他人を信じるということ。私にはそれがひどく難しい。
いつだったか、“親のことを他人呼ばわりするな”と、誰かに怒鳴られたことがあった。
私には、どうして自分が怒鳴られなければいけないのか、全くもって理解できなかった。そして、今も。
自分以外の人間は、どんなに近い存在でも、血を分かち合う家族でも、この身体を共有していないということが、私の中での“他人”という認識になる。
心配はする。家族だから。もっとも、家族でなくとも私が大切だと思っている人のことは、誰だって心配する。
だけど、人はいつも一人だから。ひとりぼっちな生き物だから。そう思ってしまうのは、社会の理に反しているのだろうか?私には、わからない。
進む道々で、ひとりで抱えなければいけない問題と、誰かと共有して抱えるべき問題とがあると思うのだが、
私の抱えていて、抱えなければいけない問題は、前者に値すると、一年ほど前から強く思うようになった。
たくさんの人が離れていった。大切に思っていた人たちも、何があっても離れていかないと確信のあった人たちも。
その人たちは、きっと心の奥底では、そうは思ってはいなかったのだろう。何を言っていても、私は心の奥を読み取るなんて芸当は出来ないし、世の中に自分以外の人間が居る限り、それは仕方が無いことなのだろうと思う。私は強くなど無いから・・・それは、いたく悲しいけれど。
私がどんなに頑張っても、誰か一人の人生を、きっと半分も理解など出来ないように、私の問題は、誰かに理解されたいなんて思ってはいけないのだと、気付いた。
たくさんの人たちを失って初めて、気付いた。
そしてそれは、家族にも共通することだった。けれど我慢しなくてはいけない。私が我慢して生きてゆけば、一人の犠牲で済むことなのだと、ずっと言い聞かせている。
諦めることを憶えた。覚悟することを憶えた。みっともなく誰かに縋ることを辞めた。ひとはいつか離れていくものなのだと悟った。無理して元気に振る舞う必要がなくなった。無理して人といることを辞めた。ひとりの時間が好きになった。だけど大嫌いにもなった。自分のことを思いやることを辞めた。気付くとたくさん傷がついていた。自分のことがどうでもよくなった。自分を貶めて生きていることを確認した。笑うことをやめた。心から信じることを辞めた。―――――涙が、出なくなった。自分のことが、世界中で一番嫌いになった。
きれいごとは要らないのだ。きれいな人間じゃない私がきれいごとを頂いても、全く真逆だ。何も心に響かない。何も、言ってくれなくていいのだ。何もしてくれなくても、いいのだ。
私は、―これは自分を卑下したいわけではなく―本当に、“友達”という枠を、自分の中から外さなければいけないのかもしれない。
自分が大切に思えば思うほど、何度も繰り返し、傷ついてゆくものなのだろうから。大切だから、その枠を外さなければいけないのかもしれない。
そうすれば、自分の中ではずっと、せめて私の中では、大切な、かけがえのない友達で居続けられるだろうから。
こういう日記を書くと、どうも自分のことがわからなくなる。
普通に働いて、普通に遊んで、普通に笑って普通に泣いて、ただそれだけなのに。願いはたったそれだけなのになあ。