FUxK IN LIFE -7ページ目

FUxK IN LIFE

やわらかく、美しく。



生きているということ、酸素を取り込むという行為は、



なんて難しいことなのだろうか。

欝や精神病って、全然恥ずかしいことじゃないんですよ。
足が折れたのと一緒。心が折れたからなった病気。
でも、心が実際にどこにあるかなんてわからないから、
世間の理解を得られないんでしょうね。
全然恥ずかしいことじゃない。
腕を切ることもお薬を飲むことも。

公言していいはずなのにね。
あたし喘息持ちなんですって言うくらい、簡単に言えることなのにね。

世間の知識は浅はかだ。
「心が弱いからうつ病になるんだ」
「構って欲しいから手首を切るんだ」
そう思ってる人はいっぱいいると思う。
実際歩み寄れば、理解しようという気持ちがあれば、
わかることな筈なのに。
決め付けはよくない。
生きていることを実感するために血を流す人だって沢山いるんだよ。
生きてることを実感するために、お薬を大量に飲む人だっていっぱいいるんだよ。

きっと私がここで叫んだところで、こんな言葉はメディアやそう思ってる人たちには伝わらないかもしれない。

でも、誰だってなってしまう可能性がある病気なんだ。
心が弱いとか、そんなの関係ないんだよ。
心が強い人が、頑張りすぎてなってしまうことが多い病気なんだよ。

世間、マスコミ、メディアは、そういうことを知ろうともせずに軽々しく言う。
「心が弱い。」
本気で真っ暗な闇に放り込まれてしまったら貴女はどう思う?
もう切りたくないよ、って泣きながら手首を切る人の気持ちがわかる?

もしわからなくても、わかろうと歩み寄ることはできると思う。

実際にうつ病が完治した例は沢山ある。
みんなそれを目指して、ギリギリで理性を保って生きているけど、
一生うつ病が治らない人もいる。
自我があるだけ、想像も出来ないくらい辛いんだと思う。
迷惑ばかりかけて、自分なんかいないほうがいいんじゃないかって、
あたしならそう思うし、そう思ってる患者さんも少なくないはずだ。
いかに歩み寄って、声をかけてあげられるか。
それが一番あたしは大切なことだと思う。
見てみぬ振りなんて、今まで沢山されてきた。
実際どうしていいかわからないんだと思う。何をしてあげればいいのかわからないんだと思う。


過呼吸も鬱も、決して恥ずかしいことなんかじゃない。
それだけは大声で言えるよ。


だけど世間はそう思ってはいない。

うつ病なの?じゃあ不採用。
あたしは傍からそんなこと言わないから言われたことも無いけれど、
そんな認識しかないんだよ。
あなたはあの悲しみを、あの暗闇を知らないから言えるのかもしれないけど、
打ち明けた側がどんなに暗闇を見るのかなんて、きっと考えていないんでしょう。
いや、想像が付かないんだよね。

あたしもかつてはそうだった。
なんで腕を切るの?って疑問を持ってた。

でも、やっとわかったよ。
あたしはこの病気になってよかった。
そうじゃなきゃ見えない景色が、真っ暗なランプ一つない暗闇が、
大切にしなくちゃいけないものたちが、墜ちた先にいっぱい見えたもん。
こんな経験は滅多に出来るものじゃないって思う。
むしろ精神病になった人じゃないと、わからなかった世界があった。

沢山の人たちに迷惑をかけたね。
ごめんね。
家族にもごめんなさい。

いきなりなるかもしれない病気。
レントゲンに写らないけど、確かな病気。

明らかに症状が出てるのに病院に行かない人もいる。
曖昧だよね、お腹が痛いわけじゃないもんね。

正直、病院に行って何が変わるのか私にもわからない。
薬を処方されて、それを飲んで。
その繰り返し。

傷ついたり、傷つけたり、怖いんだよ。


もう離れていかないで
もう裏切らないで

傍にいてなんて言わないから。
彼氏なんて当分いらないから。


でもあたしは、この真っ暗闇が嫌いじゃない。
いつかプラネタリウムみたいに見える空を、信じたいんだ。

7月に弟20歳(知的障害・自閉症)と、TOKIO魂に行ってきた。

弟は幼少期からまともに話せないし、言語の理解にも皆無と言っていいほど乏しいし、行動も普通じゃない。まぁ普通という世の中の境界線がよくわからないのだけれども、気に入らないことがあったら自分の頭や手や足を殴るし、人前で平気で泣いたり怒ったり大声を上げたりもする。

