FUxK IN LIFE -4ページ目

FUxK IN LIFE

やわらかく、美しく。



生きているということ、酸素を取り込むという行為は、



なんて難しいことなのだろうか。

11月、思い切り更新が滞っていたのは、ネット環境が一時的になくなっていた為と、右肩を亜脱臼していてキーボードを打てなかったせいだったりする。

怪我の理由は真夜中にコンビニに行こうとして、酔っ払った状態で自転車を運転していたら歩道と車道の段差にタイヤを取られて思いっきり吹っ飛ばされたから。

もう笑うしかない理由なのだけど、利き手が使えないというのはめちゃくちゃストレスが溜まる。

食事するときも眠るときも、常に気を使っていなければいけないので、非常にストレスが溜まって仕方なかった。

未だに簡単なことしか出来ないのだけど、とにかくやりにくい。


まあそれはさておき、何も出来ない間、ひたすらネットでアニメを見ていた。

黒塚と魍魎のハコが面白い。夢枕獏に京極夏彦・・・!魍魎は今までに無い面白さだなあと思う。怖いのでリアルタイムでは見られないのだが、奇怪。

黒塚はとりあえず、OPのマキシマムザホルモンが素晴らしくかっこいい。

唯一楽しみにしている鋼の錬金術師新シリーズも、どうせならホルモンが曲やってくれないかなあ。無理だろうけど、ないかなあ。

黒歴史とも呼ばれることの多い前回の鋼アニメだが、私はアニメ(それもたまたま見に行った劇場版)から何気なく見始めたので、原作よりもアニメの方がカオスで好きだったりする。

夕方やるアニメにしてはちょっとグロいとは思うが、あの黒さがとても好きだった。(納得いかない部分もあるけれどそれはご愛嬌)

鋼兄弟でも大佐でもなく、25話で無念の死を遂げるヒューズ准将がめちゃくちゃ好きだったりする。

見るたびに号泣するのはかなりイタイ子だろうかw


大佐と鷹目の、墓前でのシーンが一番好きかも知れない。

「雨が降ってきたな」「・・・ええ」もうこの数秒で涙腺崩壊してしまう。


何に関しても、いいものはいいと認められる自分でありたいと常々思う。

何度も何度も確認して、その度に死んでしまえたならと思ってしまう。

それを踏み越えていっても、もう開放されることはないのだろうか。それを乗り越えていけば、いつかは、開放されるときが来るのだろうか?


私は父親のことを、心の底から憎んでいる。

何度も実感したくないことなのに、何度も、今日だって、改めて気付かされた。

自分で自分が解からなくなる程にひどく激昂し、悲しみという感情はもう既に費やし尽くしてしまったかのように、怒りと呼べる感情しか、湧き上がらなくなっていた。


怒りを悲しみに置換したくて、どうにか泣ける方法はないものかと探したけれど、涙を流すという感覚が、もうなくなっていた。

それはもう、あの人のことを憎んでいるとしか表現のしようのない感情だったように思う。

このままだと、自分が恐い。私は、あの人と家族で居られる自信がない。自分が何かしてしまうのではないかと思い、とても恐ろしくなった。


私には、死ぬことに対する恐怖や悲しみが希薄になっている。痛みを感じる痛覚も、ずいぶん前から鈍っている。

だから殴るなら、私を殴ればいいのに。あの人はいつも母親にばかり手を挙げる。どんなにそうするように言っても、自分の配偶者に、自分という人間に対し常に三つ指をついて三歩下がって着いて来させるために、そうしているのだ。

何度「それはおかしい」と諭しても、あの人に伝わる言葉などこの世に存在しないのだ。酒を浴びて、アルコールが入っていない時間など、ほとんど無い上に、しらふでいる時間など全くと言えるほどないのだから。

その度に、情けなくてため息が出る。私とは母は毎日のように泣いていたけれど、もうその涙も枯渇してきているようだ。

そして父親が仕事に行った途端に母親はあの人の悪口を言いながら酒を浴び始める。


ああもう、こんなことを書きたくはないのに、どこかに吐き出さなければ自分がどうにかなってしまいそうだ。


もしどうにかなってしまうと感じたら、私は一人でどこかあの人のいないところへ行こう。

弟や妹を守りながら、これからも正気でいられる自信が無い。ダメな姉でごめんね。ダメな娘でごめんね。出来損ないのこころに育ってしまってごめんなさい。

だけどどうしても、私はあの人を、許すことは出来ません。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい。

