思い出のプロ野球選手(159) 新井宏昌(南海-近鉄)
思い出のプロ野球選手、今回は「新井 宏昌」選手です今回より1952(昭和27)年生まれの選手を取り上げていきます。1970年代中盤からから90年代前半にわたって、在阪パ・リーグの南海、近鉄に在籍し、シュアなバッティングに小技も利かせ、勤勉を絵に書いたような選手で、40歳を過ぎて2,000本安打を達成し、また100本塁打未満(通算88本)で2,000安打を達成した数少ない選手です。【新井 宏昌(あらい・ひろまさ)】生年月日:1952(昭和27)年4月26日入団:南海('74・ドラフト2位) 経歴:PL学園高-法大-南海('75~'85)-近鉄('86~'92)通算成績:2,076試合 打率.291 2,038安打 88本塁打 680打点 165盗塁位置:外野手 投打:右左 現役生活:18年規定打席到達:12回('76、'77、'79、'81~'84、'86~'90)タイトル:首位打者 1回('87)、最多安打 1回('87) ※当時表彰なし表彰:ベストナイン 4回('79、'82、'86、'87)、Gグラブ賞 1回('87)オールスター出場 4回('87~'89、'91)節目の記録:出場-1,000試合出場('84.4.7)、1,500試合出場('88.4.13)、2,000試合出場('92.5.17) 安打-1,000安打('84.5.24)、1,500安打('88.4.10)、2,000安打('92.7.8) 個人的印象南海から近鉄にかけて活躍した安打製造機、の印象です。とにかく大きな不調なくクールで淡々と試合に出続けて、ヒットを量産したと思ったらバントをしたり、日本プロ野球で歴代6位という通算300犠打の記録を見てもバントの多さは抜きん出ていて、いつもコンスタントに活躍を続けていて「この人に衰えはあるんだろうか?」と思ってずっと見ていた選手です。あと、契約更改の潔さも新聞記事を見てて印象的でしたが、一度も保留をした事がなく、とにかく提示された額で淡々と判を押していたといいます。南海や近鉄など、決してお金があるとは言い難い球団で、最後にして最高の年俸が8,200万円くらいだったといいますが、この当時でも1憶もらってて全然不思議な選手ではありませんでしたが、そういう欲がなかったんでしょうか…。プロ入りまで高校は大阪のPL学園で、3年の夏に府予選を勝ち抜いて甲子園に出場しました。当時のPL学園は夏の甲子園が8年ぶり2度目とまだまだ実績がない頃でしたが、この年は決勝まで進んで東海大相模に6-10で敗れ準優勝でした。当時はエースに新美敏投手(日本ハム-広島)がいて、1学年下で行沢久隆選手(日本ハム-西武)がレギュラーで出ていたという豪華ぶりでした。この大会で12安打という当時の新記録を樹立しプロ球団も食指を伸ばしますが、近鉄からドラフトにかかるも拒否し、法政大学へ進学しました。大学では、大洋に入った高浦美佐緒捕手が同級生で、前回記事の山本功児選手が1学年先輩になります。4年時には1年生エース江川卓投手とチームメイトとなっています。大学でも優勝に貢献するなど活躍し、1974(昭和49)年のドラフト会議で南海から2位指名を受け入団しています。当時の野村克也兼任監督がえらく気に入ったともいわれます。その当時、兄の勧めもあり新井鐘律から宏昌へ改名したといいます。初期キャリアルーキーイヤーは1975(昭和50)年で、背番号は「6」を与えられ即戦力の期待が現れたものと思いますが、50試合に出場し188打数57安打(打率.303)で1本塁打16打点と、規定打席の約半分ながら、いきなり3割をマークしセンスの良さを感じさせました。2年目の1976(昭和51)年には早くも規定打席に到達し、119試合に出て406打数110安打(打率.271)で2本塁打35打点をマークしました。この年は足も生かし、キャリアハイの20盗塁を記録し、唯一の20個台を記録しました。3年目1977(昭和52)年は409打数93安打(打率.227)で1本塁打21打点でした。この時記録した38三振が最多で、シーズンこれ以上三振しておらず、三振のリーグ最少シーズンが6回もあったという「三振の少ない打者」で、通算三振が422に対して通算四球が544あったという、三振よりフォアボールの方が多い打者でした。この年オフに野村監督の解任が発表され、広瀬叔功選手が監督に就任し、この体制の下で選手生活を続けますが、1978(昭和53)年は新人の年以外で初めて規定打席を割り込み、112試合で344打数87安打(打率.253)で1本塁打17打点でした。