思い出のプロ野球選手(259) 石毛宏典(西武-ダイエー)
思い出のプロ野球選手、今回は「石毛 宏典」選手です。今回から昭和31年生まれの選手の紹介が始まります。まずはそのトップバッター!1980年代初頭から90年代後半まで現役生活16年、1981年に25歳になる年で西武へ入団して新人王を獲得すると、強い西武のチームリーダーとして長年活躍し、西武王国構築の立役者となった選手です。【石毛 宏典(いしげ・ひろみち)】 生年月日:1956(昭和31)年9月22日入団:西武('80・ドラフト1位) 経歴:市立銚子高-駒大―プリンスホテル-西武('81~'94)-ダイエー('95~'96)通算成績:1,796試合 打率.283 1,833安打 236本塁打 847打点 243盗塁位置:内野手 投打:右右 現役生活:16年規定打席到達:14回('81~'94) ※14年連続受賞:新人王('81)、MVP 1回('86)、ベストナイン 8回('81~'83、'85~'87、'92、'93)、Gグラブ賞 10回('81~'83、'85~'88、'91~'93)オールスター出場:14回('81~'94) ※14年連続節目の記録:試合-1,000試合出場('88.9.23)、1,500試合出場('93.4.17) 安打-1,000安打('88.6.7)、1,500安打('92) 本塁打-100号('85.8.16)、150号('88.7.17)、200号('91.8.7)その他の記録:日本シリーズ 17試合連続安打 ('85~'88) ※シリーズ記録、 通算初回先頭打者本塁打 30本 ※歴代4位 シーズン初回先頭打者本塁打 8本('86) パ・リーグ記録 新人の開幕戦本塁打、新人の開幕戦から2試合連続本塁打('81) 23試合連続安打('86) 等個人的印象西武黄金時代のチームリーダー、です。現役選手に対してリーダーらしいイメージを持ったのは、個人的にはこの石毛選手が最初でした。若手時代から貫禄があり、チーム全体を纏めている雰囲気が感じられました。西武の背番号7といえば、のちにも大物選手が出てきますが、個人的には石毛選手です。プロ入りまで高校は千葉県の市立銚子高校で、銚子商業に敗れて甲子園出場を逃しました。ここでロッテからドラフト指名を受けますが拒否して駒澤大学へ進学しました。駒大では、東都大学リーグで何度も優勝を経験し、3年次には全日本大学野球選手権大会でも優勝を経験しています。4年次にはチームが沈みますが、個人としては首位打者を獲得するなど活躍し、卒業後はプリンスホテルへ入りました。当時のプリンスホテルは、アマ球界の精鋭を集め、プロへ入りるよりも待遇が良いとの噂もありましたが、中尾孝義、金森栄治といった後にプロで活躍する選手たちが所属することとなりました。当初はブロに入る気はないとされていましたが、1980(昭和55)年のドラフト会議で西武、阪急から1位指名をされ、西武が交渉権を得て指名成立すると、入団する事となりました。新人から定位置1981(昭和56)年 121試合 409打数127安打 打率.311 21本塁打55打点入団時に与えられた背番号は「7」で即戦力の期待の表れが出ています。1年目からレギュラーポジションを得て活躍し、開幕戦で当時史上9人目となる「新人での開幕戦本塁打」を記録し、次の2試合目でも本塁打を放ち、「新人で開幕から2試合連続本塁打」は史上2人目の記録となりました。オールスターにも新人ながら出場し、以後新人から14年連続で出場を果たしています。新人として多くの賞にも恵まれ、全試合数に近い127安打で、打率.311の21本塁打55打点、新人でベストナイン、Gグラブのダブル受賞を果たし、文句なしの新人王にも輝きました。新人で規定打席に到達しての3割到達は、長嶋茂雄氏以来の快挙となりました。広岡監督就任と常勝西武1982(昭和57)年 121試合 464打数120安打 打率.259 15本塁打54打点順風満帆すぎる1年目を過ごし、バラ色の2年目…と思いきや、この年かつてヤクルトを日本一に導いた広岡達朗氏が監督に就任します。そこで広岡監督に鼻をへし折られんばかりの言葉を浴びせられ、当初はこれに反発し素直に受け入れられなかったといい、その後他の選手が伸びていく姿を見て素直に教えを乞うようになってから、チームリーダーへと成長していくようになったといいます。2年目のジンクスではありませんが、規定打席に到達はしたものの打率は.311から.259へ降下しました。チームが西武になってから初めてリーグ優勝を果たし、日本シリーズに初めて出場しました。初出場の第1戦から第4戦まで4試合連続安打を記録し、第3戦では3安打猛打賞を記録しました。全試合に先発出場して攻守に活躍し、中日を破り日本一に輝きました。以後毎年のように西武は優勝を重ね、常勝軍団として球界の盟主の座に就き始めます。1983(昭和58)年 128試合 439打数133安打 打率.303 16本塁打64打点3年目は再び3割に到達し、2年ぶり2度目の3割で、初めて130安打以上を記録しました。