だけど、これは決して偽善ではなく、あたしはそんな弟が心から愛しいと思うのだ。

仕事や遊びから帰ってくると、脱兎の如く玄関まで走って迎えに来る。
「おねえちゃん、ただいま、おかえり」
そう言ってくれる時の弟の笑顔に、あたしは辛さを忘れて本心で癒されるのだ。

これは何の躊躇もなく言えるあたしの本心だが、昔から、弟のことを恥ずかしいなんて思ったことは一度も無い。
偽善と呼ばれても構わない。
だけど本当に、本当にそんなことは一度だってないのだ。

「知的障害」という言葉を聞いて、普通の人はまず“可哀想”“気の毒にね”と思うはずだ。
その根拠は、メディアがそう捉え、そう主張しているからだ。

実際スーパーに買い物に行ったら不思議な顔で見られるし、一緒に歩くと振り向かれる。
それでもあたしは愛しいのだ。すごく優しくて、すごく他人思いな弟が、大好きなのだ。

知的障害というレッテルを貼られ、それでも前を向いて生きている弟を見ると、あたしは本当にいつも心を打たれる。
勿論本人にそんな気はないだろうし、自分の考えていることをどこまで理解しているのかわからない。会話だって成立しない。

だけど、あたしが言いたいのは、「知的障害や自閉症だからと言って、決して可哀想なんて言葉は使ってはいけないのだ。」
少なくとも、障害者の作業所で今は働いている弟は、笑顔で、家族思いで、誰よりも他人を思っていて、前を向いて笑っている。
ただそうしていられることが、彼にとって幸せなんだとあたしは思う。

自分が可哀想だなんて、たった一ミリも弟は思っていない。
他人を傷つけることも、暴力を振るうこともない。
あるのは巧く言葉を発せないくて、うまく伝わらなくて、
悔しさから来る自傷行為だけだ。
手を繋ぐときも、「やさ、し、く。」と言ってはにかむ様に笑う。
そんな弟を、どうして恥ずかしいなんて思えるだろうか?

中学生のときに、「弁論大会」と言うものがあって、
当時から人前で話すことが好きだったあたしは、恩師である先生の勧めで壇上に立つことになった。
「何を話したいか、原稿を書いてきて」
そう言われて、真っ先に浮かんだのが弟のことだった。
どんなに考えてもそれしか、当時のあたしには思い浮かばなかった。
今だから言うが、弁論大会に出場した際には、絶対にそのことを訴えよう、そう思っていたのだ。
案の定、あたしは思っていること、間違っていると思うことを書き連ねて持っていって、多少の直しはあったものの、ほとんどそのままの状態で弁論大会に出場する運びとなった。

タイトルは、「やさしさをありがとう」。

当時、ちょうどうちの両親が、あたしのいる中学校に養護学級を作るために署名活動や知事への懸け合いをしていた。
伝わるかどうかわからない難しいテーマだったけれど、あたしは全身全霊を込めて原稿を読んだ。
偽善と呼ばれても構わない。だけどそれが、当時あたしにできる唯一の世間に対する訴えだったのだ。
沢山の学校が出場している中で、聴衆の中には弟も居た。
幸いなことに、聴衆のほとんどが、あたしの弁論を聞いて涙を流してくれた。
「ああ、伝わったんだ。」という気持ちが、何よりも先にこみ上げてきて、あたしは満足感と共に壇上を降りた。
それだけで十分だった。
トロフィーも賞状も、あたしにとってはどうでもよかった。
ただ、あたしの話が、障害児を持たない親や学生に伝わった、それだけで嬉しかった。