バット革命それまで、そこそこの打率は残しても、後のようなアベレージヒッターの雰囲気もなく、規定打席到達時に3割にはおよそ届かない成績でしたが、1979(昭和54)年に知人のアドバイスにより、バットのグリップを半分に削る事により、強い打球が打てるようになった、という事で打撃開眼し、「バットを変えた事で打率が1割上がる」とのコメントを残していますが、388打数139安打で2本塁打34打点の成績で、打率は.358で本当に前年の.253から1割以上あげ、加藤英司選手(阪急)の.364に次ぐ打撃ベストテン2位の成績を残し、初の規定打席3割であり、首位打者を獲っていてもおかしくない記録を残し、初のベストナインに選ばれました。1980(昭和55)年は再びわずかに規定打席不足で、324打数85安打(打率.262)で6本塁打43打点と、本塁打打点は急上昇しました。それまで本塁打は1本か2本しか打てていなかったのが、飛距離が伸びたようです。ただこれが後々悪影響にもなったようです。アベレージヒッターへ定着1977年からは規定打席到達とわずかに不足を交互に重ねた4年間でしたが、1981(昭和56)年は打率がちょうど.300(406打数122安打)で4本塁打33打点の成績でした。1982(昭和57)年も打率.315(413打数130安打)で2年連続3割をマークし、この年三冠王になった落合博満選手の.325に次ぐ2度目の打率2位でした。また3年ぶりにベストナインも受賞しています。1983(昭和58)年は130試合フル出場して打率.290をマーク、それまで毎年のように110試合台をコンスタントに出ていましたが、全試合出るまでには至らなかったのが、この辺りから常時出るようになり、一番や二番など上位打線を打つ打者の割には9年目にして初めて500打席を越えました。1984(昭和59)年は127試合で打率.286で4年連続規定打席に到達し、節目の通算1,000試合出場と1,000本安打を達成しました。30歳を越えてからの方がむしろ成績を上げてきた新井選手でしたが1985(昭和60)年は5年ぶりに規定打席を割り込み、118試合で325打数85安打(打率.262)で3本塁打26打点で、連続100安打以上も4年で途切れました。近鉄へトレード1985年オフに南海で「外野手では4番手だ」といわれ、トレードを志願したといいます。引越しが不要な所という条件が通り、近鉄のコーチだった仰木彬氏が欲しがっているとの話もあり、近鉄バファローズへ移籍となりました。という事で、1986(昭和61)年からは近鉄でプレーする事となりました。それまでも南海で安定した成績を残してきましたが、近鉄で中西太コーチと出会ったことが更なる高みへ導かれたようで、南海で長打力がついたのは門田博光選手などの影響で、力で振り回すスイングをしていた部分が大きく、「相手の球の力を利用して」のバッティングを指導され、またバントのやり方も指導を受け、打撃にもバントにも確実性が上がり、後の指導者人生にも役に立った、と本人が述懐しています。移籍初年の1986年は34歳のシーズンでしたが、3年ぶりに130試合フル出場を果たし、514打数148安打(打率.288)で12本塁打51打点をマーク、プロ12年目にして初めて2ケタ本塁打を記録し、4年ぶりにベストナインを受賞しました。以後長年、1番大石大二郎選手と2番新井選手は名コンビとして活躍を続けますが、大石選手が出塁し盗塁もして、新井選手がバントやヒットエンドランなどで大石選手を進塁させ、クリーンアップへ繋ぐという近鉄の得点源の方程式が完全に定着しました。ベストシーズン1987(昭和62)年が成績的なピークといえるシーズンで、128試合で503打数184安打(打率.366)で13本塁打67打点と驚異の成績をマークし、35歳にして初めてオールスターに出場し、2年連続のベストナイン受賞は現役生活唯一のGグラブ賞とのダブル受賞となり、打率.366で念願の首位打者に輝き、同時に184安打が最多安打(当時表彰なし)も記録しました。本塁打打点ともキャリアハイをマークしています。この184安打は、当時130試合制での最多記録であり、後も含めてイチロー選手が210安打、193安打を記録し塗り替えますが、これに次ぐ3位の偉大な記録として残っています。1988(昭和63)年は465打数133安打(打率.286)で8本塁打54打点と、近鉄移籍の1986年から3年連続で50打点以上を記録していますが、南海時代は1983年の1度だけでした。