FUxK IN LIFE -3ページ目

FUxK IN LIFE

やわらかく、美しく。



生きているということ、酸素を取り込むという行為は、



なんて難しいことなのだろうか。

ここ二か月程電話料金を支払っていなかった。いよいよ電話が止まりそう、と言うかそろそろブラックリスト入りする危険性があったので、漸く今日、電話をして意図的に止めて貰うように申告した。
解約しようにも、機種代金が高くて解約出来ない。それならまだ持ってた方が安くすむというものだ。
早く仕事探さなくちゃなぁという思いはあるのだが、なんというか身体の都合上、あまり焦っては振り出しに戻るということは身に沁みて何度も体感してきたことなので、あまり勇み足になってしまうのもよくない。
気持ちは勿論焦っているのだけど、気持ちが焦って理性を失うというような心の乱れは今はもうない。
用心深く、もう平気だと過信しないようにしながらも、なんだかんだ言いながら自分が氷河期を抜け出しつつあることはわかる。

早く、忙しくて考える時間ないよー!とか言ってみたいものだ。
普通は逆なんだけど。
全く、好きでやっていたこととは言え学生時代あんなに忙しかった分のツケが回って来た感じだ。
私は人付き合いは苦手ではないし、むしろかなり社交的な方だと自分では思っているのだけれど、そう巧く立ち回れる程に、自分の感情をコントロールすることが出来ないのだ。だからと言って、人に対してキレたり対立したりすることが出来ないのが厄介なところで、むしろ争いやいざこざが大嫌いなのだから質が悪い。
全て自分の身体に異常を来たしてからしか気付くことが出来ないのが私の脆さだ。
私は殆ど人を嫌いにならないが、苦手だと気付いてしまったら最後で、それまで溜まっていたものが一気に思い出されて、もう後の祭りだ。その人の前ではそれまでどおりの会話が出来ても、自分の中での猜疑心は拭えない。
今まで穏便に済まそうと思うあまり、結果的に逃げ続けて生きて来た代償が今に至るのだろうとそう思う。

「俺は俺の事好きな奴だけが大好きで、俺は俺の事嫌いな奴が、当然みんな大嫌いさ」
とは、私の敬愛する怒髪天の歌詞からの引用なのだが、極端な話それが的を獲ていることは言うまでもない。
まあこれは極端な例だけれど。
自分のことを好きでいてくれる人たちのことは、無条件に大好きだ。それだけは言える。

たまには自分の中のことを、こうして話してみるのもいいかもしれない。


因みに止まった携帯は、WILLCOMの方なので通常の携帯は今まで通り電話もメールも出来る。
鳴らない携帯を誰か鳴らしてくれたらいいなあ。なんてね。

吐き気がする程に、「自分のこと」を痛感している。


この恐怖は、何かをしていないと落ち着かないという気持ちは、全部、「人が嫌い」なのではない。

「人に嫌われる事が怖い」だけなのだと。


mixiを辞めてこのブログを始めたときに、いつの間にか自分の中で、勝手に無意識に(ある意味では意識的に)もう弱音は吐かないと、息巻いていたようだ。いたようだ、なんて、只の正当化だ。息巻いていた。ほざいていた。

自分はもう大丈夫だと、勝手に決めて勝手にルールを無視した。様々なルールを。馬鹿の頂点に立てるくらい、自分に呆れる。これが自分でなかったらいっそもう見捨てている。それくらいに。

だけどいつだって、私はどこかに居場所を求めなければ、立っていられないじゃないか。今までだって、これからだって。私の身体がどこに移動しようとも、ここにいようと別の所にいようと、精神的な居場所は、実際の意味でないのだから。だけど誰かに縋ることで、誰かを失ったりするのが何より怖い。だからこうして、間接的に気持ちを吐き出す場所を、精神の拠り所を常に持っておかなければ、自分が壊れてしまうことくらいわかっていた筈なのに。

何が大丈夫だ。何がもう弱音は吐きたくないだ。誰かに嫌われることが執拗に怖くて怖くて怖くてどうしようもないだけじゃないか。大言壮語もいいところだ。だから私はここに惜しみなく弱音を吐き出す。それだって今となってはとんでもなく怖いことだ。ただの小さくて度胸のドの字もないメンヘル女子の戯言だとしか思われないだろうことが。拒絶されることを極端に恐れて、本当は大好きな人達の中から少しずついなくなったほうがいい存在だと自分のことを心から評価している私なんかが、弱音なんかを吐いてしまうことが。

怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い恐い恐い恐い恐い恐いこわいこわいこわい


ひとはひとに忘れ去られたときに、初めて死ぬんだ。


私は、まだ生きていますか?