だけど喜ばしいことに、あたしは最優秀賞という名誉ある賞を頂いた。
その伝で、仙台の公演にも招かれ、あたしはより多くの人に障害という本当の意味を伝えることが出来た。
中学生の拙い言葉だから、伝わったかどうかはわからない。
でも、自分の思いの丈を、大勢の人の前で言えるということが、素直に嬉しかった。

トロフィーと賞状は、あたしがもらったものではない。
弟が、懸命に生きてきたことへの勲章だ。

翌年、無事に我が中学校に養護学級が出来た。
2才下の弟とは、一年間一緒に登校することができた。
両親の頑張りが認められたのだと思うと、嬉しくて仕方なかった。
そしてあたしの弁論も、少しはその役に立ったのかなぁ。
そうであることを、願いたい。


何度も述べるようだが、これはあたしの自慢話でも何でもない。
偽善と呼ばれても構わない。
ただ、身近にそういった障害を持った人がいなくとも、歩み寄ることは出来るはずだ。
声をかけることはできるはずだ。

だって、同じ人間だもの。
彼等だけが虐げられるなんて、おかしいと思う。
世界は、狭い。

あたしは、家族にそう気づかせてくれる新司という存在が居て、
心からよかったと思うのだ。

困った。


自分を含めた人間が、悉く信用出来ない。

疑ってかかる心を持つべきだ、と、私をよく知る友人に言われた事があったが、ここまで人間を信用出来ないと、自分がどうやって生きていけばいいのかわからなくなる。


他人を信頼しなければ、自分が信頼されることは無い。


どうしてこうも疑心暗鬼になってしまうのだろうか。

自分を好いてくれる人でさえ、心の底では何を考えているのだろうと思うようになってしまった。

見えていた筈の目標でさえ、今は何処かに隠れて、目を凝らしても見つけることが出来ない。


久しぶりに、携帯電話の電源をオフにした。

誰とも話をしたくない。面倒なことに巻き込まれるのはもう嫌だと思う反面、誰かに必要とされたいと願う。

結局“面倒なこと”を起こしているのは、自分自身なのだ。


枯れ果てた涙は、いつかまた溢れることがあるのだろうか。

一人、静かな部屋の中で、酒を煽り、煙草を嗜みながらそんなことを考える。

無音。無気力。無感動。

他人を利用し、自分を利用され生きていくシステムは、もううんざりだ。

人間は自分よりも弱いものを見つけて、安心したがる生き物だ。と、何処かの作家が言っていたけれど、本当にその通りだと思う。

もうそんな生き方は真っ平だ。勝ち負けを気にして何時まで生き永らえるつもりなのだろうか。


生きよう。

嘆きばかりの日々にも、心から笑える出来事は、ある筈だと信じたい。

とても嬉しい話を頂いた。


けれど今の私に、其れを引き受ける自信は無い。

何もかもが億劫で、総てのものがモノクロに見える。

まるで色など、存在しないかのように。


ゆっくりと、穏やかに過ごすことだけが私の望みだ。

どうしてそれすらも容易に叶えられない世界なのだろう。


最近、mixiという媒体に、ほとほと飽き飽きしている。

だから誰にも知られずにこのブログを創めた。


誰も知らない場所で、静かに存在していたい。

だけど、此処にいるということを、誰かに知っていて欲しい。

其れは切なる願いだけれど、単なる我侭に過ぎないのだろうか。


世の中ではある薬が話題になっている。

横領、横流し、転売。

もうそんな言葉は聞き飽きた。

何を持って、何が正解なのか私には解らない。

罪の無いものを、あたかも罪深いものであるかのように報道するマスコミの真意が解らない。

いや、真意など存在しないのだろう。

自我やポリシーというものは、とうにこの世から姿を消してしまったのかも知れない。

姿を消さざるを得なかったのかも知れない。


なんて嘆かわしい事だろう。


プライドや偏見だけは、根強く残っているというのに。



mixiでの日記を書かない代わりに、此処は出来るだけ更新していきたいと思う。

自分の考え、真意を吐き出せる場所は、日に日に限られている。

私という生き物を知っている人の前なら尚更だ。


心から願う。

どうか、偏見や差別のない人達が、少しでも増えていきますようにと。