言葉を紡ぐという行為は、酷く難しい。
その反面、とても愛おしく、大切なことだと思う。
言葉という媒体を通して自分の気持ちを伝えられるなら、どんなに素敵なことだろう。
演じるということを知ってしまったせいか、その人が心からその言葉を発してくれているのが解ると、
何とも言えない嬉しさに包まれる。
坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読んだ。
野田秀樹氏の芝居、「贋作・桜の森の満開の下」を見てからずっと気になっていたのだが、遂に読むことが出来た。
人の命、其れを覆うように舞い散る桜。
あくまで主観的な意見だが、鬼は男のことを、心の底から愛していたのだろうと思う。
男に、自分の心底惚れぬいた男に、自分の最後を、その手で終わらせて欲しかったのだと思う。
古典文学というジャンルだからこそ、男や鬼の心情は如実に描かれてはいないが、だからこそ読み取れることがあるのだと、私は信じている。
此処からは個人的な意見として捉えて欲しい。
鬼は、この物語に出て来るどの登場人物よりも孤独で、愛されたいと願っていたのではないだろうか。
いくら桜のように美しい姿を真似てみたところで、心の奥の哀しみは癒える事は無い。
どんなに過酷な要求をしても、それに答えてくれるだけの愛情を求めていたのではないか。
そこまでの愛情を注いでくれる人間を、本当は探していたのではないか。
この物語で一番哀しいのは、殺された沢山の人たちではなく、女中でも男でもなく、
桜の鬼そのものだったのだと私は思う。
文中、鬼が沢山の首を集め、弄ぶシーンがある。
どんな心理描写よりも詳細に描かれているのは、この物語の本当の意図を汲み取る材料として埋め込まれたものだと、そう願い、そう信じている。
鬼は、単に人間という生き物になりたかったのだ。
どんなに醜くとも、ずっとずっと、桜の森の満開の下で、願い続けて来たのであろう、たった一つの望み。
例え絶世の美女に姿を変えることが出来たとしても、其れはかりそめの姿でしかない。
愛されるということを、彼女は知りたかっただけなのだと感じた。
芝居では、鬼と男の最期のシーンでは、計り知れない程の桜吹雪が舞う。
山での生活、男と過ごす日々、都での日常。全て、彼女が長年思い続けてきた、描き続けてきたことなのではないだろうか。
驚き、恐れながら、男は鬼を殺す。
桜の森の満開の下で。
けれど其れは、彼女が一番思い続けていた、幸せな死だったのだと、信じて止まない。
でなければ、あんなに綺麗な桜を咲かせられる訳が無い。
でなければ、あんなに美しい桜吹雪になって、生涯を終えられる筈が無い。
人間に憧れ、愛されることに憧れ、愛する人に、愛されたまま殺される。
それが彼女の幸せだったのだろう。
けれど自分が、一生を掛けても人間になどなれないことを知っていたから、ああして沢山の首を取らせた。
彼女が鬼ではなかったら。どんなに醜くても、一人の人間として生まれてきたのなら。
もう一度、桜の森の満開の下で、男に出逢うことが出来たのだろう。