この年には節目の通算1,500試合出場と1,500本安打を達成しています。前の節目の1,000の時も試合数と安打と同じ1984年に記録していますが、1,500の節目も同じ年であり、試合数にほぼ等しい安打数を記録していたのが分かります。唯一の優勝経験入団した南海では、入団前の1973(昭和48)年を最後に優勝から遠ざかり、長い低迷期に突入した為、1978年から南海在籍最後の1985年まで8年間すべて5位か6位という、個人でいくら活躍してもチームの成績は一向に上がらない状況でした。移籍した近鉄はAクラスに入る事の多い強い球団でしたが、当時は西武の黄金時代で、優勝にはなかなか手の届かないところにいました。1988(昭和63)年には伝説の「10.19」でロッテとのダブルヘッダーで死闘を演じるもあと一歩及びませんでした。唯一優勝したのが1989(平成元)年で、オールスターには3年連続で出場し、124試合で444打数134安打(打率.302)で7本塁打47打点、規定打席到達で3割を達成したのがこの年が最後でしたが、37歳にしてまだまだ健在ぶりを見せていました。巨人との日本シリーズは3連勝で王手をかけながら、4連敗でさらわれるという屈指のシリーズとなりましたが、第1戦で巨人・斉藤雅樹投手から決勝タイムリーヒットを打って初戦を取り、いわゆる勝利打点記録者となりましたが、これを含め23打数9安打と活躍し、シリーズの敢闘賞を受賞しています。この前年1988年の10.19の死闘後、更にこの年の日本シリーズ終了後に、同年代の選手は続々と引退し、1990年代に入ると、投手野手含めてチーム内で「ひとり突出して年長」というチーム編成になり、時代の変わり目においてもまたしぶとく第一線で活躍を続けていきました。晩年、引退37歳にして3割をマークし、日本シリーズでは敗れはしたものの敢闘賞を獲得し大活躍の続く新井選手でしたが、そんな彼にも衰えが現れ始めました。1990(平成2)年は38歳のシーズンでしたが、115試合に出て363打数106安打(打率.292)で6本塁打34打点の記録で、規定打席に到達したのはこの年が最後となりました。1991(平成3)年は、南海最後の1985(昭和60)年以来、実に6年ぶりに規定打席を割り込みましたが、わずか12打席足りなかっただけの391打席に立ち、333打数103安打(打率.309)で3本塁打44打点でした。もう少し打席に立っていれば打撃ランキング上位に入っていた成績であり、6年連続で100安打以上も記録しました。39歳にして最後のオールスターに出場していますが、ホームランを打つなどして活躍しました。このシーズン終了時点で通算安打数は「1973」で、名球会入りの通算2,000安打まであと「27」に迫っていました。そして1992(平成4)年、4月には40歳を迎えるシーズンで、年齢的な衰えを感じていた事や2,000本安打達成を目前にしたプレッシャーなどで、大台到達にはかつてないスローペースとなり、7月になってようやく通算2,000安打を達成しました。当時40代での2,000安打達成は史上初でした。最終的に2,038安打をもって、この年40歳で引退しました。引退後は各球団で長く現場でコーチを中心に70歳近くまで活躍しましたが、なかでもオリックスで仰木彬氏の片腕として活躍していたのが印象的で、「イチロー」の名付け親も彼であったといわれています。↓1991(平成3)年の選手名鑑より。 39歳、この翌年に現役を引退しますが、まだまだレギュラークラスで前年まで規定打席に到達していました。( )内の数字が昭和の年号になっていて、まだ平成の初めである事が窺えます。 にほんブログ村BBM ベースボールカード タイムトラベル 1979 66 新井宏昌 南海ホークス (レギュラーカード/1979年のプロ野球)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}BBM2009プロ野球OBクラブ「第1集」■レギュラーカード■75/新井宏昌/近鉄Amazon(アマゾン)BBM2013ホークス75周年■レギュラーカード■26/新井宏昌 ≪ベースボールカード≫Amazon(アマゾン)1991 Qcard バファローズ #9 新井 宏昌 外野手Amazon(アマゾン)2000bbm センチュリーベストナイン レギュラーカード No.349 新井宏昌Amazon(アマゾン)