続トラベルとかナントカ

  • 05Dec
    • 東京/狛江 東京のマイナスイオン

      東京都狛江市、小田急/狛江駅からの歩き旅です。(2011年10月当時)●この緑いっぱいの景色は、ナント狛江駅の真ん前です!狛江駅を出て、駅前広場左側すぐにこんな緑あふれるのゾーンが。狛江って東京23区とも接している位、都心に近い所ですが、そんな街のど真ん中にこの空間はあります。入口に看板がありました。 「狛江財弁天池緑地保全地区」という事です。都市計画による再開発が進められるところでしたが、住民の反対運動が高まり、緑地保全を推進する動きが強まり、やがては1987(昭和62)年に緑地保全地区に指定されたという事です。●緑の道を入って行ったところです。緑のカーテンに覆われたマイナスイオンいっぱいの空間がありながら、右側の柵の向こうは普通に商店が並んでいるのが見えました。●そんな緑地保全地区を歩いていて目に入ったのがこの「泉龍寺」でした。鐘楼が二層式というのはかなり珍しいようですね、言われてみればほとんど見た事がないような…。しかもこの頭でっかちな感じの建物がインパクトありました。中に入っての各お堂は、木に隠れている事が多く、建物自体はうまく撮れませんでした。●泉龍寺の山門です。内から見たものと、外から見たものと。内側からは暗くしか写せませんでしたが、外側からは明るくクッキリと写せました。曹洞宗のお寺なのですね!歴史的には765年からの記録があるようですが、戦国時代にはすっかり衰退して小さな観音堂だけになっていたといいます。泉祝という和尚が復興させ、更には1590年に徳川家康が関東に入国すると、ここを治める人物が寺域を整備したといいます。●泉龍寺の「財弁天池」です。この辺りは「元和泉」という地名ですが、その地名由来にもなったのがこの池の存在でした。昔からいついかなる干ばつ時であっても、ここの湧水は絶える事がなかったといいますが、1972(昭和47)年に突如、その湧水が途絶えたといいます。今では井戸の切削工事をして、水が確保できるようになっているといいます。自然財弁天池から人工財弁天池になったという訳ですか。とにもかくにも、井戸の水は確保され、森林の自然もキープされたエリアになって、23区に程近い狛江のど真ん中で貴重な存在感を放っている事だけは間違いない訳です。●緑のカーテンである緑地に保全地区を抜けて、街へ出ました。といってもその緑地保全地区がこの写真の右側に写っている状態であり、向かいには渋いお店がズラリ並んでいましたが、緑のカーテンの勢いが勝っているのか、幾分隠れて暗くなっている感がありました。●街なかの電柱には「絵手紙発祥の地・狛江」の幟が並んでいました。絵手紙発祥、といって相当古い時代の出来事なんだろうな、と思っていたら、その起源は1981(昭和56)年の事といいます。その時に狛江郵便局で「絵手紙教室」が開催され、日本全国に広がったというのですが、そんなに最近に広まった文化なのですね。そして狛江市では、2007年から絵手紙を「市の文化施策の柱」のひとつと位置づけて、様々な事業に取り組んできたといいます。今この時期のように年賀状を書かなければ、という時にこういう技術があれば楽しいだろうな、と思わされます。街と緑が融合した、東京で最も狭い市であるこの狛江市、23区から少し足を伸ばせば、緑のカーテンのあるオアシスへ辿り着けます。という訳で、狛江市の狛江駅前の様子でした。

  • 01Dec
    • 滋賀/近江八幡 竜王との境 岩倉石工の町

      滋賀県近江八幡市、隣接する自治体・竜王町との境目にあたる部分の様子です。(2010年5月当時)●今からもう9年前の様子になります。竜王町を訪ねた時に、行きは近江八幡駅からバスでやって来ましたが、流れに任せて歩き続けて、遂にはこんな竜王町と近江八幡市の境目までやって来てしまいました。という訳で、境目の標識です。大抵は各市の旅記事を載せる時は中心駅前の様子から入りますが、近江八幡は本当に駅の真ん前しか寄っておらず旅記事が成立しないので、こんな離れた所の記事としました。という訳で、ここからが近江八幡市です。●竜王町から近江八幡へ入った辺りのバス停がこの「倉橋部」というバス停です。近江八幡駅から南東約4kmの地点にあり、それまで散々歩いてきていたので、さすがにこの辺りから近江八幡駅まではバスのに乗って帰りました。●通りがかりのところで、古い看板がありました。逆さになったまま置いてあって、かつて使われてた所から取られて、そのまま保管されたのか…??よくぞ貴重なものを遺しておいてくれた、という感じです。「東芝リンクストア」とありますが、上の方には「電化器具の分割払い」なる文字の下半分が見て取れました。昭和40年頃の取付かとあるサイトではありましたが、その位の時期なのでしょうか?もう一つの看板は「福正宗」というお酒のものでした。これは金沢にある「福光屋」というところのお酒で1625年創業の老舗です。看板の右下にイラストがありますが、これは昔一世を風靡したアニメ「フクちゃん」が起用されていて、昭和37~63年にかけて、この商品のイメージキャラクターであったそうです。●倉橋部を更に北上し、近江八幡駅寄りへ進み、ここは岩倉というちょっとした地区で「清流と石工の里」を標榜しており、このでっかい水車が町の象徴的存在といえます。●結果的に歩きはここまでにして、このバス停から近江八幡駅まで乗って行ったのですが「岩倉」バス停です。バックには「清流と石工の館」なる表示が軒先にある建物がありますが、これがそのままこのバス停の待合所となっており、なかなか豪華なバス停となっており、居心地良くて結局ここでバスを待ったという訳です。それで、この館のバックの壁にあたる部分に、ここ「岩倉」の歴史として絵と共に紹介されていました。中世にこの辺りの岩倉山という山から良質の石が獲れ、これを加工する「岩倉石工」が生まれた、とありました。この加工技術は高く、八幡城、大阪城などの工事にも関わり、全国にその名を広める事になったといいます。この絵にもできた石の加工物が馬によって運ばれていく様子が描かれています。明治時代には天皇から賞をもらうなど盛んであった様子でしたが、昭和40年代になると採石が終わり、石工を営む者が無くなったといいます。石炭産業といい、山からものを取ってこれを加工するタイプの産業の多くは昭和の高度成長期に廃れてしまい、仕方のない事ですが残念ですね。●岩倉バス停横にある石造物です。これが「手づくり郷土賞」として額が取付けられていました。2001年に「地域整備部門」として表彰され、時の国土交通大臣 扇千景氏の名が刻まれています。「清流と石工の里づくり」という事で、石工については先の通りですが、石臼や石灯籠を施して、市民の憩いの場としてひと華添えている旨の記載がありました。石工は営む者がなくなったとはいえ、その産業が栄えていた事を後世へ残し続ける動きが素晴らしいと思いました。この時はただただ、石の町だったんだ、水車が回っていて水も豊かだったんだ、ぐらいな事を思っていましたが、こうして文に起こすにあたり、いろいろ見てみると、郷土愛の素晴らしさを感じる事ができました。●岩倉バス停の向かい側のです。立派な待合所でくつろげるバス停とは対照的に、こちらは「こんな所にバス停立ててる」といった感じで、石碑の塊の前に無理矢理立ててる感が満載で、向かい側とあまりに対照的すぎました。●ラストはバス亭の時刻表です。これは近江八幡駅行きの方で、豪華な待合室側のものです。意外と本数あるな、という感覚でしたが、1時間に3本はあるかなというところでした。なのでそんなに長く待たずとも良く、歩いて帰るか待つかの選択をそれほど迫られるものではない、というところでした。ゆったりした待合スペースで、程よく待つ事ができ、良かったと思います。偶々竜王町から歩いて来たので寄れたところでしたが、歴史が感じられる地に立ち寄る事ができ、旅としては収穫になり良かったです。個人的にですが、なかなか訪ねようと思う候補には入りづらい所でもありましたので。近江八幡であれば「八幡堀」や「安土城」などが見どころではありますが、それらへ行く事ができていない為、こういう渋いところの御紹介となりましたが、今度はそのような有名どころも押さえておきたい、と感じました。

