじかったといいます。

 

●優勝と無縁

東映時代は新人の年こそチームは2位でしたが、3年目まで3位が続き、以後はずっとBクラスで、日本ハムになった1974(昭和49)年は入団後初の最下位に転落しました。

東映では入団以来背番号はずっと「51」で、ある意味イチロー選手の「元祖」的存在でした。

1973(昭和48)年のみ「3」をつけましたが、翌年すぐに51へ戻しています。

 

●トレード

日本ハムになった1974年まで在籍しており、東映にいたのは後で聞いて知っていましたが、「日本ハム・大杉」の時代があったのは知りませんでした。(「東映」のうちにヤクルトへ移籍したと思っていました)

当時、球団は日本ハムになったばかりで、旧・東映色を一掃しようという強い動きがあり、そんな中で彼もトレードに出されました。その動きで、翌年には張本勲選手まで巨人へトレードで放出されています。

後年、クラウンが西武になった時もすさまじい戦力一掃がなされましたが、東映から日本ハムへ変わっていく時もそうだったのですね。そんな訳でヤクルトへ移籍する事となりました。

 

●セ・リーグ

パ・リーグに10年在籍し、1975(昭和50)年からはセ・リーグ、ヤクルトスワローズへ移りました。

日本ハム最後の年と、このヤクルト最初の年はいずも打率2割3分台の低水準にあえぐこととなりました。

特にヤクルト初年の75年は規定打席に届いた中で唯一の100安打割れで、本塁打、打点とも大きく数字を落としています。

しかし翌1976(昭和51)年から復活し、30本前後の本塁打と100近い打点で3年連続で活躍し、1978(昭和53)年には14年目で悲願の初優勝/日本一を経験しました。

この時は日本シリーズでポール際へ大飛球を放ち、ホームランの判定に相手の阪急・上田監督が1時間以上も猛抗議するも判定は覆らず、その後も「文句なしの」ホームランを打ってみせて、チームを日本一へ大きく前進させました。

 

●2,000本安打

1981(昭和56)年に2,000本安打を達成し名球会入りを果たしましたが、この年が最後の規定打席到達となり、打率.343をマークしましたが、首位打者は阪神・藤田平選手にさらわれました。

1982(昭和57)年から規定打席未達になりますが、それでも翌年引退するまで、300以上の打席には立っていました。

 

●引退

1983(昭和58)年に両リーグで1,000本安打という快挙を達成しました。

これは両リーグにある程度年数居ないと達成できず、また両リーグで活躍しないと達成できない記録で、かなり難しい記録であり素晴らしい記録でもあると思います。

そして、両リーグで200本塁打に「あと1本」と迫っていましたが、84安打して21本塁打53打点を記録、普通の流れならまだあと2、3年やれただろうというところを自身や夫人の病気の事もあってか、このシーズンに38歳で引退する事となりました。

ボロボロになるまでやったら絶対両リーグ200本塁打は達成できたでしょうが、それを良しとしなかったのは彼の美学でしょうか。

 

心優しき暴れん坊

彼につけられた代名詞のひとつです。

乱闘の陰に大杉あり、と言われるほど乱闘シーンには登場し、デッドボールに激高して投手へ向かっていく映像も多数残っています。

 

 

という訳で、両リーグで大活躍したスラッガー・大杉選手について触れましたが、残念ながら1992(平成4)年にわずか47歳の若さで亡くなられました。

色々と無念な事もあったかと思いますが、彼が引退時に残したセリフ「両リーグ200号に足りなかった残りの1本は、皆さんの心の中で打ってくだされば」という、その1本を自分の心の中で打つ事で、この記事の終わりにしたいと思います。

 

 

 

 

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