思い出のプロ野球選手、今回は「淡口 憲治」選手です。
1970年代初頭からから80年代末期にわたって巨人、近鉄に在籍し、代打の切り札や準レギュラークラスで長く活躍し、群を抜くスイングスピードは「コンコルド打法」と称され、打席に入ってバットを構えた時にお尻を2度ほどフリフリッとするのが印象的で人気を博した選手です。
【淡口 憲治(あわぐち・けんじ)】
生年月日:1952(昭和27)年4月5日
入団:巨人('70・ドラフト3位)
経歴:三田学園高-巨人('71~'85)-近鉄('86~'89)
通算成績:1,639試合 打率.275 1,076安打 118本塁打 474打点 58盗塁
位置:外野手 投打:右左 現役生活:19年
規定打席到達:1回('83)
節目の記録:出場-1,000試合出場('83.6.11)、1,500試合出場('88.6.15)
安打-1,000安打('88.5.31)
本塁打-100号('86.6.10)
個人的印象
巨人の準レギュラーにして代打の切り札、です。
背番号35の選手として初めて認知した選手でした。
巨人の35は淡口、36は柳田…として覚えました。
チャンスに強いイメージもありました。
常時出ている選手という感じではないのですが、1983年に一度だけ規定打席に到達したのはビックリでした。
後に近鉄に移籍して背番号7になってレギュラーか?と思いきや、ここでも準レギュラー的な役どころで、優勝した1989年もそこそこ出番がありましたが、「引退するの?」という感じであっけなく引退していました。
記録をこうして見直していても、規定打席に到達したのは1回だけなのに、300以上打席に立ったのが6回もあるという、限りなくレギュラーに近い選手だったのですね。
プロ入りまで
高校は兵庫県の三田学園高校で、後に巨人でチームメイトとなる山本功児選手は1年先輩となります。
2年春の選抜大会では、山本選手と共に甲子園に出場しています。
3年春の選抜大会も2年連続で甲子園に出場し、この時は後に近鉄でチームメイトとなる1学年下の羽田耕一選手とクリーンアップを組んでいます。いずれも準々決勝まで進みました。
1970(昭和45)年のドラフト会議で巨人より3位指名を受け入団しました。ちなみにこの時の1位は、あの湯口敏彦投手でした。
初期キャリア
ルーキーイヤーは1971(昭和46)年で、当時巨人はV6まで達成しており、黄金時代の真っ只中でした。当時の川上哲治監督に気に入られたという事で高卒1年目から一軍の試合に出場する機会が得られました。
安打こそありませんでしたが、3試合出場し2打席に立ちました。当初の背番号は「35」でしたが、ずっとつけていた訳ではなく、2年目からの2年間は「55」となり、4年目から再び「35」に戻り、巨人では最後までこの35をつけ続けます。
2年目1972(昭和47)年は18試合に出て22打数5安打(打率.227)で1本塁打3打点と、初本塁打も記録しました。
3年目1973(昭和48)年もほぼ同様で24試合27打数6安打(打率.222)で2打点のみと、最初の3年は少し顔を出した程度でした。
チームが連覇を続けV9を達成したのがこの3年目であり、翌年からは優勝から遠ざかります。
飛躍
戦力として本格的に出てきたのは、優勝を逃した1974(昭和49)年からで、4年目のこの年は63試合に出て68打数16安打(打率.235)で3本塁打8打点とやや躍進し、長嶋茂雄監督が就任した1975(昭和50)年は114試合に出て314打数92安打(打率.294)と一気に躍進し、12本塁打42打点の生成器で、打席は356と規定打席にわずか47不足とレギュラー同然にもなりつつありました。
しかしチームはこの年、球団史上初の最下位に沈み、日本ハムから張本勲選手をトレードで獲得し、外野の定位置争いが激しくなりました。
そんな事もあってか、チームはその後2年間リーグ優勝を果たすものの、淡口選手の出番へ年々減っていき、1976(昭和51)年は258打数77安打(打率.298)で10本塁打39打点と2年連続で2ケタ本塁打こそ記録しますが、打数は少し減りました。
実質的な初の優勝経験となり、日本シリーズに初めて出場したのがこの年で、主に代打でしたが、先発出場も果たし、第6戦では豪速球で名を馳せた阪急・山口高志投手から3ランホームランを打っています。
その後の2年間が、かなり出番に恵まれなかった時期で、いずれも打席打数とも100台で、30本そこそこの安打で、1978(昭和53)年は打率.300ではありましたが、110打数33安打での.300で4本塁打9打点の寂しいものでした。張本選手は健在で、また同じ外野手の柳田真宏選手が「史上最強の5番打者」といわれるほどの絶好調ぶりで、センターにはV9時代から不動の柴田勲選手がまだまだ君臨していた時代でした。
レギュラークラスの活躍
1979(昭和54)年は、200打数台に戻し、205打数53安打(打率259)で5本塁打20打点の成績で、この時27歳でしたが、オフに若手主体の「地獄の伊東キャンプ」に参加メンバーとして選ばれ、しごきに耐え抜きました。
翌1980(昭和55)年からが出番的なピークで、この年から4年連続で370以上の打席に立っています。ここまできながら規定打席に到達したのは1983(昭和58)年の1回だけだったのは残念ですが、それまでもこれに高い出番を得ての規定打席到達であれば、相応の実力があって届いた、という事なのでまぐれでもフロックでもなく大変良かったと思います。
という事でこの年は、114試合に出て344打数101安打と初めて100安打を越え、打率.294で14本塁打47打点と規定打席到達者とそん色ない成績を残しています。
打席は370で規定打席に33不足でしたが、14本塁打はキャリアハイでした。
藤田元司監督が就任した1981(昭和56)年は、116試合で336打数105安打(打率313)で13本塁打35打点で、打席数は371で規定に32不足と2年連続であとわずかでした。打率が.313の高率だったので、届いていれば打撃ベストテンのいい位置にいたのではないかと思います。2年連続で100安打以上記録しながら、いずれも規定打席に届いていないという不思議な記録を残しています。
この年は現役生活唯一の「日本一」を経験し、巨人時代何度もリーグ優勝は経験しますが、日本一はこの年だけで、ここでは代打や途中出場が中心でしたが、第4戦ではタイムリー二塁打を放っています。
1982(昭和57)年はキャリアハイの120試合に出て353打数94安打(打率.266)で13本塁打46打点で、打席は383とまた上がり、規定打席にわずか19不足と3年連続で惜しいところで足りず、規定打席の届かないレギュラーという感じでした。
唯一の規定打席到達!