  • 30Nov
    • 京都/舞鶴 西舞鶴駅前~舞鶴公園ネコだらけ

      京都府舞鶴市、JR西舞鶴駅からの歩き旅です。(2009年10月当時)●西舞鶴駅前の西側の風景です。左手前の「一づる食堂」はラーメンと定食のお店だそうです。向こうにゲートが見えますが「新世界商店街」とありました。ゲートそのものにお城の天守閣のてっぺんがくっついたものでしたが、舞鶴でもこの西舞鶴は城下町の側面が強く、対して東舞鶴は港町の側面が強く、舞鶴は2か所のメインエリアが並び立つ形となっています。●これも西口の駅前の様子です。〇に「さ」と書いて「さとう」と表記されているこのショッピングセンターは今年の1月に閉店になってしまいました。昭和感が色濃く残っていたこの建物、この写真が10年前のものなので、この10年ですっかりなくなってしまったのでは?と思っていたら、確かに閉店にはなりましたが、今年まであった事に逆に驚きを感じた次第です。1977(昭和52)年に開店したこの建物は、41年でその使命を終えたという事です。ちなみにおなじ「さとう」の福知山駅前店も今年秋に48年の営業に幕を下ろしたといいます。▼これも西舞鶴駅前にあった標識ですが、色んなものがズラリと並べられていました。いちばん上の「舞鶴公園」のところは「〇舞鶴公園」と上から貼られて1文字消されています。「西舞鶴公園」だったのでしょうか?東舞鶴の芳には「東舞鶴公園」が存在します。裁判所・検察庁などの司法系の施設は近くにありますが、市役所は東舞鶴駅の方が近いです。●この時の目的地である「田辺城跡」へ来ました。西舞鶴駅から歩いて7、8分もあれば行けますが、今は舞鶴公園として整備され、その中で立派な城郭建造物があります。「舞鶴城」ともいいますが、舞鶴城の名をもつお城は日本に多数(甲府城など16はあるといいます)あり、舞鶴藩と呼称するようになったのは明治維新後で、それまでは田辺藩であり、ここも田辺城というのが元の名になります。舞鶴藩に改称されたのも、田辺城の雅号が「舞鶴城」であり、紀伊田辺藩と区別するためであったそうですが、明治維新になってから、とは末期も末期ですね。元は安土桃山時代の天正年間に細川氏が縄張りし、後に牧野氏が入ってから本格的に整備されたといいます。それにしても立派な城門が建っているな、というのが第一印象でした。1992(平成4)年に造られた新ししいもので、門の入口手前に名称を示す石造物がありますが「田辺城資料館」と記されています。【田辺城資料館】住所:京都府舞鶴市南田辺15-22電話番号:0773-76-7211 会館時間:9:00~17:00料金:大人200円、学生(小学~大学生)100円定休日:毎週月曜日、祝日の翌日、12/29~1/3HP:http://www.maizuru-kanko.net/spot/sightseeing/tanabejyo.phpアクセス:JR西舞鶴駅より徒歩7分 ●こちらは「二層櫓」です。1940年に復興された建物だそうで彰古館と呼ばれ、田辺城の敷地内では最も象徴的な建造物といえるかと思います。ここでは錦絵の展示があるといいます。●田辺城の城郭図関連のイラストが複数ありました。上の写真は現在の舞鶴公園としての見取り図で、下の写真は城郭の割の復元図となります。公園案内図がかなり見にくくなっていましたが、別のサイトでもっとクリアな同じ図が見受けられ、別の場所のものか、この10年間で更新されたのか…、とにかくここで出くわしたこの図は見づらいものでしたが城門は5つあるようです。●公園内敷地の様子です。城郭を感じさせる部分や、池や緑など自然を感じさせる部分など、公園になっていった敷地として整備されている面も窺えます。石垣人の居ないところを狙って撮っていってますが、それほど観光客で賑わうような場所とは思えませんでした。●城郭関係の写真を撮っていたところ、思い切りカメラ目線で写る猫に出くわしました。餌付けされているのか全然逃げず、このように写ってくる有様で…。●と思っていたら、思いっきり餌が撒かれていたところがあり、ハイエナのように猫がたかっていました。餌を食べる事に夢中なのか全然逃げず、近寄っても全然大丈夫だったので、こんな風に撮れてしまいました。文に書くと平板な感じで伝わりにくいと思いますが、この光景を目の前にするとなかなか「高まる」というものです。1匹、争奪戦に敗れたのか、食べ終わったのか、離脱している猫がいました(笑)田辺城では最初城郭風景を楽しみ、後半は餌を食べる猫を眺めていました。しかしこれは10年前の様子なので、今はもうこのように餌付けされた猫など見れないかと思います。誰がエサをやっていたのか分かりませんが、野良ネコに餌をやり続けての悪影響も少なからずあると思われ、色んな所でこのような行為が無くなっていってるように思います。舞鶴公園ではこんな感じで過して、ほぼここだけを訪ねる形で西舞鶴を発ちました。今度は東舞鶴へ行って(駅前しか行けなかったので)、港町の風景や戦後引揚者のあった港の歴史を体感してみたいと思います。

  • 21Nov
    • 東京/あきる野 いろんな通りとのんびり猫さん

      東京都あきる野市、JR秋川駅からの歩き旅です。(2011年10月当時)▼駅記事でも遠くから見えていましたが、秋川駅から伸びている駅前通りです。通りの手前に目立っていたのは学習塾の建物で、進学ゼミナール系の建物が乱立していて、教育過熱か?と思いました(笑)右手前の建物は大層立派な感がありましたが。一橋ゼミナールのものです。両サイド木が立ち並んでいる並木道感もかなりありました。▼マンホールがありましたが、旧・秋川市時代のものでした。この時が2011年でしたが、秋川市が廃止になって現在のあきる野市になったのが1995年の事につき、16年以上前のもので旧市のものから更新されていなかった、という事になります。ちなみに下の自治体表記が「あきる野」で全く同じデザインのものが存在するようです。あるいは自治体名だけが更新されたのかもしれません。デザインは「秋川」とそこに泳ぐ「アユ」が表現されている、との事です。▼マールボロウ通り、というのがありました。マルボロ?たばこ??とか思いましたが…ここでの「マールボロウ」はアメリカマサチューセッツ州にある小さな市の名前です。1993年旧・秋川市制末期の状況下で姉妹提携化が検討され始め、どこと提携しようかという時に企業誘致を行っていたところ、アメリカに本社を置く企業が進出してきて、この企業の本社が同州にあったことから、マールボロウ市を紹介され、姉妹提携となったという訳です。この辺りはこれ以外にも「〇〇通り」がかなり多かったように思いました。▼標識に「五日市」「八王子」「青梅」などと、いかにも西東京という感じの地名が並んでいました。この先の横に伸びている「滝山街道」ですが、この後2013年に「新滝山街道」が開通する事となります。▼今度は「市役所通り」です。これはいたって分かり易いですね。あきる野市役所は秋川駅から北東へ徒歩約10分の位置にあります。▼という訳で、あきる野市役所です。市役所というより会社のオフィスビルっぽい感じがしました。21世紀の幕開けにあたる2001年の3月に竣工した庁舎で、あきる野市になってから6年を経た時にできた建物です。7F建てで高さは約30mあるといいます。▼これは本近くにある市庁舎の別館、と記憶しています。屋上へ上がる階段部分だけ別づけになっていて、色もやたら目立つ色遣いでしかもらせん階段になっていたり、何気に目を惹かれる部分でありました。▼これはなんで撮ったかというと「東京にも畑があるんだ!」と思って撮ったものです(笑)そりゃあるだろう、って感じですし、ましてや西東京だとこんな風景は決して珍しくないだろう、というところなのですが「東京」の2文字だけで「隅から隅まで都会」とどこか勝手に思っていた部分があったのかもと思います。高校野球の夏の選手権大会の地区予選で東京は「東東京」と「西東京」に分かれますが、地理的に西と東に分割されるのではないそうです。東京都民なら当たり前の事かもしれませんが西日本民として今回初めて知りました。確かに東京23区は地理的にはすべて東東京になるので、そうすると都心部は全部東東京になってしまう、という事で世田谷区や杉並区は西東京に入って試合をしているといいます。学校数を均等に近づけるよう心掛けされているのだそうですね。▼今度は「キララ通り」です。市内にあるホールの「秋川キララホール」のある通りです。▼そしてこれがその「秋川キララホール」です。この荘厳な建物がとにかく印象的で、秋川市で最も印象的な風景がこのホールのものでした。中でも、下3枚のうちのいたばん下の写真の柱がいくつも続いている格好のやつが、ホントにいま見返しても素晴らしい!と思えるのです。▼最後はこのカットで。これは駅近くまで戻ってきてある公園の一角ですが、ベンチに猫がドカッと座っていました。で、トボトボ歩き出したと思ったら、突然伸びをしたり…とそんなカットが撮れてしまいました。緊張感とか逃走本能とかまるで感じられないネコでした。そこがまた愛らしい、今まで撮ったノラネコでも五指に入るぐらいののんびり感だったように思います。これもまた、あきる野市の思い出の印象的なひとつでもありました。

  • 18Nov
    • 大阪/摂津 太田裕美コンサートの夜!

      大阪府摂津市、JR千里丘駅からの様子です。(2007年8月当時)▼いきなり何の変哲もない?風景から始まりますが、「三宅交番前」という交差点で、これは千里丘駅から東へ約350m程進んだ地点になります。現在摂津市には6つの交番があるといいますが、そのひとつである三宅交番というのがここにあります。▼千里丘駅から東へ500m程の所にあるこの川は「大正川」という淀川水系の川です。摂津駅の記事でも写真をつけましたが、ここにも水管橋がありました。そして親水公園になっている部分もありました。やはり摂津といえば川と遊歩道、自分の中のイメージはこれが強いですね。▼これは街なかで見かけた歩道橋ですが、らせん階段というより、とぐろ巻いてる感じが大変印象的でした。▼香露園という交差点ですが、この時は「摂津市民文化ホール」へ行くために千里丘から歩いてきてて、阪急線の線路も越えてきました。単に最寄り駅ならば「阪急 摂津市駅があるじゃないか!」となるかもしれませんが、当時摂津市駅はまだ開業しておらず、この後の2010年に開業しているので、この2007年当時はまだありませんでした。そんな事があってかなくてか、摂津市といえば千里丘のイメージだったのでJRでやって来て、そのまま歩いてやって来ました。▼いよいよ摂津市民文化ホールまで来ました。隣の休日小児急病診療所と階段部分で直結していました。1980(昭和55)年にオープンしたこのホールは、キャパは約450人で、小ホールという感じですが、そこでコンサートを見る事ができたのでした。旅記事から脱線してしまいますが、この時は2007年8月25日、太田裕美さんのコンサートを見に行った訳です。太田裕美さんといえば、今も歌い継がれる「木綿のハンカチーフ」で有名な70年代のアイドルとニューミュージックを結び付けていた位置づけの歌手で、結婚に伴う育児休業を経て90年代前半から少しずつ活動を広げていってました。この時裕美さんのコンサートに行ったのが約6年ぶりで、行こうと思えば行けた機会もあったのでしょうが、なんやかんやで延び延びになっていて、やっと行けたという感じでした。▼完全に国内旅行の記事ではない状態で、ただのライブ参戦記みたいになっていますが、これがこの時の摂津市民文化ホールのライブ前の会場付近の様子です。しかしこのコンクリート色丸出しの建物で構成された歩道は渋すぎますね。ライブでは冒頭にピアノ弾き語りでデビュー曲「雨だれ」で始まるというオープニングにはあまりに相応しすぎるナンバーに観客から「おー」という歓声が溢れていたのだけはよく覚えています。後のセトリは正直なところもう覚えていませんが…。そんな裕美さんですが、最近重大な発表をされました。乳がんに罹患し、7月に手術を行い、8月より抗がん剤治療に入っているとの事でした。今は仕事をしながら治療を行っているという事で、休養という選択肢を取らずに活動を続けています。単に安静にしていて治るものなら、いくらでも安静にしていて頂きたい、と思いますが、病と共に生きる事を選択した裕美さん。という訳でライブもまだされているようで、行きたいのですが今年の京都のライブチケットがソールドアウトになって行けなかったり、それまで行けた所も行けなくなってしまった感じがします。また人気が盛り返してきているのか??太田裕美コンサートは癒しと昔から変わらぬテイストとその他色んなものをくれます。キーも昔のまんまでベテラン歌手によくあるキーダウンとか抑えた歌唱もなく、ガチです。どう終われば良いのか分からなくなってしまいましたが、この摂津で見たライブも確かに太田裕美のライブを見た1ページとして改めて心に刻み込んでおきたい、と思いました。

