思い出のプロ野球選手、今回は「梶間 健一」投手です
1970年代後半から80年代後半までヤクルト一筋に在籍し、先発左腕として活躍した投手で、当時のエースであった松岡弘投手に続く存在として、
【梶間 健一(かじま・けんいち)】
生年月日:1952(昭和27)年8月30日
入団:ヤクルト('76・ドラフト2位)
経歴:鉾田一高-日本鋼管-ヤクルト('77~'88)
通算成績:428試合 85勝101敗13S 1,547⅓投球回 48完投 7完封 1,016奪三振 防御率4.01
位置:投手 投打:左左 現役生活:12年
規定投球回到達:7回(’77、'79~'81、'83~'85)
オールスター出場:5回('77、'79、'80、'83、'84)
節目の記録:奪三振-1,000奪三振('87.10.12)
個人的印象
ヤクルトの先発左腕として活躍した印象が強く、毎年のように2ケタ勝利を挙げていた印象が強いです。
左腕でサイドスローという変則で、細身の身体でその投げる姿は独特で、特に打者の「背中からくる」といわれたカーブを持ち味としてのらりくらりと翻弄するタイプの投手でした。
晩年は意外と早く来て、故障が原因でしたが、中継ぎで投げるようになり程なく引退してしまっていました。
その存在を知った時は毎年のように2ケタ勝利を挙げていた「全盛期」だったので、軽く100勝くらいしてるのかと思ったら、プロ入団が遅かった事もあり、現役生活は12年間で通算85勝でした。ただし敗戦は101と100を越えています。
プロ入りまで
高校は茨城県の鉾田一高校で、甲子園にはわずかに手が届かず、社会人の日本鋼管へ進みます。
社会人では4年目になって初めて都市対抗に出て、6年目には見事優勝を果たし、これを手土産にする形で1976(昭和51)年のドラフト会議でヤクルトより2位指名を受け入団しました。この時の1位はサッシーこと酒井圭一投手でした。
新人から活躍
新人の年は1977(昭和52)年、社会人に6年間いたので25歳になる年の高齢入団でしたが、背番号は「19」を与えられました。
4月から初登板を先発で果たすなど即戦力として活躍し、1年目からオールスターに出場し、2試合に出ていずれもリリーフで計1⅓投げただけで2勝を挙げる幸運に恵まれました。
シーズンは最終的に44試合で7勝7敗1S防御率3.34、150⅔㌄を投げ規定投球回にも到達しました。新人王候補にも挙がりましたが、こちらは大洋の斉藤明雄投手が8勝9敗の成績で受賞しました。
2年目で優勝
新人の年にヤクルトが2位に躍進しましたが、1978(昭和53)年はチームが球団創設以来の初優勝に輝きました。
シーズンの成績は47試合で3勝8敗2S防御率5.34で投球回は90⅔㌄と規定投球回を割込み2年目のジンクスに陥った格好となりました。
日本シリーズでは3試合に投げ、2試合はリリーフで1試合は先発しましたが、勝敗関係なく終わりました。
ただ、ここでのシリーズ経験が現役生活で唯一のものとなり、優勝はこの1回だけでした。その後は弱小ヤクルトにおいて中心投手として奮闘を続けることとなります。
先発の柱へ
1979(昭和54)年は3年目にして2年目のジンクスを克服し、2年ぶりに規定投球回に到達し初の2ケタ勝利で43試合10勝11敗防御率5.11で141⅓㌄を投げました。
2年ぶりにオールスターにも出て、ヤクルトを代表する投手へ躍り出てきた感がありました。
1980(昭和55)年は8月には2年連続2ケタの10勝を挙げ、最終的に自己最多の15勝に到達、33試合で15勝8敗防御率2.76の好成績を残し、防御率も半減し規定投球回数をクリアした7回の中で唯一の2点台でした。
オールスターにも2年連続3度目の出場を果たしています。
低迷を経て左のエースへ
1981(昭和56)年と1982(昭和57)年はいずれも6勝10敗の成績で、81年こそ144⅓イニングを投げましたが、82年はほんのわずか規定投球回に届かず127⅔㌄にとどまりました。
1983(昭和58)年は3年ぶりの2ケタ勝利を果たし43試合で14勝12敗3S防御率3.21で唯一の200㌄越えとなる232⅔㌄を投げ、先発にリリーフにフル回転しました。この時期は先発投手がリリーフしてセーブ挙げるのは当たり前で、まして絶対的守護神のいないヤクルトでは必ずそういう場面が必要でした。
この時には先輩投手の多くは引退や移籍をしていなくなっていたので、かなり年長の部類に入っていました。14勝はチーム最多で、松岡弘、尾花高夫の両投手が11勝で続きましたが松岡投手は36歳になっており、この年が最後の2ケタ勝利で、26歳の若手尾花投手と7勝の宮本賢治投手ぐらいしか望める戦力はいなかった感がありました。
1984(昭和59)年は35試合で12勝11敗2S防御率3.75で180㌄を投げ、14勝の尾花投手につぐ12勝を挙げましたが、チームは1982年から5年間は、この年の5位以外はすべて最下位という「暗黒時代」であり、打線も弱かった時期でした。
1985(昭和60)年は最後の2ケタ勝利を挙げ、38試合で11勝17敗防御率4.22で189⅔㌄を投げ、2ケタ勝利(5回目)も規定投球回クリア(7回目)もこの年が最後となりましたが、かなり負けが先行しました。
中継ぎ転向の晩年
投手陣最年長となった1986(昭和61)年からは故障に泣き、この年はわずか8試合の登板で、それでも6試合は先発していましたが結果が出ず0勝3敗防御率7.54というプロ入り自己ワーストの成績に終わってしまいました。現役生活12年間でひとケタ登板はこの年だけでした。
その後中継ぎのポジションとなり、1987(昭和62)年は37試合に登板し42⅔㌄を投げ、0勝3敗2S防御率4.01、通算1,000奪三振を達成します。現役通算1,500余りの投球回で1,016もの三振を奪っており、当時としては奪三振率の高い投手であり、しかも本格派でない事を考えると、かなりの技巧派だった事が分かります。
しかしかつての左のエースもこの2年勝ち星なしという状態で、投手陣最年長35歳になっていましたが、他は全員30歳以下の若い構成となり、故障との付き合いと共に精神的なモチベーションを保つことも難しかったと思われます。
1988(昭和63)年、18試合に登板し3年ぶりに勝利を挙げ、これが最後の通算85勝目となりましたが、1勝0敗防御率2.76の成績をもって、ヤクルト一筋12年36歳で引退しました。最終戦ではナインから胴上げされたといいます。
引退後は1990年代まではヤクルトのコーチを務め、その後は寮長を務めました。
1985(昭和60)年の選手名鑑より
前年12勝を挙げ左腕のエースと評されていましたが、通算的にはこれに12勝を上積みするだけに終わり、この85年に11勝を挙げますが、その後1勝しただけで3年後には引退する事となりました。
飛行機の模型づくりが趣味だったんですね。