また新人からベストナインとGグラブ賞のダブル受賞という快挙を成し遂げました。この年は巨人と日本シリーズで対決し、激戦を制し2年連続日本一に輝きました。このシリーズでは前半は7番を打っていて、後半の第4戦からトップバッターとして活躍しました。巨人がリリーフに西本聖、江川卓という必勝リレーで落として流れが変わったという第6戦で5回に一旦逆転となる三塁打を放っています。三塁打といえば、この年のシーズン7本はリーグ最多でした。1984(昭和59)年 124試合 452打数117安打 打率.259 26本塁打71打点隔年サイクルで3割と.259を繰り返すこととなり、この年も打率が急落して.259に終わりました。ただしホームランは26本と自己ベストを記録しました。この年はオールスターに出場した以外は受賞等何もなく、ベストナインもGグラブも逃し、この年受賞していれば長年の連続記録になっていたかもしれませんが、この年に何も受賞しなかったため途切れています。またチームも阪急の独走態勢を許して3位に沈み、82年からの優勝も途切れました。1985(昭和60)年 130試合 504打数141安打 打率.280 27本塁打76打点広岡監督最後の年となりましたが、2年ぶりにリーグ優勝を果たしますが、阪神との日本シリーズに敗れ、初めて日本シリーズでの敗退を経験しました。初めて130試合フル出場を果たし、本塁打27本は翌年と共にキャリアハイタイでした。30本を越えた事はありませんが、20本以上は5度記録しています。この年通算100号本塁打を記録しています。また入団以来20盗塁以上を4年連続で記録していましたが、この年は11個に終わり記録は途切れました。20盗塁以上は6度記録しており、機動面でも大きく貢献しています。最高は29個で、盗塁王争いをするようなことがなく、実は通算243盗塁も記録しているのはあまり知られていないのかもしれません。監督交代と最高のシーズン1986(昭和61)年 129試合 514打数169安打 打率.329 27本塁打89打点監督が森祇晶氏になり、日本一奪還が命題とされましたが、30歳になるこの年がベストシーズンといえます。1試合のみ欠場し129試合出場で、その後3年連続で130試合出ている事を考えると惜しい限りですが、キャリアハイの169安打を記録し打率.329、27本塁打89打点もすべてキャリアハイとなりました。広島との日本シリーズは引き分けを挟み第8戦までもつれる激闘となりましたが、全8戦すべての試合でヒットを記録し、前年の第5戦から88年の第1戦まで、実にシリーズ17試合連続安打の日本記録を打ち立てる事となります。広島を破り3年ぶりの日本一奪還を森監督就任1年目で達成しました。また、この年は落合博満選手が2年連続三冠王を獲得し、チームメイトとなった清原和博選手が高卒新人で31本塁打を記録しましたが、彼らを押しのけパ・リーグMVPを獲得しました。三塁手へ1987(昭和62)年 130試合 525打数141安打 打率.269 11本塁打41打点それまでショートを守っていましたが、諸事情により三塁手へとコンバートされ、ベストナイン&Gグラブ賞のダブル受賞をそれまで84年を除くすべてで遊撃手として果たしていましたが、この年からは三塁手で受賞し、この年もダブル受賞となりました。ただ守備面での対応からか打撃成績はピークだった前年からかなり落ちる事となりました。日本シリーズは巨人と対戦、この年も全試合安打を記録し、シリーズ連続試合安打記録を伸ばしますが、第2戦と第3戦で2試合連続本塁打を記録し、2年連続日本一に貢献しました。この年は巨人外野の緩慢プレーの隙をついてのバックホームなど、西武の緻密な野球ぶりが改めてクローズアップされた年でもありまた日本一を決める直前に清原選手の流した涙など、印象的なシリーズでもありました。1988(昭和63)年 130試合 508打数144安打 打率.283 21本塁打63打点年上の平野謙選手が中日から移籍し、レギュラー陣で最年長ではなくなりましたが生え抜きのリーダーとして活躍を続けました。この年は近鉄対ロッテの伝説の「10.19」を経て近鉄が最終戦で引き分けになった事でリーグ優勝が決まりました。日本シリーズでは第1戦で、前年までチームメイトだった小野和幸投手から本塁打し、シリーズ連続試合安打を17へと伸ばしますが、次の試合で無安打に終わり、記録が途切れました。しかし第3戦と第5戦にもホームランを打ち、第5戦は9回に起死回生となる同点ホームランを打って延長戦へ持ち込み、延長11回サヨナラ勝ちで西武は3年連続日本一を達成する事となりました。3本塁打でシリーズMVPとなり、オフにはパ・リーグの野手で初めて1億円プレーヤーになったといいます。ベストナインの選から漏れ、暫くは受賞機会がなくなりますが、Gグラブ賞は受賞しました。節目の記録として通算1,000試合出場と150本塁打を達成しました。