  • 17Nov
    • 阪急 西宮北口駅 (兵庫県西宮市)

      兵庫県西宮市、 阪急/西宮北口(にしのみや・きたぐち)駅です。西宮市は、兵庫県の南東部に位置し、人口は487,413人(2019.10.1現在)で、兵庫県では神戸市、姫路市に次ぐ第3位の人口規模を誇る市です。阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場では阪神戦のホームゲームは勿論、高校野球の春夏全国大会も行われ「甲子園」としてあまりに有名であり、何かの全国大会には「〇〇甲子園」と呼ばれるほど代名詞として有名なものとなっています。また毎年「福男」選びで男たちが激走している「西宮神社」の存在も近年お馴染みになってきています。-阪急/西宮北口駅-【路線】阪急神戸本線(大阪梅田-新開地間)        今津(北)線(宝塚-西宮北口間)        今津(南)線(西宮北口-今津間)【開業】1920年7月16日【訪問】初訪問-1995年9月【1日あたり平均乗車人員】 54,995人/日 (2017年)【近隣の主要駅】 (大阪梅田方面) 大阪梅田駅→5駅            (新開地方面) 神戸三宮駅→8駅            (宝塚方面) 宝塚駅→7駅            (今津方面) 今津駅→2駅 ▼駅名標周辺の様子です。阪急のキー駅的な存在で、この写真にもあるように各方面への乗換駅としての位置づけを有しており、のりばは7番まであります。阪急の神戸本線に属しながら、今津(北)線と今津(南)線という路線にも属しています。西宮市では、JRで「西宮駅」がありますが、市の代表駅的な存在ではなく、利用者も当駅の半分以下で、西宮市においてもこの西宮北口駅が代表駅として相応しい規模を持っています。この記事での写真は2006年当時のものを載せていますが、ここを初めて訪ねたのは1995年秋の事でした。その当時はオリックス・バファローズの前身である「阪急ブレーブス」の本拠地であった「阪急西宮スタジアム」が駅の真ん前にありました。当時すでにオリックスがグリーンスタジアム神戸を本拠地としていて、西宮スタジアムは大規模ライブやイベントなどに利用されていましたが、2002年をもって閉鎖され、2005年には解体されてしまい、今は「阪急西宮ガーデンズ」という大型複合商業施設へと生まれ変わっています。▼阪急独特のワインレッドの車体がホームに停まっているところです。他のホームへ階段を上らずに行き来できる構造を持っています。▼ホームから上がっていった2F部分の改札内の様子です。色々なお店が出ていて、時計台などもあったりして、阪急きっての大規模駅のひとつと言えると思います。▼駅前の通りの一角です。駅南口の「芸術文化センター前」交差点ですが、この施設は現在も存在します。2つの建物を結ぶ渡り廊下が印象的です。この地点とは駅から見て逆方向になりますが、この時は「西宮ガーデンズ」はまだ存在せず、前身の西宮スタジアムが解体された翌年で、ガーデンズの建設工事が着工された頃です。▼西宮北口駅の駅舎です。「にしきた」の通称で親しまれる駅であり、駅ビルにはなっていないので大きな建物ではありませんが、中には多数の店があり、駅の中だけでもそれなりに時間のつぶせる所です。阪急西宮ガーデンズはイベントはじめ映画館、多数の飲食店のあるエンタテイメント施設ですが、この駅と直結されておりアクセス至便です。といったところで西宮市を代表する駅の西宮北口でした。

    • 大阪モノレール 摂津駅・南摂津駅 (大阪府摂津市)

      大阪府摂津市、大阪モノレール/摂津(せっつ)駅と南摂津(みなみせっつ)駅です。-大阪モノレール/摂津駅-【路線】大阪モノレール線(大阪空港-門真市間)【開業】1997年8月22日【訪問】2007年10月【1日あたり平均乗降車人員】 5,162人/日 (2017年)【近隣の都市駅】 (大阪空港方面)千里中央駅→6駅           (門真市方面)門真市駅→3駅▼駅名標にある「摂津」の文字。紛れもなくここは摂津市です。JRでも摂津市に駅がありますが、それは「千里丘」という名前で、摂津市の名前のカケラもありません。摂津市というネーミングが旧国名を当てた形ですが、元は「三島市」であったものが、静岡県に同名の市が既に存在しているという事で、市制施行の即日に摂津市になったといいます。ただし、千里丘駅以外は「摂津」の名を持った駅が多く、当駅以外にも「南摂津」「摂津市」など、3つも「摂津」の付く駅が存在します。▼ホームの真ん中から。モノレールの駅で、高架なので必然的にホームから降りる事になるのですが、階段とエスカレータが並んで設置されていました。そしててっぺんは覆われて両サイドも窓が続きシェルターのようになっています。▼改札を出て、地上へ降り立とうとするところです。改札を出て屋外へ出るまでのフロアが広く取られています。モノレール駅なのである程度画一化されていて、駅ごとのオリジナリティがそんなにあるとは思いませんが、どこも平均的にそれなりの設備が充実しているとはいえると思います。また開業が1997年と新しい駅で、この写真が2007年当時であったので、まだ開業10年の時点でもあり、まだまだ設備が綺麗というのもありました。大阪モノレールは1990年に開業し、その後94年、97年…と延伸を続けてきて今日に至り、当駅はその終盤期に開業しています。▼長い通路と、上を通っている長い高架レールが見えます。モノレール駅独特の風景が見えました。▼ 「モノレール摂津駅前」という実に親切丁寧な名前の交差点が、駅前にありました。▼地上に降りきっての駅の様子です。モノレール駅というのは、市の中心駅の駅前と違って、街ができあがってない感じの所に建つ事が多い、と勝手に感じている訳ですが、それ故なんでもかんでも揃っているような都市ではない感じが逆に個人的には好きです。▼摂津駅の駅舎です。ビルに囲まれての立地なもので、狭苦しい感じの駅前しか撮れませんでした。狭い中無理やり撮った感が満載ですね。▼摂津駅近くで川を渡るモノレール路線ですが、これと平行にこのような鉄橋がありました。水を対岸に流している水管橋だと思いますが、こんな角度で眺めると素晴らしく壮観!という感じでした。▼川辺とわがまち 北コース という事で、遊歩道が造られていました。阪急の摂津市駅の前にも川沿いの散歩道を通った記憶があり、自分の中で摂津市といえば「川沿いの遊歩道」のイメージがすごく強くあります。以上、摂津駅でした。つづいては南摂津駅へとまいります。-大阪モノレール/南摂津駅-【路線】大阪モノレール線(大阪空港-門真市間)【開業】1997年8月22日【訪問】2007年10月【1日あたり平均乗降車人員】 9,526人/日 (2017年)【近隣の都市駅】 (大阪空港方面)千里中央駅→7駅           (門真市方面)門真市駅→2駅▼駅名標の周辺は摂津駅と何ら変わりありません。「摂津」に対して「南」摂津ですが、利用者数はこの南摂津駅の方が倍近くあり、方角が冠される駅が冠されない駅よりも利用者数が多い例は珍しいと思います。▼ホームはこんな形でのカットとなりますが、これも摂津駅とさして変わる部分はありません。沿線駅はある程度画一化されており、一定レベルの設備が整っている一方で、個性に欠けるというかオリジナリティを感じるのが難しい部分はあります。▼ホームからレール沿いに撮ったものです。モノレール線路と平行に、近畿自動車道が走っていて、車が猛スピードで流れていくので、風景的にダイナミックさを感じました。▼ホームから降りたスペースにはこんな船の展示がありました。2007年当時で今から12年前の事なので今も同様に展示してあるのかは分かりませんが、2018年3月の時点では展示されているとの記事を見かけたので、今でもまだありそうです。そしてその説明板もありました。「井路(いじ)と井路舟」ということで、その船が展示されていました。この駅のある地区は昭和40年頃までは湿田地帯であり、刈り取った稲を乗せた船が行き交う姿が見られたといいます。その時行き交っていた船がこの井路舟で、その水路が井路という事です。いわば井路舟はリヤカーや軽トラであり、井路は農道であるといったところでしょうか。この写真にもありますが、洪水時の避難路としても活用されていたといいます。昭和40年頃まで見られていたなんて、そんな最近までそんな風景があったのか!と驚きでした。▼改札を出たところのフロアです。左が改札で、右は券売機や時刻表などが見えます。▼駅の階段を下りるところですが、モノレールの線路沿いに歩道が長く続いていました。駅前広場が左に覗いて見え、バスが停まっていて、バスが行き来する事が分かります。やはりモノレール駅舎はどこも大規模ですね。▼南摂津駅の駅前広場風景を上から見たものです。ロータリーがキッチリつくられていて、真ん中にタクシー停留があり、周りをバスや一般車が行き来していました。▼南摂津駅の駅舎です。駅舎は基本、摂津駅とおんなじようなものですが、駅前広場はこちらの方がより整備されている感じがしました。交通機関も活発に行き来していたように思います。モノレールの高架風景は下から見ると壮観ですね。以上、南摂津駅でした。残念ながら、この摂津駅・南摂津駅とも駅前のほんの少しを歩いただけで観光しておらず、摂津市全体的にあまり旅しておらず、どちらかというと用事で行く事の方が多かったので、これからは旅に重点を置いて摂津市を見て行きたいと思います。

