思い出のプロ野球選手(248) 平野謙(中日-西武-ロッテ)
思い出のプロ野球選手、今回は「平野 謙」選手です。入団時は投手で一度クビになりかけながら、1980年代初頭からから90年代中盤まで、中日や西武を中心に外野の要として活躍し、それぞれのチームの優勝に主力として貢献し、通算犠打数は歴代2位の451個を誇り、通算盗塁も230個を記録、投手からの転向にも関わらず外野守備でも魅せ、Gグラブ賞を9回も獲得し、攻撃的な守備・走塁で41歳まで現役で活躍した選手です。【平野 謙(ひらの・けん)】 生年月日:1955(昭和30)年6月20日入団:中日('77・ドラフト外) 経歴:犬山高-名古屋商科大-中日('78~'87)-西武('88~'93)-ロッテ('94~'96)通算成績:1,683試合 打率.273 1,551安打 53本塁打 479打点 230盗塁位置:投手→外野手 投打:右両 現役生活:19年規定打席到達:10回('82~'86、'88~'92)タイトル:盗塁王 1回('86)表彰:ベストナイン 1回('88)、Gグラブ賞 9回('82、'85、'86、'88~'93)節目の記録:試合-1,000試合出場('89.6.25)、1,500試合出場('93.9.12) 安打-1,000安打('89.9.24)、1,500安打('94.7.7) 犠打-200犠打('88.8.31)、300犠打('91.4.29)、400犠打('93.6.17)、450犠打('96.5.23)その他の記録:1試合4犠打('91.6.19)、日本シリーズ通算犠打19(史上1位)オールスター出場:2回('86、'88) 個人的印象中日、西武でそつなく活躍した外野手、です。足が速く守備もうまく、バントも一流で…、80年代型野球に必要なセンスの塊のような選手、というイメージをもっていました。中日を出された時の事も覚えていますが、西武で見事にハマって常勝軍団の主力としても大活躍していました。西武を出た後のロッテでは39歳になる年での移籍でしたが、出番は減ったものの渋い働きを見せていました。最後は新幹線の席の机を叩いて指を痛め治らずに引退した、というのは少々面白エピソードですが、41歳まで現役を張ったのは見事でした。プロ入りまで高校は愛知県の犬山高校というところで、強豪校ではなかった学校で県予選を準決勝まで勝ち進み、山倉和博選手のいた東邦高校に敗れましたが投手として活躍しました。名古屋商科大学へは特待生として進学したといい、愛知大学野球リーグで活躍し優勝に貢献しました。1977(昭和52)年のドラフトにはかかりませんでしたが、中日が指名した選手の多くが入団を拒否する状況で、既に社会人の内定が決まっていた平野選手ををドラフト外で入団させました。投手として入団入団時は投手で、背番号は「81」とコーチがつけるような番号を当てられました。ルーキーイヤーの1978(昭和53)年は二軍で2勝をあげますが、2年目1979(昭和54)年の春先に打者転向を首脳陣から勧められ、打者へ転向し二軍戦で実績を積みます。この年背番号が「57」へと現役選手のものになります。3年目1980(昭和55)年にスイッチヒッターへ転向し、一軍入りを目指しますが、二軍での出場機会は増えたものの結局一軍には上がれず、3年間一軍ゼロの状態が続きました。そてそのオフ、整理対象の選手となったといいますが、翌年より指揮を執る近藤貞雄氏の一声により撤回され、現役続行となりました。テキストを入力1981(昭和56)年 110試合 110打数26安打 打率.236 0本塁打4打点オープン戦で守備の活躍が光り、プロ入り4年目にして初の一軍を開幕時に迎えました。当初は新外国人選手の控え的存在でしたが、彼らの実績が思わしくなく、110試合に出場できましたが、打席は121と少なく、100試合以上に出て120打席ほどというのもなかなか珍しいと思います。中日の優勝に貢献1982(昭和57)年 125試合 448打数129安打 打率.288 4本塁打33打点開幕からスタメンに入り、定位置争いにも勝ち、二番打者としてシーズンを通して活躍を続け、初めての規定打席到達を果たし、129安打を記録し打率.288をマークし、プロ入り初本塁打も記録しました。