老婆と烏
作・葉月ラン
老婆の人生のうちで一番の奇妙なことは、ある一匹の烏との出会いだった。
とある町の一角を、老婆は毎日の散歩のコースにしていた。
一日のうちで一番暖かい昼時に、最も人がいない路地裏を、老婆はいつものように歩いていた。
幸か不幸かはわからないが、眩しい日差しは両側に聳え立つビルに遮断され、隙間の路地には最低限の日差ししか入ってこない。もちろん、そんな場所にいる者は、老婆の他には誰もいない。いたとしても、夏に限ってダンボールに身を隠した浮浪者だとか、捨てられたゴミを突く烏だとか、そういうものでしかなかった。だからこの人目につかない場所を、老婆は好んで歩いていたのだ。
話しかけてくる偽善的な若者や、歩いているだけでクラクションを鳴らして追い越し際に舌打ちをしていくような自転車もここにはない。
都会の喧騒に晒されて嫌な思いをするくらいなら、人目に付かない場所で静かに生きたい。
どうせもうすぐ、死ぬのだから。
年と共に曲がってきた腰をあげて、ふと目線の端を見ると、見たことがない烏がじっとこっちを見ているのがわかった。
老婆は、その烏が、他の烏たちはどこか違うことを一瞬で見分けた。何故そんなことがわかったのかは、自分でもよくわからない。
けれど確かに、その烏は初めて会う烏だったのだ。
「なんだい、お前もあたしを馬鹿にしてるのかい」
どうせ誰もいない路地裏で、彼女は独り言のように自嘲気味に呟いた。烏はまだこっちをじっと見つめている。
「皮肉なもんだね、一人ぼっちになった年寄りを、あんたらまで邪魔者扱いする世の中になったのか」
もちろん烏に言葉なんて通じるわけはない。長年生きてきた勘から見ても、その烏は別段襲ってくる様子もなかったので、老婆はそのまま烏を避けて通り過ぎようとした。
その時だった。
“あんたに、伝言があるんだ”
老婆の足が止まった。まさか。そんな馬鹿な、烏が喋るなんて見たこともなけりゃ聞いたこともない。どうせどこかで笑っている若者の悪戯だろう。
「趣味が悪いね、こんな年寄りをからかって面白いかい」
自嘲しながら、どこかにいるであろう悪戯の主にそう言った。返答なんて鼻から期待していないので、老婆は再び歩き出そうと重い腰を上げた。
“天国だの地獄だのって信じる気もないが、あんたに伝言があるんだ”
低い声に、老婆は再び足を止めた。
確かに、はっきりと、烏が喋ったのだ。証拠があるわけじゃない。もしかしたら、烏の足にでもテープレコーダーがつけられているのかもしれない。
いや、でも間違いない。烏が喋ったのだ。
それ以上に―――天国だの地獄だの、と烏は言った。思わず足を止めずにはいられなかった。
「誰からの伝言だって?」
そう口に出さずにはいられなかったのだ。
老婆は烏の目を見つめたまま、本当かどうかもわからない返事を待った。沈黙が、永遠の長さにも感じられた。
“死を待つなんて、思わないで”
全身が凍りついたように動かなくなる。日差しが暑いわけでもないのに、汗が出てくるのがわかる。
“どうせ死ぬなら、死んでも生きてやるよ”
声が、出ない。
“笑って言ってたじゃないか。僕は、ずっと待ってるから、いつまでも、待ってるから、お願いだから、死んでも生きてよ、婆ちゃん”
大きく目を見開いて、烏を見た。その目には確かに、確かに伝言があった。
バサバサっと音がして、狭いビルの隙間から、あっという間に烏は姿を消した。
重い腰を上げて空を見上げる。いつの間にか、老婆の目から沢山の雫が零れ落ちていた。
『悲しいときは泣くんじゃないよ。うれしいときだけ泣きな。』
いつも自分が言っていた言葉を、心の中で思い出す。
ああ、本当に、あの烏は言葉を託されたんだ。
旦那が死んだ時も、娘が死んだ時も、
そして、孫が死んだ時も。
決して泣かなかった老婆の目からは、次から次へと涙が溢れる。
「ありがとうね、ありがとうね、」
“死んでも生きてやるよ”その言葉を、誰かが死ぬたびに忘れていってしまっていた。
老婆はもう一度空を見て、そして歩き出した。
死を待つだけの人間なんて、つまらなくて反吐が出るね。だったらあんたの言ったとおり、辛くても、死んでも生きてやろうじゃないか。
何十年ぶりの涙をハンカチで拭いながら、老婆は一歩一歩確実に踏みしめて歩いた。
天国だの地獄だの、あたしゃ信じないけどさ、
あんたが言うなら信じるよ、ジュンイチ。
あんたが烏に託した言葉は、間違いなく受け取ったよ。
重い足取りで少しずつ歩いていく。
少しだけ、前よりもこの目に広がる世界が、明るさを取り戻したような気がした。