平成期に突入1989(平成元)年 130試合 486打数131安打 打率.270 16本塁打63打点平成に入り33歳を迎え、ベテランの域に差し掛かり、打撃成績的にも落ち着きを見せ始めますが、不動のレギュラーであり、常勝軍団のチームリーダーには変わりありませんでした。612打席はリーグ最多で、また98四球というのもリーグ最多でした。しかしチームは三つ巴の優勝争いの末、近鉄が前年の雪辱を果たす形で優勝し、5年ぶりにリーグ優勝を逃すこととなりました。84年以来5年ぶりにベストナインもGグラブ賞もどちらも受賞ならずでした。1990(平成2)年 100試合 359打数107安打 打率.298 8本塁打47打点新人の年から120試合以上の試合に出続ける不動のレギュラーでしたが、故障などでわずか100試合出場にとどまり、規定打席ギリギリの413打席で何とか到達し打率.298としましたが、プロ入り初のひと桁8本塁打に終わりました。この時がプロ入り初の大きめの挫折だったと感じます。2年連続でベストナイン、Gグラブ賞どちらも獲れませんでした。巨人との日本シリーズでは4戦4勝のストレートで勝利し、2年ぶりの日本一を達成しました。1991(平成3)年 122試合 417打数112安打 打率.269 13本塁打61打点この年もリーグ優勝を決め、広島との日本シリーズを戦い勝利して2年連続日本一に輝きました。Gグラブ賞を3年ぶりに受賞しました。1992(平成4)年 125試合 438打数130安打 打率.297 8本塁打52打点打率.297として、3年ぶりに130安打以上を記録し、また通算1,500安打を達成しました。ヤクルトとの日本シリーズは激闘となりましたが、これを制して3年連続日本一輝きました。通算200号本塁打を達成しました。また、5年ぶりにベストナインに輝き、同じく5年ぶりにベストナイン、Gグラブ賞のダブル受賞となりました。常勝軍団の揺らぎと監督要請1993(平成5)年 122試合 434打数133安打 打率.306 15本塁打53打点2年連続130安打以上を記録し、MVに輝いた1986年以来7年ぶりに3割を記録しました。37歳にして2年連続ベストナインとGグラブ賞に輝き、通算1,500試合出場を達成しました。4年連続でリーグ優勝を果たしますが、再度ヤクルトとの日本シリーズには敗れ、日本一を逃しました。1994(平成6)年 111試合 380打数101安打 打率.266 11本塁打46打点38歳になりましたが入団以来14年連続で規定打席に到達し、数字は落ちましたが、依然レギュラーとしてシーズンを過ごしました。5年連続でリーグ優勝を果たしますが、巨人との日本シリーズでは敗れ、2年連続のV逸となり、森監督は辞任する事となりました。この事態に、レギュラーとしての力をまだ持っていながら、次期監督の就任を要請され、これを誇示しました。当時は「石毛監督誕生」とか報道された覚えもありますが、これを固辞し更にはFA宣言して、14年間常に最前線で主力として活躍し続けた西武ライオンズを出る事となり、後にもいろいろな選択と決断をする事となりますが、周りに翻弄されて野球人生が大きく変わった野球人の典型、と感じました。ダイエーへ1995(平成7)年 52試合 120打数24安打 打率.200 1本塁打11打点1994年まで通算1,806安打としており、あと194本に迫った通算2,000安打を目指しての現役続行、ダイエー移籍でもありました。しかし新天地ではケガで出遅れ、出番にも恵まれず、120打数24安打と、入団以来14年間常に第一線を走ってきた選手が一転して大きな挫折を味わい、14年連続で出場し続けたオールスターは初めて出場できず、100試合以上も100安打以上も、規定打席到達もすべて「入団以来14年連続」で途切れてしまいました。西武で現役選手として残る選択肢があれば、まだできたかもしれませんが、監督要請という周囲に翻弄される形で、いろんなことが途切れてしまった感があり、たいへん残念です。1996(平成8)年 18試合 23打数3安打 打率.130 0本塁打1打点40歳を迎える16年目のシーズンでしたが、もはや出番はなく、コーチ的な役目も果たしていたと聞きますが、ほとんど戦力になる事のないまま、寂しく40歳で現役生活を終えました。西武時代14年間で1,806安打を記録しましたが、ダイエー移籍後はわずか27本を積み上げただけの通算1,833安打に終わりました。引退後はダイエーコーチ、オリックス監督などを務めましたが、現役時代は「根っからのチームリーダー」といわれた選手でしたが、プロ球団の指導者としては不運もあり実績を残せませんでした。その後プロの世界から離れ、独立リーグの四国アイランドリーグの立ち上げに奔走するなど、独立リーグの裾野を広げるため活躍しました。↓1985(昭和60)年の選手名鑑より29歳を迎える5年目でした。前年は3位に沈み、日本一を逃したシーズンで、自身もそれまで入団以来3年連続でベストナイン&Gグラブ賞のダブル受賞をしてきたのを逃した屈辱的な時期でもありました。お酒が飲めないとは意外でした。