また51犠打はリーグ最多にして、当時のシーズン記録にもなりました。中日はこの年、8年ぶりのリーグ優勝を果たし、その主力メンバーとして貢献しましたが、中日での優勝経験はこの1回限りとなり、また西武との日本シリーズでも全試合先発出場をしますが目立った活躍は出来ず、日本一はなりませんでした。初めてレギュラーを獲った年にGグラブ賞も獲得しました。背番号「3」へ1983(昭和58)年 127試合 434打数107安打 打率.247 7本塁打30打点背番号が57から「3」へ変更となり、名実ともに主力選手となりました。ホームランは増えましたが、安打が減り打率も下がり、犠打も半減してやや低調でした。1984(昭和59)年 108試合 381打数111安打 打率.291 3本塁打31打点故障の為108試合の出場にとどまりましたが、規定打席到達は何とか果たして打率.291をマークしました。トップバッターへ1985(昭和60)年 130試合 527打数158安打 打率.300 6本塁打49打点それまで1番を打っていた田尾安志選手が西武への電撃トレードが決まって移籍し、2番打者からトップバッターになりました。その影響もあり犠打は少し減りました。しかし初の130試合フル出場を果たして核弾頭として活躍し初の打率.300をマーク、158安打と49打点はキャリアハイでした。3年ぶりのGグラブ賞も受賞しました。1986(昭和61)年 130試合 541打数146安打 打率.270 11本塁打44打点31歳にしてオールスター初出場を果たし、2年連続130試合フル出場も果たしました。また2年連続でGグラブ賞を獲得しました。一方で一軍に上がってから犠打が最少の6個で攻撃側に転じた感がありましたが、48個で盗塁王を獲得しました。ホームランも現役生活で唯一2ケタとなる11本を記録している点も、犠打の減少と関わっていたのかなと感じます。星野監督時代1987(昭和62)年 90試合 317打数85安打 打率.268 4本塁打26打点星野仙一氏が新監督に就任しピリッとした雰囲気のシーズンとなりましたが、開幕は故障で出遅れた上に、戦列復帰後も淡白なプレーと見られたのかベンチへ下げられる事もあり、82年のレギュラー定着後初めて規定打席を割り、90試合の出場で85安打で、100安打以上も5年連続で途切れました。オフにはチームでは盛んに選手の入替が断行されますが、この対象に入りトレードで西武へ移籍する事となりました。西武で活躍1988(昭和63)年 130試合 508打数154安打 打率.303 7本塁打46打点西武へトレードとなり与えられた背番号は「24」でした。33歳になるシーズンでしたが外野の一角へ入り、見事130試合フル出場を果たし、打率はキャリアハイの.303で唯一となるベストナインも受賞し、Gグラブ賞とのダブル受賞となりました。森祇晶監督が平野選手の獲得を切望したといわれ、シーズン前からフル出場してもらう旨の事を言われたそうです。当時の西武主力は若い選手が多く、チームリーダーの石毛宏典選手も1つ年下であり、移籍早々主力では野手最年長となっていました。残る年上の選手(岡村隆則・行沢久隆)もこの年限りで引退し、翌年には完全に野手最年長となりました。また2番打者としても定着し、犠打のリーグトップも4年ぶりに記録し、ここから実に5年連続で犠打リーグトップを維持します。また通算200犠打もマークしました。移籍して常勝西武に不可欠な存在として見事に蘇り、日本シリーズでは古巣中日と対戦し、全5戦のうち3試合でヒットを記録し、初めて日本一を経験し、これに主力として貢献しました。1989(平成元)年 98試合 365打数98安打 打率.268 2本塁打32打点平成に入り、前年の西武初年でかなり疲労があったようで、98試合出場にとどまりましたが、通算1,000試合出場と1,000安打を達成しました。100試合を切っても犠打はリーグトップで、2年連続のGグラブ賞受賞となりました。