  • 13Nov
  • 12Nov
    • 栃木/真岡② 秋の大産業祭

      栃木県真岡市、 栃木/真岡① 城山公園からの眺めに続く真岡市の記事です。昨日から、この真岡市の記事を書いていましたが、急に事件が飛び込んできました!アパートの男女2人死亡…複数の刺し傷、胸に包丁まさにビックリです…▼そんな事件に驚きつつ、前記事でひとしきり街の様子を見ながら歩いた後に行き着いたのはこの「真岡市大産業祭」の会場でした。この時、11月23日で偶々このイベントの開催日で、この日でなければこの辺りは何もなかったかもしれないところを、こんなイベントがやっていてものすごくラッキーで、真岡でいちばん記憶にあるのはユニークな駅舎もそうですが、この大産業祭も同程度に印象深かったです。産業祭という事であったので、企業の出店見るだけで終わるのかな??と思って見ていましたが、なかなか侮り難い、嬉しい誤算があったので、佳い思い出となりました。この大産業祭、今年も11月23日に開催されるという事で、今回は節目の30回目を迎えるという事です。詳しくはコチラ▼産業展のエリアを歩いていたら紅葉が随所に見られました。ちょうどそんな季節なので良かったです。産業展は必ず11/23なので、これを見に行けば、もれなくこんな紅葉を見る事ができる訳です。▼ただの企業の産業展と思うなかれ!と思わされたのが、これが目に飛び込んできた時でした。「牛!」と思って見たら結構な数いました。ひたすら草を食べる牛を見ていましたが、 「牛さんをさわったら…」と書いてあって「さわっていいんだ!」となりました。しかし牛というのは肉牛は数年しか生かされず、乳牛もその役目を終えると食用肉に転じて利用されるとの事で、5、6年くらいしか生かされないという家畜は非情な運命の下で生かされているのですね。この当時今から7年前ですが、今も生きている牛は1匹たりともいないでしょう。と思うと寂しい事です。しかしこの模様が地図みたいで面白いですね、ネコもそうですが、遺伝子が色をつけさせるのでしょうね。▼ 「いかめし」や「あさり炊き込み」と幟が立っていました。単なる企業展覧会ではなく、地場産業展的な意味合いが強いと思いますが、しっかり食べ物の屋台も出ていました。これがまた良かったですね。▼回村の像 という銅像がありました。二宮尊徳先生 とあります。あの二宮金次郎の事です。二宮金次郎といえば全国の小学校に像が建っているような、薪を背負ったあの恰好じゃないの??と思われる方もいるでしょう。何?この前屈みでもなく、歩きスマホみたいな格好でもなく、まっすぐに立っているのは!とも思われるかもしれません。回村、とあるのでこの村の事を振り返って懐かしんでいる様子が像として描かれたのでしょうか。といっても彼はここの国の人ではありません。ただしこの真岡とかかわりの深い人であり、真岡には「尊徳記念館」というものがあるといいます。現在の真岡へ派遣されて再生再建の舵取りを任されて、村人の抵抗に遭いつつも再建策に乗り出したといいます。個人的に二宮金次郎って学者かと思っていましたが、農政家の面が強いようですね。またこれも個人的に勝手に思っていましたが、18世紀の江戸中期あたりの人物かと思っていましたが、割と幕末寄りの年代の方だったのですね。1787年に生まれて1856年に70歳で亡くなっていますが、もしもう10年も生きていれば顔写真があったかもしれない、と思うと残念に思います。18世紀生まれの人物の顔写真ってなかなかないものですよね。▼11/23という時節柄、黄色い紅葉にも出会えました。赤に黄色に美しく…牛が見れて、ものが食べられて、紅葉が見れて…なんとも素晴らしいイベントです。▼屋台で出ていた、あさり炊き込みと焼きそばを買ってきました。こういう所で食べるものは、また格別に美味いものです。▼竹馬体験コーナーもありました。昔懐かしい竹馬、もうカラー竹馬ですらも懐かしのものとなってしまいました。山で竹を切ってくる所から始めて、竹馬をつくっていたのが懐かしく思い出されます。今や竹馬に乗って歩く子供たちなど見る事はなく、こういうところで自然と触れあってほしいなと思ったりしました。▼ここからは大産業展の会場を離れてのカットとなります。これは前記事にあった真岡信用組合の建物の隣にある建物で、見事な石造建築物でした。▼石の次は「木」です。木造の渋すぎるこの建屋は「芳真館」という看板がついていましたが旅館だったのでしょうか。名前の上に何を書いてあるのかが見えずよく分かりませんでした。▼これもまた渋い建物ですね。。表具店とのことですが、表具とは掛け軸とか屏風、襖などを指し、今の暮らしには縁遠くなっていったものです。個人的な話ですが、うちの近所にも表具店がありましたが、いつの間にか無くなっていて、住宅に建て替わっていきました。この建屋は入口周りとか窓周りとかも時代を感じさせてくれるもので、いったいいつ頃稼働していたのか??とついつい想いを馳せてしまいます。▼海潮寺というお寺に来ました。そしてそのお寺に架かる橋と、この流れる川と共に。お寺は山門が実に立派なものだったので調べてみると、文化3(1806)年に建立されたもので、栃木県指定有形文化財となっています。このお寺の歴史は1510年に始まったとされていますが、別の地にあった別の名前のお寺であったようです。それから10数年ほどで現在地に移転され、海潮寺の名前にもなったといいます。江戸時代は前半は歴代藩主の庇護下にあったものの、18世紀終盤に廃藩となり、その後は天領として幕府直轄となり、その幕府の庇護下にあったといいます。▼海潮寺の境内のカット色々です。色々と画になる所が多かったです。特に山門は見ごたえありです。▼最後はこの写真です。高寺歩道橋という歩道橋ですが、とにかく足が色んなところへ方々伸びまくっていたのが大変印象的でした。栃木県真岡市、ここに来るまではまともに「真岡」の読み方さえ知らず、「まおか?まさおか??」とすら思っていたのですが、行ってみてこんなに味わいのある街だとは思いませんでした。

  • 10Nov
    • 栃木/真岡① 城山公園からの眺め

      栃木県真岡(もおか)市、 真岡鉄道/真岡駅からの歩き旅です。(2012年11月当時)▼まずは真岡駅東口のこの立派な藤棚です。藤だけでなく、ソメイヨシノ、ハナミヅキ、ツツギなどがそれぞれの季節を彩るエリアで、この一帯が「緑のデザイン賞」として建設大臣賞を受賞しています。そんな憩いのゾーンが真岡駅にはあります。▼ 「関東ふれあいの道」として真岡駅からのハイキングコースが提示されていました。 1,名刹と旧跡を訪ねるみち(16.2km) 2,雲流れる桜花のみち(14.2km)歩いてみましょう、とありましたが、真岡駅にはレンタサイクルがあり、サイクリングでもよいかも…と思ったのですが、ただサイクリングだと行ってまた戻ってこなくてはならないので、距離が倍になってしまうのと、ママチャリしかない場合は、その倍の距離行くのが逆に辛いことになりそうです。▼左側に隠れているのが真岡駅で、その駅前の道路の様子です。昔ながらの商店が結構ありました。▼城山公園通り という市街地へ出てきました。城山公園というのがありますが、かつての真岡城が今は真岡小学校となっていたり、またお城の稼働期間?があまり長くなかったようで、城下町的な側面はそれほど前面に押し出されているという印象は受けませんでした。ただこの辺りの桜祭りは「一万本桜祭り」というぐらいの派手なものではあります。▼街を歩いていて出くわした真岡市の中心地街の案内看板です。「SLと木綿の里」として謳われていました。19世紀初めの文化文政年間から天保年間にかけて「真岡晒」として隆盛を極めたそうで、今は真岡木綿会館というのがあります。この地図の真ん中には桜並木が続いていて、春に行くとそれは綺麗であろうなという事が窺えます。▼城山公園通りを歩いていたところ、歩道橋に出くわしましたが、この橋の屋根の部分が実にユニークだったので撮ったものです。何このフレームは?という感じで。安全面では若干一役買いそうですが。ちなみにただの歩道橋ではなく、右側にも伸びていて、ここから降りられるようになっているのが特徴です。それが為にフレームがついているのかもしれません。▼幹線道を通る中、横を見れば小高い丘が見えました。緑の中を階段が寸断する形で続いていて、上に木々があって画になる風景でした。そしてその階段を上ってみました。▼階段を上ってみると、真岡の街が一望できる素晴らしい風景が目に飛び込んできました。家屋が目立っていて、生活感の強い風景、と感じました。▼下から眺めていた時は、この上は何なのか知らずに上っていったのですが、この辺りを見て「城跡?」と感じ、「これが城山か」と今更のように気づきました。真岡城の敷地?と思われる部分が、工事中で柵によって囲われていました。▼説明板がありました。真岡陣屋跡とありました。城山公園内としながら。18世紀末の1797年に竹垣三右衛門(1742-1814)という人物が幕府の費用により建てたものといいます。陣屋としては1851年に一度焼失して、建屋縮小の形で、全く違う構造にて再建したものの、最終的に1868年に再度の焼失により廃陣になったとありました。▼これも城山公園の敷地内ですが「高札場」です。真岡の城下としてこの陣屋に、法などが迅速に掲示されたといいます。▼高札場の傍に置いてあったマスコットです。姫様のようですが…、「福姫 舞ちゃん」 というものです。2008(平成20)年に真岡木綿会館がオープンした時に、この「もおか木綿」を活かしたオンリーワンの街づくりをしようと研究会が結成されたそうです。この一環で、織姫キャラクターを設定しようという事でつくられたのがこの「舞ちゃん」だそうです。ちなみに「舞」の由来はこの真岡の地名由来のひとつである「舞丘」によるものといわれています。▼街を見下ろしていると、こんな景色にも出くわしました。今と同じ11月で紅葉の時期でもありましたので、真っ赤に色づくこれらの木々の風景を楽しむ事ができました。▼真岡信用組合の敷地に「真岡の夏祭り」として大きな看板が出ていました。毎年7月26~28日に開かれ、今年は節目の50回目を迎えたという伝統的なお祭りです。毎年約25万人が訪れ(真岡市の人口の3倍!)、多数の屋台・山車が出て、花火は約2万発上がるという超豪快なお祭りです。2万発というと、全国の花火大会で打上数ランキングの10位に入る(1位は長野県の諏訪湖の花火大会で4万発!)多さで、この花火だけでも見に来る価値ありという事なのか、多くの見物客が詰めかけているようです。▼真岡市役所です。1957年竣工の庁舎という事で、この当時で既に築55年を経過し、現時点では60年以上となります。という事もあって、現在は新庁舎の建設工事中です。2018年9月~2020年7月を工期予定として進行中という事で、現時点でかなり形ができているようですが、来年には新庁舎として使われる事になるのでしょうか?そして庁舎入口すぐの所にバス停の標識がありましたが、こんな所には停まらないだろう、というところに標識がありました。バスは真岡市のコミュニティバスで「コットベリー号」という名前のものです。コットは木綿のコットンから来ていて、ベリーは苺が名産である事からきている、実に分かり易いネーミングです。▼真岡市内を流れるメインの川である「五行川(ごぎょうがわ)」です。利根川水系の川で長さは約52kmあり、真岡市だけでなく、県内ではさくら市等も流れており、茨城県でも筑西市が流域内になっています。今回記事はここまでで、真岡市の記事は次回に続きます。次回はこの時期のイベントを中心にお送り致します。

