思い出のプロ野球選手、今回は市村 則紀投手です 

 

1980年代に中継ぎを中心に、中日と西武で渋い働きをした投手で、ドラフト史上唯一の30歳を越えて入団した事で話題になりました。

 

【市村 則紀(いちむら・のりお)】

生年月日:1952(昭和27)年7月16日
入団:中日('82・ドラフト3位) 
経歴:石下高-東洋大-電電関東-中日('83~'85)-西武('86~'88)

通算成績:163試合 5勝2敗1S 150⅓投球回 0完投 0完封 83奪三振 防御率3.95

位置:投手 投打:左左 現役生活:6年

規定投球回到達:なし

 

 

 

個人的印象

とにかく高齢入団が話題になった選手で、入団が決まった時に既に30歳で、ルーキーイヤーが31歳になる年だったという事は覚えています。

それでいて、先発ローテで起用される訳でもなく、中継ぎでずっと投げ続けていたので「このままずっと引退まで、こういう起用のされ方なんだろうか?」的に感じた覚えがあります。

当時自分が中学生で、30代といえばおじさんの印象が強かったので、そんな人がプロ野球の新人として入団するという事にすごいという感覚がありました。

 

後に超真面目な人、との評を見て、我の強いタイプではなく、自分の与えられた立場で黙々と働き続ける投手なのかな?と思うようになったのを覚えています。

実質30代だけのプロ野球人生でしたが、派手な数字を残すことなく、またものすごい驚異的な存在でもなく、ただ左投手として重宝され、ここぞの時のワンポイントリリーフとして起用され、そこそこの働きをしていた記憶もあります。

あと則紀と表記されていた名前は「のりき」だと思っていましたが、かなを振ってあるのを見て「のり」と読むことも驚きでした。

 

 

プロ入りまで

高校は茨城県の現・常総市の石下(いしげ)高校で、この高校は2011(平成23)年に閉校し、現在は統合後の高校が同じ場所に存在しています。甲子園とは無縁で、そのまま東洋大学へ進学しました。

東洋大では後に西武でチームメイトとなる松沼博久投手が同級生にいて共に活躍し、また自身が4年時に1年生として達川光男捕手がいました。

大学卒業後は社会人の電電関東へと進み、これが1975(昭和50)年の事ですが、ここで都市対抗に出るようになったのは1980年代に入ってからで、ここから2年間は自チームでまたは他チームへの補強選手として活躍し、1982(昭和57)年に中日ドラゴンズからドラフト3位指名を受けました。

既に30歳になっており、30歳を越えてドラフト指名されたのは60年近いドラフト制度の歴史の中でも彼ただ一人だけであり、イコールドラフト史上最高齢入団の選手です。既に妻子ある身でしたが「子連れルーキー」として入団しました。

ちなみにこの時の1位は鹿島忠投手、2位は平沼貞晴投手で、この年の中日は以下6位まで全員、投手が指名されました。

 

 

30代ルーキー

ルーキーイヤーは31歳になる1983(昭和58)年で、与えられた背番号は「37」という、どちらかというと二軍クラスに近い番号でした。

この年は44試合に登板し、生涯一度も先発機会のないままでしたが、左の中継ぎとして活躍し52⅓イニングを投げました。成績としては0勝0敗1S防御率3.10というものでしたが、全6年間の現役生活で唯一、試合数<投球回の年で、その後は試合数以下の㌄を投げる事となり、ワンポイントの色合いが濃くなってきます。

 

2年目の1984(昭和59)年は23㌄を投げ27試合で1勝0敗防御率4.30で、1年目よりは機会減となりました。この年挙げた1勝は32歳になる2ヶ月前に挙げたプロ入り初勝利でした。

3年目1985(昭和60)年は更に出番を減らし、17試合で14㌄を投げ0勝0敗防御率5.14と登板数も防御率も年々落ちていく格好となり、時に33歳、高齢入団ゆえに崖っぷちが訪れるのも早いものとなりました。

 

 

西武へ

中日3年間で後のない状況となっていった市村投手でしたが、中日では優良外国人のモッカ選手が引退するなど内野陣が手薄になる不安があり、トレードを画策していましたが、西武にいた鈴木康友選手に目をつけ、その交換相手に市村投手が指名されました。

 

かくして入団した中日ではわずか3年間の在籍に終わり、1986(昭和61)年からは西武ライオンズの在籍となりました。

中日では優勝した翌年に入団した事もあり優勝とは無縁でしたが、移籍先の西武は既に常勝チームとなっていた頃で、一軍で活躍さえすれば優勝の美酒を味わえるというものでした。

 

そんな中、移籍1年目は息を吹き返し、初めて前年を上回る成績を残しました。37試合に登板し、2勝2敗防御率3.00で33㌄を投げました。広島との日本シリーズにも1試合だけ中継ぎで登板し、1回を無失点に抑えていますが、以後はチームが優勝しても自身のシリーズ登板機会はなく、結局はこの年の1試合のみが日本シリーズでの登板実績となりました。

 

1987(昭和62)年は27試合で2勝0敗防御率5.82で21⅔イニングを投げました。登板数が落ち、防御率はかなり上がってしまいました。

1988(昭和63)年は11試合で0勝0敗防御率5.68でわずか6⅓イニングを投げたのみに終わりました。

中日と西武でそれぞれ3年ずつ在籍しましたが、どちらも1年目の成績が最高で徐々に下降しており、西武に来たことで選手寿命を延ばしたともいえ、この年限り36歳で引退しました。

 

31歳になる年の超高齢入団であった為、36歳まで務めても現役生活わずか6年の短さでしたが、それでも通算160試合余りを投げて通算5勝を挙げ、左のワンポイントとして重宝がられた良い投手人生だったと思います。

 

 

引退後は古巣・中日へ戻りスコアラーへ転身しましたが、その後現役の選手としてアマチュア球界へ活躍の場を移し、軟式やソフトボールなどでもプレーをしたといいます。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 中日3年目の33歳、結果的に中日でのラストイヤーとなり、翌年西武へトレードされる事となります。

 前年にプロ入り初勝利をマークし通算成績が1勝0敗となっていました。この年も0勝0敗で、中日では黒星のつかないまま退団しました。

 真面目人で控えめな点を指摘されていますが、成績も相応だった感がありました。

          

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村