1990(平成2)年 123試合 445打数119安打 打率.267 2本塁打42打点35歳になるシーズンでしたが23盗塁をマークし、3年連続Gグラブ賞を受賞し、日本シリーズでは巨人に4連勝とストレート勝ちで日本一を達成し、その4戦すべてで安打を記録し、強い西武に欠かせない存在として活躍を続けました。犠打は実に50個を記録し、吉田義男氏がもっていた通算265個の日本記録も更新しました。1991(平成3)年 125試合 459打数129安打 打率.281 3本塁打41打点129安打を記録し打率.281、前年に並ぶ50犠打を記録し、通算300犠打を達成、また西武の連続日本一に貢献しました。1992(平成4)年 122試合 436打数122安打 打率.280 4本塁打45打点ほぼ前年並みの記録で変わらずレギュラーとして活躍し、3年連続日本一に貢献しました。しかしこの年の4号が現役最後のホームランとなり、その後4年間は意外にもホームランなしでした。また日本一の経験もこの年が最後となりました。戦力外1993(平成5)年 100試合 309打数74安打 打率.239 0本塁打25打点通算1,500試合出場を果たし通算400犠打も達成しますが、38歳になるシーズンで年齢的な衰えか数字が伸びず、中日最後の87年以来6年ぶりに規定打席未達となり、Gグラブ賞は何とか受賞し6年連続9回目の栄誉に輝きますが、日本シリーズはヤクルトに敗れて日本一を逃し、戦力の大幅な刷新のもと、戦力外通告を受ける事となりました。このオフでは秋山幸二選手もトレードに出すほどの断行ぶりで、6年間活躍した西武を離れる事となりました。ロッテへ1994(平成6)年 81試合 229打数52安打 打率.227 0本塁打15打点38歳で西武を退団しましたが、ロッテの八木沢荘六監督から請われて移籍が決定しました。さすがにフルシーズンコンスタントに働くことはできませんでしたが、生きた教材として決して強くはなかったチームに刺激を与える役目を担いました。また通算1,500安打を達成しました。1995(平成7)年 61試合 120打数27安打 打率.225 0本塁打12打点40歳になるシーズン、コーチ兼任で臨み、さすがに出番はかなり減りますが、試合に出るとまだまだ現役でやれるという感じで他のベテラン選手が引退していく中でも、しぶとく現役を続けました。1996(平成8)年 23試合 47打数14安打 打率.298 0本塁打4打点通算450犠打を達成しますが、そこから積み上げたのはわずか1のみで、冒頭記した形で新幹線で指を挟んだことがきっかけでケガをしたこともあり、この年限り41歳で引退しました。投手で入団し野手転向しながらの通算1,551安打、451犠打などの素晴らしい記録を残しています。引退後はロッテに残りコーチから二軍監督、ヘッドコーチも歴任しました。その後北海道へ移転した日本ハムでコーチをしたり、古巣中日でも少しコーチを務めていました。現在は社会人野球の監督を務めているといい、またYou Tubeでも健在ぶりを見る機会も多くあります。↓1985(昭和60)年の選手名鑑より3年間レギュラークラスで活躍するも終盤ケガに泣いたなる記載がありました。田尾選手がトレードに出され1番打者として活躍する事となります。 ↓過去記事はコチラ↓『【思い出のプロ野球選手】過去記事さくいん』これまでの記事した選手につき、索引にて表示します※リンクは順次つけていきます【あ~お】会田 照夫 あいだ・てるお ヤ青木 実 あおき・みのる ヤ浅野 啓司…ameblo.jpにほんブログ村雨のち晴れがちょうどいい。 67歳、野球人生に忖度なし [ 平野 謙 ]楽天市場【中古】 バント完全マスター 究めれば大きな武器に!/平野謙(著者)楽天市場【中古】スポーツ/西武/1991プロ野球チップス No.93:平野謙楽天市場BBM TIME TRAVEL 30 平野 謙 中日ドラゴンズ (レギュラーカード/プロ野球) ベースボールカード タイムトラベル1985Amazon(アマゾン)2021bbm 中日ドラゴンズヒストリー 1936-2021 レギュラーカード No.30 平野謙Amazon(アマゾン)