  • 09Nov
    • 山梨/甲斐 塩崎駅前の風景

      山梨県甲斐市、JR塩崎駅の周辺風景です。(2019年7月当時)▼塩崎駅前すぐの所にあるバス停標識です。甲斐市民バスということで、コミュニティバスのダイヤと共に標識がありました。市営バスではなく、市「民」バスでした。甲斐市の運営しているバスなので、実質市営バスですが…。駅前のバス停なのに1日2便しかない!!事に驚きました。旧双葉町の中心駅であったのに、それでもこの本数かと…しかもこれ毎日ではありません、 月曜日と土曜日のみ です。この便は「ラザウォーク甲斐双葉」というところの循環路線のようです。ラザウォーク甲斐双葉とは、ユニーが管理運営しているショッピングセンターですが、ユニー運営のモール型の業態として他にも「〇〇ウォークXXX(地名)」のタイプのものがいくつかあり、 「エアポートウォーク名古屋」も同系統になります。ここへはこのバスでも行けますし、徒歩でも約10分でも行けます。このバスを利用する方が、ダイヤ希少につき至難の業ですが。▼駅前にあった甲斐市の観光ガイドマップです。観光名所が写真付きでピックアップされていました。地形的には南北に長い市域になっています。観光名所としては 双葉水辺公園 …芝生広場、恐竜遊具、バーベキュー用かまどなどのある水辺の公園 敷島梅の里 …2月下旬~3月上旬に梅の咲き誇る名所 信玄堤  …武田信玄が築いた堤防で桜の名所 昇仙峡長潭橋 …昇仙峡入口にある日本有数の戦前(1925年)竣工のコンクリート橋などのものが見受けられます。残念ながら、それらのどこへも行けてませんが…。▼これは塩崎駅南口から50mほど南下してすぐ左を向いた(東側の)所の幹線上ですが、ここに「塩崎駅」バス停があり、標識も複数立っていました。駅前広場のバス停は週に2日のみで、それも1日2便ずつ(循環線のそれぞれの方向)しか来ない状態ですが、塩崎駅のバス停としては、こちらの方が頻繁に来るわけで、実質的な塩崎駅前のバス停の位置づけになるかと思います。駅前広場のバス停は甲斐市民バスのみで、ここのバス停は「山梨交通」のバスも停車します。市民バスでのバス停名は「塩崎駅入口」となっており、こちらも週2日ですが1日計6便来るので、駅前広場のバス停よりは、こちらの方がはるかに多いです(といってもやはり週2日ですが…)全く違うのは、毎日来る便がある事で「山梨交通」のバスは毎日運行されています。平日は1日9便来ますが、土日祝になると半分以下の4便になります。それでも毎日来る便があるだけで、駅前広場バス停より遥かに優位性があり、塩崎地区のバスでの交通要衝地点といえるかと思います。このバス停からは隣の韮崎駅行きとなっており、韮崎市の各施設等を巡りつつ15分程度で韮崎駅へと辿り着きます。反対方向は県都・甲府駅バスターミナル行きとなっており、湯村温泉等を巡りつつ約30分で甲府駅のバスターミナルへと辿り着きます。韮崎駅や甲府駅などはJRで行く方がはるかに速い訳ですが、少し風景を楽しみながら遠回りしてみたい場合は、このバスルートを活用するのも良いのかもしれません。▼こちらは逆に塩崎駅南側の幹線道に入り右側(西側)を向いた形での景色ですが、建物がだいぶまばらな感じでした。ここを左側(南)へ下ると先述の「ラザウォーク甲斐双葉」に行き着きます。そして郵便局の建物が覗いて見えたので行ってみたら、なんと真っ黒の建物でした。この双葉郵便局の建物、実に渋かったです。旧町名の「双葉」の名前があちこちに見られる状態でした。駅の名前が「塩崎」なのですが、これは双葉町になる合併前の村が「塩崎村」(1889~1955年まで村として存在)であった事からきているようで、この辺りの旧々自治体名になるのでしょうか。なかなか塩崎の名前はそこらの建物からは見受けられませんでした。▼双葉郵便局を更に西へ進んだ所ですが、流れている川は東川(ひがしがわ)という富士川水系の川です。▼幹線道から南へ眺めればラザウォークが見えます。塩崎はもとより甲斐市きってのショッピングモールで甲斐市民バスの各バス路線が停まるある種の要衝であるところです。本当は寄り道してここまで行ってみたかったのですが、時間がなかったのでここから眺めるにとどめました。▼塩崎駅へ戻る格好で東へ歩いてきて、駅近くの「甲斐市双葉公民館」の建物です。こんな豪華な建物が公民館だとは思わず、美術館か市民会館系のものか?と思っておりました。この時、あいにくの天気で雨が少々目立ってしまっています。▼これは「双葉ふれあい文化館」という施設です。この塩崎駅南あたりは図書館や市役所支所や主要施設が集中しているエリアとなっています。この施設は500人を収容できるホールを有し、その他文化活動に使用されています。双葉地区の市民会館的なものかと思います。▼ふれあい会館のすぐ近くにある甲斐市役所双葉庁舎です。元の双葉町役場でもあり、町役場当時の1978(昭和53)年竣工となり、築40年を越える格好となります。また、現在の甲斐市役所としては旧・竜王町にある形となっています。▼双葉庁舎とわずかな距離で建物を隔てて、その敷地の片隅にあるような感じで建っていた双葉歴史民俗資料館です。隣接して消防団の分団が入っていました。江戸期から昭和期の農具・民具の展示があるという事で、この資料館も入りたかったのですが時間がなく、外から眺めるに終始しました。というより、ここの場合は見たければ事前に公民館(先に出たレンガ色の豪華な建物)の事務所へ申告が必要との事で、どうしても見たいと思わないとそこで少々萎えています。▼と、一連の施設エリアを一通り見て塩崎駅へ戻ってきました。駅前の自販機は「甲斐のうまい水 龍王源水」というお水のものでした。これは日常飲用している水道水の原水との事ですが、釜無川の伏流水でミネラルが豊富に含まれている事が調査にて明らかになったという事です。そして自販機前面のこの顔、 「ポッカ」の男の顔です。昭和の時代からずっとある顔ですが、今更のように「今年の顔に、俺はなる」とはビックリしました。昔はそれこそ、CMでこの顔がリアルの柴田恭兵さんの顔に変わっていくやつがありましたが、この顔見て一番に思い出すのがそのCMです。という訳で、実に浅い部分しか見られなかった甲斐市でしたが、今度は竜王地区をもう少し深く探訪するか、名所をピンポイントで行ってみるか、少し深い楽しみ方をしたいと思います(これだも再訪だったのですが…)それでは、甲斐市の様子でした。

  • 07Nov
    • JR塩崎駅 (山梨県甲斐市)

      山梨県甲斐市のJR塩崎(しおざき)駅です。甲斐市では、JR竜王駅をupした事がありますが、今回は市内2駅あるうちのもう1駅である、この塩崎駅の御紹介です。-JR塩崎駅-【路線】JR中央本線(東京-名古屋間)【開業】1951年12月25日【訪問】初訪問-2008年9月【1日あたり平均乗車人員】 1,056人/日 (2018年)【近隣の都市駅】 (東京方面)甲府駅→2駅           (名古屋方面)韮崎駅→隣駅▼古き良き時代の雰囲気の駅名標でした。初訪問は2008年9月の事ですが、10年余り後の2019年7月に再訪し、本記事ではその最新再訪時のものを中心に、初訪問時の写真を交えつつお届けしたいと思います。駅名の漢字が小さくて、ローマ字がすごく大きいです(笑)1951(昭和26)年に開業したという割と後からできた駅で、戦後に開業しています。隣駅は、甲斐市のもう一つの駅である竜王駅と、もう一方は韮崎駅です。甲斐市はWikipedia上では竜王駅の方が中心駅とされていますが、竜王駅は旧・竜王町の駅であり町名を名乗っていますが、、塩崎駅は旧・双葉町の駅で町名を名乗っていない形です。旧・竜王町は人口が約4万で、これに対して双葉町は約1万3000と約1/3です。それ故、竜王駅の方が中心駅と位置付けられているのかと思います。ただ、駅前を巡る限りではどっちが中心か?は明確には分かりづらかったです。ちなみに甲斐市を構成しているもうひとつの旧・敷島町は人口約1万9000で、ここには駅はありません。▼ホームは2面2線で、竜王駅の方は優等列車が停まる事がありますが、この駅は優等列車が停まる事はないです。この分だけ、市内の竜王駅と差がついてる部分があるのかなと感じます。また、この両ホームは繋がっておらず、跨線橋も構内踏切もありません。片側のホームから一旦駅を出て、線路下をくぐる道路を通って行き来するという面倒な構造になっています。▼こちらは2008年当時の塩崎駅のホームです。かなり"つんつるてん"で屋根はなかったです。他の角度からも撮ったものがありますが屋根が確認できず、この券売機辺りが唯一の雨を避ける所?のような感じでした。この時の事を考えれば今は随分グレードアップしているのかもしれません。▼2019年版に戻りますが、2008年と全然違う一つに、このようにホームに待合スペースが造られています。ガラス張りの室内型でした。2008年初訪問と、2019年再訪の間の2014年に新駅舎供用開始となっており、その大きな違いを今回訪問で目の当たりにする事ができました。この待合室はホーム上というより、ホームに外付けする形で無理やり造られた感じでした。明らかにはみ出しているのが待合室横のカットで分かると思います。▼これは北口の改札を出た様子です。こんなまわりくどい?感じの通路が伸びていました。これも2014年の新駅舎になってからのものと思われます。▼上の写真の北口通路の途中に、こんなものがありました!つばめの巣!!これに気づいたのは鳴き声ではなく、この通路の手すりでした。この巣の真下にある「手すり」に新聞紙が謎に掛けられていて、上を見たらこの巣があったという具合で、新聞紙はその糞受けの掛けられていたものでした。駅あげてこの巣を守っていたのですね。▼駅に貼ってあったものですが「約束のさくら」とありました。そのマンホールカードを12月14日から配布、とありました。いつの12月14日からかというと、去年のです。マンホールカードというのは、各自治体によって異なるデザインで描かれているマンホールの絵をコレクションカードにしたもので、この甲斐市ではこの時2枚目のカードを配布する事となったようです(1枚目は2016年配布)。「約束のさくら」とは、旧塩崎駅前にあった桜の木を新駅舎の前にも必ず植えるとの約束事があったようで、この話に因んでという事でした。マンホールは「落ちない」を意味し、サクラはそれが咲く事でサクラサク=「願い叶う」を意味し、合格祈願の縁起物としてもアピールされているものです。▼ICカードの機械が入場と出場の2台ありました。2台あるのって珍しいなと思って見ておりました。▼2面のホーム間が繋がっていない事を先に書きましたが、駅を出てこの高架下をくぐって行き来する事になります。(歩道もついています)せっかく2014年に駅リニューアルをしたのに双方直接行き来できていないのは何とも勿体ないです。元々そんな必要がないのなら別ですが…▼階段を上れば上りホームへ行き着くのが、この2番ホームの方ですが、反対側の1番ホームへは_↑となっています。上の写真の高架をくぐって回って下さい、という事になります。手すりが長く張り巡らされ、バリアフリーに注力している様子が窺えます。▼この駅の名物的なものとして、このトリックアートがあります。椅子も手前に飛び出してきているように見えます。▼塩崎駅の北口駅舎と駅前広場の様子です。駅前広場の雨除けの屋根はかなり充実していて、そっちの方が目立ってしまって駅舎がうまく撮れませんでした。また、南口は全然違う顔をしていますが、そこをちゃんと撮っていませんでした。(こちらよりこじんまりとしています)ロータリーの真ん中は、きれいな真ん丸でした。▼南口です。といっても駅舎が取れずロータリー周りだけですが…タクシーのレーンにカラーコーンが置かれていて工事中のようでしたが、タクシーが停まっていたりとか、バスが行き来する様子は殆どありませんでした。あまり長いこと居た訳ではないので、偶々かもしれませんが。この辺りはまだまだ整備中だったのでしょうか?今から3.4ヶ月前ですが、今はどうなっているのか?とか色々になるところですが、以上塩崎駅でした。▼最後に2008年当時の塩崎駅の駅舎です。このようなきちっとした感じの駅舎はもうなく、貴重なものが撮れたなと今にしてみれば思えます。ちょっとコンビニっぽい感じの建屋だったのですね。