他人を信じるということ。私にはそれがひどく難しい。


いつだったか、“親のことを他人呼ばわりするな”と、誰かに怒鳴られたことがあった。

私には、どうして自分が怒鳴られなければいけないのか、全くもって理解できなかった。そして、今も。


自分以外の人間は、どんなに近い存在でも、血を分かち合う家族でも、この身体を共有していないということが、私の中での“他人”という認識になる。

心配はする。家族だから。もっとも、家族でなくとも私が大切だと思っている人のことは、誰だって心配する。

だけど、人はいつも一人だから。ひとりぼっちな生き物だから。そう思ってしまうのは、社会の理に反しているのだろうか?私には、わからない。


進む道々で、ひとりで抱えなければいけない問題と、誰かと共有して抱えるべき問題とがあると思うのだが、

私の抱えていて、抱えなければいけない問題は、前者に値すると、一年ほど前から強く思うようになった。

たくさんの人が離れていった。大切に思っていた人たちも、何があっても離れていかないと確信のあった人たちも。

その人たちは、きっと心の奥底では、そうは思ってはいなかったのだろう。何を言っていても、私は心の奥を読み取るなんて芸当は出来ないし、世の中に自分以外の人間が居る限り、それは仕方が無いことなのだろうと思う。私は強くなど無いから・・・それは、いたく悲しいけれど。


私がどんなに頑張っても、誰か一人の人生を、きっと半分も理解など出来ないように、私の問題は、誰かに理解されたいなんて思ってはいけないのだと、気付いた。

たくさんの人たちを失って初めて、気付いた。


そしてそれは、家族にも共通することだった。けれど我慢しなくてはいけない。私が我慢して生きてゆけば、一人の犠牲で済むことなのだと、ずっと言い聞かせている。



諦めることを憶えた。覚悟することを憶えた。みっともなく誰かに縋ることを辞めた。ひとはいつか離れていくものなのだと悟った。無理して元気に振る舞う必要がなくなった。無理して人といることを辞めた。ひとりの時間が好きになった。だけど大嫌いにもなった。自分のことを思いやることを辞めた。気付くとたくさん傷がついていた。自分のことがどうでもよくなった。自分を貶めて生きていることを確認した。笑うことをやめた。心から信じることを辞めた。―――――涙が、出なくなった。自分のことが、世界中で一番嫌いになった。



きれいごとは要らないのだ。きれいな人間じゃない私がきれいごとを頂いても、全く真逆だ。何も心に響かない。何も、言ってくれなくていいのだ。何もしてくれなくても、いいのだ。

私は、―これは自分を卑下したいわけではなく―本当に、“友達”という枠を、自分の中から外さなければいけないのかもしれない。

自分が大切に思えば思うほど、何度も繰り返し、傷ついてゆくものなのだろうから。大切だから、その枠を外さなければいけないのかもしれない。

そうすれば、自分の中ではずっと、せめて私の中では、大切な、かけがえのない友達で居続けられるだろうから。


こういう日記を書くと、どうも自分のことがわからなくなる。

普通に働いて、普通に遊んで、普通に笑って普通に泣いて、ただそれだけなのに。願いはたったそれだけなのになあ。

新しいイヤホンを購入した。

イヤホンというのは、どうしてすぐに壊れてしまうものなのだろう?細い線の中で音楽が伝わってくる事を考えると仕方が無いのかも知れないけど、今年何度目になるだろうか。mp3プレーヤーの色に合わせて、赤いイヤホンを買った。今度こそ、今度こそワイヤーが切れたり片方が聴こえなくなったりしませんように。


何もかもがどうでもいいと思う期間が来て、少しの時間が経った。私はこのままでいいのだろうか。

考えても答えなど出ないことは承知の上で、それでも考えてしまう。人間とはつくづく学習能力がない生き物だと感じさせられる。それとも、私に学習能力がないだけなのか。

何もかもを否定的に捉えてしまい、全てに裏があると思ってしまう。こんな自分が、大嫌いだ。

少しは疑ってかかったほうがいいという思いは勿論あるけれど、私の場合それどころの話ではないような気がする。いつまでも、この時間が続くのだろうか。人を信じる事を忘れたまま、生涯を終えるのだろうか。



怒髪天のライブチケットを引き換えてきた。私に、“勝てなくても負けるな”というコトバを授けてくれたバンド。街に出かけるのが億劫で、何より地下鉄に乗りたくない為、新曲とアルバムも、アマゾンとタワレコで予約購入してしまった。

地下鉄と電車は凶器だと思うのは私だけだろうか?密閉された空間で、見ず知らずの人と密着して同じ穴のムジナと化すことの恐怖。目の前が歪んで、呼吸をする事が恐ろしくなるのだ。誰が吐き出したか解からない二酸化炭素を吸い込んで、声を出す事もしゃがみこむ事も降りる事も出来ず、ただ目的地に着くまで我慢するのみ。そんな空間がひどく嫌いだ。


ああ、いつになったら私は、心から笑えるのだろうか。心から、人を信じられるようになるのだろうか。

こんな鬱屈した感情は、もう、何処かへ葬ってしまいたいのに。