1983(昭和58)年、それまで3年連続で370を越える打席に立ちながらも規定打席到達はならず、レギュラーであってそうでないような年月をすごしてきた淡口選手でしたが、この年ようやく現役生活で唯一、規定打席に到達する事ができました。
119試合に出て381打数115安打(打率.302)で10本塁打50打点で、唯一の規定打席到達が3割クリアとなりました。115安打に50打点はキャリアハイとなりました。また通算1,000試合出場も達成しています。
西武との日本シリーズでは、当初は先発出場していましたが、後半は代打出場となり、なかなかヒットは出ず、第6戦にようやくヒットが出たような具合であまり活躍をできませんでした。シーズン中の方がチャンスに強いイメージが強いと感じます。
巨人での日本シリーズ出場は、この4回目で最後となります。
この勢いに乗りたかった1984(昭和59)年でしたが、若手の台頭で逆に出番を奪われました。「50番トリオ」と呼ばれる若い力が前年から台頭してきていましたが、特に吉村禎章選手は著しく、駒田徳広選手はこの年からしばらく伸び悩みますが、若手に押し出され出番が減り、103試合で198打数56安打(打率283)、5本塁打31打点とほぼ半減となりました。
更には1985(昭和60)年になると、69試合出場と実に7年ぶりに100試合を割り込み、77打数16安打(打率208)で1本塁打8打点とかなり出場機会を奪われてしまいました。100打数を割り込むのは実に11年ぶりの事でした。
降って湧いたトレード
1985(昭和60)年オフ、巨人・定岡正二投手と近鉄・有田修三選手のトレードが決まっていましたが、トレードを拒否して定岡投手が引退してしまうという事態となり、巨人は代わりのトレード相手を探す事となり、淡口選手に白羽の矢が立ちました。関西の出身という事もあり承諾しましたが、バタバタのトレードだったという事で話題に上がる事がよくありました。巨人での成績や出番が頭打ちになっていた、のもあったのかもしれません。
という事で、1986(昭和61)年からは近鉄でプレーします。背番号はレギュラークラスの「7」を与えられ、初めてひとケタ背番号を着けました。
34歳になるシーズン、同じ外野で同級生で南海から新井宏昌選手が同時に移籍してきており、1歳上の栗橋茂選手はまだレギュラーとして活躍していた頃で、外野でこれだけのベテラン勢がひしめき合う事となりました。
そんな中の移籍1年目は115試合に出て、360打数107安打(打率297)で8本塁打38打点で、打席数は394と実に規定打席にあと「9」足りないだけでした。ここで巨人時代同様、規定打席に限りなく近づきながら到達が遠い、事となりました。息を吹き返した格好で、規定打席に到達した1983(昭和58)年以来3年ぶりに100安打をクリアしました。また、この年には通算100号本塁打を達成しました。
巨人で活躍した有田選手と共に「トレード成功」を印象づけた淡口選手ですが、1987(昭和62)年は102試合に出て、287打数69安打(打率.240)で6本塁打30打点の成績で、以降は200打数台の準レギュラークラスでキャリアを重ねていく事となります。
晩年の大舞台
1988(昭和63)年は90試合と、移籍後は少しずつですが出番が減り、216打数47安打(打率.218)で5本塁打18打点でした。この年には通算1,500試合出場と1,000本安打を達成しました。これだけの実績を残しながら、規定打席到達が1回だけというのは、巨人でフルに使ってもらえなかった当時の選手構成などが大きな要因となっている事を感じます。
この年の終盤はなんといっても伝説の「10.19」の死闘がありました。ここでは第1試合の9回に二塁打を放ってチャンスをつくるなど活躍をしています。この年には同年代のベテラン選手たちが次々と引退していきました。
1989(平成元)年も前年同様の成績を残し、89試合で214打数49安打(打率.229)で3本塁打27打点で、この年は西武の連覇を阻止して近鉄がパ・リーグ優勝を決めました。
パ・リーグで初めての優勝経験となり、日本シリーズは古巣・巨人との対決で、先発に代打に出場しましたが、特に第2戦は2安打を打ってベテラン健在をアピールしています。シリーズには敗れましたが37歳にしてまだまだ健在…
しかし、この年37歳であっさり引退してしまいました。
栗橋茂、羽田耕一といった生え抜きのベテラン選手も次々引退しましたが、彼らは一軍での出場がかなり限定的になった状況での引退なのに対して、淡口選手はまだまだ出番があって、顕著な衰えを感じませんでしたが、最後の3年は打率の下降が目立ったかなという印象ではありました。
引退後は古巣巨人で長年コーチを務め、他球団からも引っ張られて主に現場で指導者として活躍しました。