  • 30Oct
    • 愛知/尾張旭 アサヒの駅前風景

      愛知県尾張旭市、名鉄/尾張旭駅周辺の様子です。(2011年5月当時)▼尾張旭駅前の市案内図です。市役所が本当に駅の真ん前にある事が分かります。それに併せて他の公共施設も駅のすぐ前にあり、アクセス至便の極致ともいうべきところです。結果的に駅の本近くしか見れなかったので、観光地らしい所へは全く行けませんでした。次行くとしたら、そういうところへ行きたいと思っていますが、この尾張旭の観光地としては●愛知県森林公園という森林公園や●スカイワードあさひという高さ70mからの展望台などがあるといいます。▼尾張旭市営バスの路線図がありました。東ルートと西ルートに大きく分かれていて、いずれも「左回り」「右回り」があり、それぞれ反対周りに運行されています。そして、それぞれが平日9便、土休日5便あります。つまり平日だと、東ルートの左回りで9便、右回りでも9便あり、西ルートでも同様の本数あります。時刻的には8時台から17時台までの間で、1時間強ずつの間隔で出ています。早朝便や夜の遅い便などはありません。▼「市役所」という名のバス停ですが、実質尾張旭駅のバス停です。それくらい駅前に市役所があります。2011年のこの時は1時間半に1本の間隔で6本あるようになっていて、それから増便したのでしょうか?少なくとも当時は休日は運休されていたそうですが、現在はこの上の写真の文章として書いた通り各コースに1日5便運行されています。バスは「あさぴー号」という名前で、このキャラ「あさぴー」の名前は、尾張「旭」からきている事は想像に難くないのですが「尾張旭市がハッピー」という言葉が語源だそうです。市制35周年を迎えた2004年生まれとされています。顔は朝日からきている「太陽」を連想させる「ヒマワリ」ですね。▼マンホールも、あさひ→太陽→ひまわり、とそんな感じでした。市の花がひまわりです。これは「あさひ」からきたのでしょうか?▼尾張旭駅前にある尾張旭市役所です。これは南庁舎でしょうか、だとすれば1997年にできたものです。いかにも耐震構造という感じの筋交いをかましていました。▼これは市役所と隣合っていた「尾張旭市民会館」の建物です。が、これは今はもう解体されてしまっています。こんな素晴らしい建物が取壊しなんて勿体ない…限りですが、駅前のさらなる活性化を図るため、という事でした。この建物は1973(昭和48)年に竣工したものですが、昭和40年代でこのデザインって結構時代の先を行ってたんじゃないか?と思いました。そんな古い建物だったとは!と驚きましたが…竣工から40年を超えた2014年末に一般への貸館業務が終了し、実質市民会館として使用されなくなり、更に1年後の2015年末には事務室としての業務も終了し、完全に閉館となりました。そして2018年からは解体工事に取り掛かったといいます。この時は2011年であったので、まだ普通に稼働していた状態と思われます。▼尾張旭市商工会館です。縦並びに一文字離れで「商」「工」「会」「館」となされているのがインパクトありました。▼市街地をあんまり撮れていなかったのですが、その数少ないカットを。右手前は「尾張旭薬局」って名前がズバリそのものなところがすごいですね。▼更に市街地の様子を。五右衛門というスパゲティー屋がありますが、駅の構内にもあれば、このように郊外にもありで手広いものですね。しかしこの五右衛門も店舗は閉店になったようです(食べログより)市民会館もなくなり、五右衛門もなくなりと…この8年の間に、それまで不通にあって稼働していたものが亡くなっていくので、栄枯盛衰というか、移り変わりは思った以上に激しい事を感じさせられました。いつまでも同じはないんだという事を。そんな感じで尾張旭市でした。ここももう少し詳しく深く訪ねたい地です。

  • 27Oct
    • 山形/米沢 2006年のちんどん屋!

      山形県米沢市、JR米沢駅周辺の様子です。(2006年8月当時)▼米沢へ行ったのが2006年で、あとは2010年に少し寄っただけの感じで、長らく行っておらず、しかも大して写真も撮っていないのですが、2006年当時のものを捻り出してお送りしたいと思います。まずは「ようこそ米沢へ」という駅前の歓迎看板です。上杉家の城下町という分かり易いウリがあるのがここ米沢です。在来線だけではなく新幹線も停車する駅で、新幹線が開業してから変わった部分もあるのかな?と思いつつ見ていました。▼米沢名物のABCとして、駅前の床面にありました。A …AppleB …BeefC …Carpといった具合です。AのAppleですが、米沢は山形県で最も古いりんご産地だそうで、明治9(1876)年に「館山りんご」として、桜桃苗木と共に移植されたのがその始まりとされ、現在は50Haで作付されているといいます。50Ha(ヘクタール)とは、1Haが10,000㎡につき、500,000㎡になり、正方形にすると約700m四方ということなります。BのBeefは説明不要の「米沢牛」ですね。三大和牛のひとつとされていますが、それぞれの地がそのように名乗っているようで、米沢以外には近江、松阪、神戸、前沢などが名乗っているといいます。米沢牛は1871(明治2)年に横浜の貿易商を米沢に招いて、その貿易商が一緒に連れてきたコックに牛肉を調理させたのが始まりとされ、それまでの米沢では「四つ足の動物は食べない」とされていたのが、急速に広まったといいます。りんごも牛肉も明治初期に期限があり、始まったという事で、文化の転換点はやはりこのくらいの時期になるのかな、と感じました。最後のCのCarpですが、広島東洋カープでお馴染み、御存知コイ(鯉)です。米沢はなんと「鯉料理」があり、この起源は1802年と江戸時代にさかのぼります。元々は領民の医療食として取り寄せられ、米沢城内のお堀で育てられたのが始まりといわれています。鯉の甘煮は米沢の祝いの席では欠かせないもの、という事ですが、鯉の味とはどんなものなのか気になります。あまり食材には適していない(胆のうには毒があるとの事)と以前から聞いていたので…。日本でも鯉を食べる事の出来る地は限られていて、ここ米沢以外では長野県佐久市ぐらいしかないようです。▼駅前の一角で、狭苦しい感じのカットになってしまいましたが、標識が「上杉神社」「上杉家廟所」など上杉づくしで、さすが上杉の城下町と感じさせるカットかなと思いました。▼駅前にあった「青年の像」です。妙なリアリティがちょっと…な感じでした(笑)バックには米沢ラーメン・そばのお店があり、米沢牛肉ラーメンなるメニューが記載されていましたが、2F部分はシャトルという喫茶店でした。今現在このお店が存続しているのかどうかがなかなか確認できません。食べログも古いものしか残っておらず、最近のものが確認できず、Twitterで「米沢 シャトル」で検索してもシャトルバスの事しか出てこず、このお店に関する情報が全く見受けられず、もうないかもしれません(分かりませんが…)▼最後はこのカットです。昔友達とけんかする時に言っていた「アホボケカス、〇〇〇〇〇」のひとつで、蔑称と勘違いされる向きもありました。正直言えば自分もそれが何を意味するかも知らずに言っていましたが…改めて「ちんどん屋」さんです。2006年と少し前のこととはいえ、21世紀にちんどん屋を見る事ができるとは思いませんでした。音を鳴らして奇抜な衣装で複数人歩くだけなら、今でも他に色々見かける事はありますが、これはもう本当に「王道の」ちんどん屋だと思って見ていました。この米沢は駅前をちょっと歩いただけで、まず駅がオシャレで綺麗という印象が強く、次に「食のABC」か…の印象もあったのですが、やはり街を歩いていちばんの印象はこの「ちんどん屋」が観れた事でした。実物の(昭和の面影を多分に残した)ちんどん屋が観れたのは、個人的にはここぐらいじゃないかな、と思っているので、結構「米沢=ちんどん屋」が個人的なイメージです。山形は遠くて頻繁に行ける所ではありませんが、米沢へまた行けるなら、上杉城下町の部分をもっと満喫したい思いはあります。以上、米沢市のようすでした。

  • 24Oct
    • カナダ/コキットラム センターと雲湧き湧き

      カナダ/コキットラム市、バンクーバー市周辺エリアを「メトロバンクーバー」と呼びますが、その中で5番目(総自治体数は21ある中で)に人口の多い市で、人口は12万あまりを誇っています。そんな街をチラッとだけ訪ねました。(2019年8月当時)▼これはコキットラム市の中心駅的存在のバンクーバー・スカイトレインの「コキットラム・セントラル駅」の駅前のバスターミナルの様子です。右側の高架は、スカイトレインの線路であり、この向こうへずっと続いていきますが、この後2駅で終着となり、途切れている状態です。この街では雲の湧き具合が、写真を撮るにあたってのツボでした。バスはかなりな頻度で行き来していて、賑やかな状態でした。ビル群に向かって線路が伸びているように見えて、個人的には「未来都市」的なイメージを持ちました。▼駅前バスターミナルを往来する多数のバスの中のひとつですが、これは少し車体の長いものでした。単体の短い車体のもの、長い車体のもの、2つを蛇腹状につないだもの、と同様のデザインで色んな車体のものがあった、このバンクーバー近郊のバス群でした。自転車を車内に積みこむ事は不可のようですが、車体の後ろなんかに自転車をくくりつけて乗っている人を結構普通に見かけました。▼コキットラム・セントラル駅を出るスカイトレインが高架を走っている様子です。車輌ごとにデザインが違うものを連結させているのが分かります。また車体が青空に映える色であり、雲もいい感じに湧き立っていました。カナダでなくても見られる風景かもしれませんが…。▼ここは、コキットラム・セントラル駅前のバスターミナルとコキットラムセンターのエリアとの間にある道路であり交差点です。この道路幅の広さと、バックののどかな風景に「海外」を感じさせられました。日本らしからぬ風景といいますか。▼カナダでよく見かけた「A&Wレストラン」の店舗です。一度は入ってオーダーしたかったなと思いましたが、出来る自信がなく、やらず仕舞いで終わりました。ちなみに日本にもあるといいますが、沖縄だけだそうです。▼コキットラムセンターのエリアの看板が見えてきました。高架で走っているスカイトレインの真下からのカットです。看板の向こうにはビル群が見えていました。バンクーバーの都心からだいぶ離れてきていても、こんなビル群はあるんだな、と感じた次第です。▼これはコキットラムセンターの建物です。低層で、あまり大々的なショッピングセンターという感じではありませんでしたが、中にはロンドンドラッグというカナダのドラッグストアチェーンなど色々と入っていました。ロンドンドラッグは電化製品やDVDなども販売しているとの情報も見かけました。下側の写真は付近の駐車場の様子ですが、ビル群に山々に、幻想的な雲が色々写っていて、なんとも情報量の多いカットになったのでは?と思いました。コキットラムへ来たのは、これを見たい!という明確なものがあった訳ではなく、バンクーバー市外の色んな市を訪ねたかったのが第一目的であったので、とりあえずその中心部のショッピングセンターを見てこよう、と寄った訳です。その延長上で画になる風景が観れればと思っていましたが、雲がいい感じに湧いていたので、どこで撮っても画になる感じがしました。

  • 23Oct
  • 22Oct
    • 福井/越前 武生の街めぐり in 2006

      福井県越前市、JR武生駅からの歩き旅です。(2006年6月当時)▼武生駅前にある越前市役所です。かなり駅近くにあります。そしてあまりにも渋すぎる色であり、雰囲気でした。1955(昭和30)年頃の建築といいますが、これが今から13年も前の姿で、まだあるのかな?と思って調べてみたら、まだありました。ただし、この10月には新築庁舎が着工予定とあり、出来ていた新しい庁舎の姿を今は見る事ができます。そして、2006年当時この庁舎にかかっていた幕には「北陸新幹線 南越駅 早期着工を」と出ていました。この南越駅は2023年春ごろに開業が予定されているといいます。▼武生駅から西へ約100mの地点、越前市役所を越えた辺りの駅前通りです。2006年の様子につき、やはりひと時代前を感じさせますが、福井銀行は今もまだこの位置にあります。時代を感じるのは、その向かいにある「武富士」です。武富士は2010年に経営破たんし、2017年に事業清算しており、今では存在していません。なのでこの武富士があるだけで、もう過去のものと分かってしまうのです。かつてはこの手の消費者金融のビルは一ヶ所に集中していたものですが、最近はあまり見かけなくなりました。▼武生駅から西へ400m程の所にある「総社大神宮」です。この辺りは、京町という地名ですが、神社仏閣系が集中しているエリアで、その中のひとつの神社です。その1つの神社といっても、越前国の總社で国中の官社を總祀し、国司参向の神社である、という由緒正しきところだそうです。現在の社殿は1926(大正15)年6月に竣工したものといいます。年中行事的には、今の時期は七五三をやっているといいます。そんな七五三が行なわれるくらいには、規模のある神社であります。▼これは総社大神宮の南隣あたりに位置している「正覚寺」という浄土宗のお寺です。1366年に新善光寺城の跡地として開かれたのがその始まりといい、その新善光寺城は南北朝の動乱により落城してしまい、その後にこのお寺ができたという具合です。山門は越前府中城の城門が移築されたもので、越前市指定文化財に登録されているといいます。▼歩道のみが屋根つきの商店街がありました。▼ナント越前市に観覧車があるの??と大変驚きました!!いわゆる地方の小都市の一角に、こんな大きな観覧車があるとは!とビックリしました。高さ36mもあるこの観覧車、ウルトラマンの身長が40mなのでこれに近いくらいですが(笑)、この観覧車はナント!1年のうち1ヶ月しか稼働しないという期間限定の観覧車なのです。ここ武生の名物行事である「たけふ菊人形」が、毎年10月上旬から11月上旬までの約1ヶ月開催されるのですが、その時だけしか動いていない、といいます。この時は6月だったので動いていなかった訳ですね。遠くから見ていただけなので、動いていないと思うはずもなかったので、ただ単に「観覧車がある!」という事に驚きながら眺めていただけでした。▼最後はこの写真ですが、いずれもローマ字振ってなかったらなかなか読めない地名でした。叔羅は「しゅくら」ぐらいには読めそうですが、これがつづまって「しくら」になってるっぽいですね。右下は石2つで「らく」 (IMEパッドでも漢字が出てきませんでした)と読みます。 「ごうほうらいらく」の「らく」かなと思いましたが、この「らく」は「落」であって、石3つのあの字は「磊落」と「らい」と読む方なのですね。ちなみにこの「石石」と「叔羅」は地名ではなく、それぞれギャラリーで、石石(らく)は「かこさとし絵本館」、叔羅は「越前市役所資料館ふるさとギャラリー」という事です。アートに趣味のある方は、こういう所を巡っても良いかもしれません。個人的には、ちょうど今この時期に開催されている「たけふ菊人形」 (今年2019年の開催期間は10月4日(金)~11月4日(月・祝) )を見て、観覧車に乗る、これが越前市のベストな楽しみ方、と感じました。京町・本町あたりの寺社巡りも良いと思います。越前市武生地区、色んな楽しみ方の出来る街です。この2006年以来13年行っていませんが、菊人形は一度ちゃんと見たいなと思います(今逃すと、また1年見れませんが…)

  • 17Oct
    • 北海道/岩見沢 駅前の白樺林を

      北海道岩見沢市、JR岩見沢駅周辺の様子です。(2013年4月当時)▼岩見沢の駅にあった広告看板が実にカラフルでしたが「北海道グリーンランド」というのがこの岩見沢にあるんですね。三井グリーンランドとして1986年にオープンし、2007年に現名称に改名されています。色々なアトラクションがあるようですが、観覧車の高さは一時期世界最大(85m)であったそうです。アクセスとしては岩見沢駅前の岩見沢バスターミナルからバスで15分ほどで着きますが、雪深い北海道らしく開園期間が限定され、4月下旬から10月下旬までだそうです。ちなみに今年は10月20日(日)が最終営業日という事です。左下には「雉」の字が。あの鳥の「キジ」です。岩見沢はキジが名物と謳われ・キジ料理店もあるそうです。キジが食べられるとは、初めて知りました。▼駅前広場の歩行者スペースの床地が広く取られていて、そこに白樺っぽい木々が点在していました。いかにも北海道っぽい景色だなと思いつつ見ていました。▼岩見沢駅前の通りです。北海道の都市の駅前によくあるような、線路と平行に幅の広い道路が通っていて、サイドに淡々と建物が並んでいる感じの街並みでした。土地が広いせいか、使い方??が贅沢というか、広々した感じです。▼2条通という標識が見えていますが、岩見沢駅出口(南側)から最も近い線路と平行な通りが1条通で、駅から離れるにしたがって2条通、3条通…となっていきます。なのでこの横の通りが駅から南へ2つ目の線路と平行な筋な訳です。ちなみにここで右向こうに野村仏壇店という大きめのビルが見えますが、この辺りは「2条西5」となっていて、左(東側)は「4」、西側は「6」となっていて、東側から「西1」から横方向へ番号が取られていて、これまた北海道らしい地名であり、地割りだなと感じます。▼小都市の駅前らしい風景というか、駅から伸びている方の通りになりますが、歩道の部分のみ屋根の付いた商店街で、「駅前通り商店街」と記されているのが見えました。下側の写真にある「天狗まんじゅう」は岩見沢の名物だそうで、昭和20年代に創業した老舗で今でも人気を誇っている食べ物だそうです。▼コンクリート色そのものの建屋や、低い建物が淡々と続く中にあって、空知信用金庫のビルは四角い大きな、そしてきれい目の見た目で、ひときわ目立っていました。▼最後はこの、駅から150m程離れた地点の案内図と、駅前の案内図とです。上側の写真のは殆ど主要の公共施設への距離と方向を示したもので下側のは観光面に比重が置かれたものとなっていました。ちなみに岩見沢駅前にバスターミナルがありますが、駅のない「三笠市」へはここからアクセスする事となり、バスで25分程度かかります。  関連記事: 北海道/三笠 北海盆唄の街結局、観光面で目を惹くコレ!というものが見られず、次にもし行く機会があるとすれば、そういうものを見ておさめたいなと是非に思っています。

  • 12Oct
    • 埼玉/行田② 忍城は「おしじょう」と読む

      埼玉県行田市、埼玉/行田① 忍城までの道 につづく行田市の旅記事です。(2012年9月当時)▼さて、前回記事が忍(おし)城跡の敷地入口の所で終わったのですが、これを入っていきます。とかく「しのぶじょう」と読まれがちで、自分もそう読んでいましたが映画「のぼうの城」の舞台として有名なお城で、埼玉県屈指の名城といえます。日本百名城の選には漏れたものの、2017年に「続日本の百名城」に選出されています。ちなみに「のぼう」とは「でくのぼう」が語源とされ、秀吉の水攻めで落城しなかった当時の城主・成田長親(1546-1613)が「のぼう様」と呼ばれていたとされます。この看板がお出迎えでしたが「ぎょうだ歴史ロマンの道」という案内図と、忍城址の城下町周りの絵図とがありました。行田の歴史・文化の旅コースとして、歩いて行田の歴史文化を知るコースが設定されていました。▼神社でいうところの参道のような通りですが、忍城址の構内を歩いて行きます。幟が並んでいて、観光名所の雰囲気を漂わせていました。▼歩いて行くと、雰囲気出てきました。忍城の象徴的な建物である三階櫓が覗いて見えました。ちなみに幟にある家紋は、水攻め当時の城主・成田長親の「丸に三つ引き両」紋です。▼この記事のメイン写真になりますが、忍城の御三階櫓(ごさんかいやぐら)です。忍城といえばこの御三階櫓が真っ先に浮かび、これほど立派な城郭建築は埼玉県では希少と思いますが、この建物は1988(昭和63)年に再建されたもので、今は行田市郷土博物館の展示室として使われています。この櫓は堀に囲まれる形で建っていました。天守閣かなと思いましたが櫓でした。▼忍城入口付近のお堀の様子と、東門の周辺です。門への道としてお堀の上に架かる橋は「あずま橋」といいます。東門へと架かる「東」だから「あずま」なのか??この東門は立派で年季が入っているように見えますが、後世に造られたもののようです。▼お堀をいろんな角度から。行田商工祭として「忍城 時代まつり」が毎年開催されており、今年は記念すべき第40回という事ですが、11月10日(日)に開催されるという事です。→コチラこのお祭りで、忍城のお堀では火縄銃の演武が行なわれるといいます。このお堀は、水際の境目がクッキリしていて、とても整然とした美しさを感じました。▼城址敷地内に鐘堂がありました。腰の部分が曲線状に末広がりで、格子状で単に建物として見ても、見応えがありました。1992(平成4)年に再造されていますが、それまでの鐘は郷土博物館で保存されているそうです。▼忍城の由来についての説明板がありました。「守り易く攻めにくい」城との記載がありますが、水攻めにも耐え抜いて、水に浮いているのか?と恐れられた「浮き城」についての記載も見られます。これは平成3(1991)年に設置されていますが、明治維新後1873年に土塁の一部を除いて取り壊しとなっていたものを「城郭の面影を再建し、後世に伝える事になった」とありました。主要な建物が1990年前後に再建されていったので、それ以前というと、あまりこのような分かり易い建物で目立っていた場所ではなかったのではないかと思われます。そもそもなんで「忍城」というんだろうか?というところから疑問で、忍者でも栄えてたのかな?とか思いましたが、城は権力の象徴的なもので、表舞台の象徴ともいえるものであり、そこに裏道の代表格である忍者由来で城名は付けないだろう、と思います。今の行田市はちょうど70年前の1949(昭和24)年に市制化されたのですが、この地が市制施行されたこの時に一瞬だけ「忍市」が誕生し、その後すぐさま行田市になっています。これ以前の1889(明治22)年から60年間は「忍町(おしまち)」という自治体として存在していました。今でも自治体の中の町名として「忍町」は複数見られますが、いずれも「しのぶまち」と読むものであり、「おしまち」と呼ぶところは他にはないと思います。由来はよく分かりませんが、忍城の歴史スタートの1478年頃からこの地が「おし」であったようです。▼そして忍城跡の楽しみで、城郭建築以外では、この鯉です。黒っぽい個体が主でしたが、たまに色違いのものも居たりしました。▼行田市郷土博物館です。忍城の本丸跡にあり、御三階櫓と共に城下町として栄えた行田の歴史文化に触れられる施設です。以下、博物館詳細ですが、アクセスについては忍城跡もほぼ同じと見て頂いてよいです。住所が「本丸」って、ダイレクトに城下町ですね。【行田市郷土博物館】住所:埼玉県行田市本丸17-23電話番号:048-554-5911 会館時間:9:00~16:30料金:大人200円、大学・高校生100円、中学・小学生50円    (団体の場合は、各々2割引) 定休日:毎週月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日、毎月第4金曜日 等HP:https://www.city.gyoda.lg.jp/kyoiku/iinkai/sisetu/hakubutukan.htmlアクセス:秩父鉄道/行田市駅より徒歩約10分     JR行田駅より 市内循環バス 西循環コース(左回り)約10分「行田市バスターミナル」下車徒歩5分▼行田市マンホールです。カラー版を見つけられましたが、かなりカラフルです。忍城の御三階櫓がバッチリ描かれていて、城下町として前面に押し出されています。▼忍城跡の敷地を出て街歩きに転じました。「のぼうの城」の舞台として売り出された行田市の幟が並んでいました。▼ここには「忍警察署跡」の石碑が立っていました。字面的になんかすごいですね、忍者警察みたいで(笑)▼最後は行田市駅へ戻る道中で見かけた昭和っぽい町並をピックアップしたものです。木造建築物のタバコ屋さん、バニーガールの店(!)、地域の食料品店…どれもいい感じに昭和テイストでした。行田市では、JR行田駅と秩父鉄道/行田市駅の両方行きましたが、個人的には後者の方が楽しめました。もちろん忍城跡に断然近いのもありますがその他の街並みも楽しめて。以上、行田市の旅でした。

  • 10Oct
    • 埼玉/行田① 忍城までの道

      埼玉県行田市、秩父鉄道/行田市駅からの歩き旅です。(2012年9月当時)▼行田市駅からは記事タイトルの通り「忍城(おしじょう)」へ行ったのですが、そこまでは多少距離があるので、まずは道のりで目についた風景から載せていきます。そのいちばん最初はこんな建物のお店です。凄い特徴的な建物ですね。高いけど狭そうで(笑)上も下も真ん丸か、真ん丸が含まれる形で、ホントにレコードの「ドーナツ盤」を思わせます。▼診療所跡という石碑が立っていました。河津省庵(=かわづ・せいあん 1800-52)という名が刻まれていますが、ここ行田にあった忍(おし)藩で医者として開業し、侍医にもなった人物ですが、その診療所跡としてこれが残っています。忍藩は江戸時代を通して存在し、松平家が治めた期間が長く、親藩または譜代大名が殆どを統治していた藩で、忍城を藩庁としていました。最後の藩主は大正時代まで生き永らえています。▼ 「浮き城の町 行田」と銘打たれた街灯がありました。城下町を思わせる形に、いくつもの灯があってこれがまた大変特徴的でした。▼これも浮き城の町にちなんでのものですが、そのモニュメントです。石田三成の水攻めにも耐えて落城しなかった「水の浮き城」それが忍城ですが、力強さや豊かさを形にしたもの、だという事でした。▼これはからくり時計かなと思ったんですが、からくり時計なら駅前広場に別のものが存在しますし、これは一体なんだろう??と確かめきれないままでした。▼武蔵野銀行行田支店です。一見普通に立っている銀行の建物ですが「国登録有形文化財」との事でした。1934(昭和9)年竣工の鉄筋コンクリート造りで、埼玉県内では戦前での鉄筋コンクリートの建物は珍しいそうです。また行田の気候として北西の風が吹くという事で、西側に出入口がない構造となっているという事です。てっぺん部分の装飾とか、上部のレリーフとか縦長の格子窓とか、色々と時代を感じる部分がごく何気なく随所に見られます。今の武蔵野銀行になったのは50年前の1969(昭和44)年の事で、それ以前はここの地元名産である足袋の販売会社から足袋会館として使用されていたという経歴をもっています。この建屋のシャッター周りの形が冒頭の写真のレコード店のシャッター周りも似たような大変特徴的な形をしていましたが、この辺のハヤリ?ではないのかな?と思わされたほどでした。▼またまた出くわした石碑は「高札場跡」でした。ここに幕府等からの連絡事項が貼り出されていたという事ですね。▼屋根がめちゃくちゃうねっていた家屋がありました!かなり危険なレベルですね…柵もコーンも何もなくて、いくらでも近寄れるのがまた怖いです。これから7年経った今ももと撤去されていなかったらかなり怖いです。▼ 「足袋蔵歴史のまち」として、蔵の点在している案内図がありました。時間があれば、そんな蔵めぐりもしたかったところですが、まずは忍城跡を目指していました。行田は木綿の産地であり、中山道が近くに通っていた事で、足袋の生産が盛んになっていったといいます。明治時代に入ると更に活発化し、昭和初期では全国シェアの8割を行田の足袋が占めていたといいます。▼行田は「埼玉」という県名発祥の地という事を、駅記事で書いたように思いますが、この歩道橋にもその事が書かれていました。その歩道橋の下では看板が出ていましたが、「e(イー)まち行田 未来フェスタ」としてラグビーの大八木淳史氏や元SPEEDの今井絵理子氏などが来る!とありました。もう7年も前の事ですけど。ちなみにこの当時の今井さんは現在のような議員の先生ではなかったので、SPEEDという冠になっていました。▼この時の行田の観光のメインとなる忍城跡に遂に来ました。この続きは次の記事にて!