本当は連絡したかったあなたたちの中で、この奇妙なブログを読んでくれる会ったことのない人の中で、私はまだ、生きて、いますか?



改めて今の現状を把握して、それを分析した時に、その通りなのだと思った。

私は、こうなってしまう要素を、笑ってしまうほど持ち合わせていたのだと。


























矛盾ゆえの、矛盾。

うあーーーーーーーーーーーーー!!!!


叫びたい。

叫びたい。叫びたい。叫びたい。


何かをしていないと胸が張り裂けそうで、いつも何か“すること”を探している。とりあえず、呼吸はしているので生きているようだけれど、本当の意味で生きているかどうかなんてわからない。

年末だというのになんだこの心境。笑ってしまうよ。


気持ちわりぃ。

どうも曖昧だ。


最近の私は、異常な程に夢を見る。

長時間睡眠を摂っているわけでもなんでもないのに、一度の睡眠で、幾つもの夢を見る。それがどんな夢なのか、何を意味するのかと言う事は、別段問題ではなく、むしろ問題点として挙げるのならば、“夢なのか、実際に現実で起こったことなのか、判別が付かない”という事だ。

誰に解明して貰いたいわけでもあるまいが、しかしどうしてそんな現象に陥ってしまうのか、皆目見等が付かないことがこの場合の特質なのだろう。


飲酒しているとはいえ、毎日酒浸りになっているわけではない。精々、多くても2日に1度、500mlの缶ビール又は缶チューハイを1、2本嗜む程度に抑えているし、何か薬を飲んでいるかと言っても、そういうわけではない。どうしてもという時に、あくまでも合法でしかない薬を飲むことはあっても、そういう、そういうことではないのだ。

原因がまるでわからない。それこそが私の恐れていることであって―多少なりとも困っていることでもある。


いつかの日記にも記したのだが、この時期は過去の事象をフラッシュバックして心が波乱に満ちるということがよくある。2年前から見ると、確実にその回数は減っていると断言できることに間違いは無いのだが、そんな最近の―2年前のことだけではなく、言ってしまえば10年近く昔の事まで、鮮明に思い出して、心臓が軋む音が聞こえるような気にすらなるのだ。


ああ、自分はあの頃から、いや―物心付いた幼児の頃から、とても変わっていた。変わっていたという範疇よりも、生まれ付いての変り種だったのではないかとすら、心から思うのだ。

可笑しいだろうか?馬鹿馬鹿しいだろうか。自虐でもないが、そう思われることには慣れている筈なのに、私はとても弱く脆いくせに、気付けばいつだって、どんな時だって、虚勢を張って強い振りをして生きてきたような気がする。気がする以前の問題で―これはきっと事実なのだろう。過ぎ去ってしまった過去に、とやかく言っても何も始まらないことくらいは、どんなに馬鹿でも、承知千万。


何度も家庭のことをここに記したことがあったが、そんなこと自体は、私の感情の吐き出しという行為でしかない。何も解決するわけがないし、ただ自分のやり場の無い気持ちをぶつける場所が、今の私にはここであったということだから。


そういう家庭的な意味を含めた上で、それ以上に、私の今までの行動はとても変だった。

こういう言い方は、今の私を友達だと認識してくれる数少ない友人達とは無縁のもので、今、私と何の関わり合いも持たない人達こそが、私の心的外傷―すなわち、トラウマとなっていることに間違いはないだろう。

そう・・・そこに関して言えば、私はとてもとても、“変り種”と呼ぶ外ない程に滑稽な存在だった。


思えば私は、心の底から根拠もなく人を信用してしまうことで、自分のリスクを、領分を多大に侵していたのだと思うし、逆に今は、心の底から人を信用できないということで、自分にかけるセーブを最小限に留めているような気がするのだ。

それはとても、何も残らない行為だと気付いているのに。その場をやり過ごす事ができれば、自分自身に危機が及ばなければそれでいいと思っている。


恋愛に関しては、それ以上に極端であり、異常だと自分で思う。

昔は―少なくとも、2年前までは、誰かを、情熱的に慕い、尽くすとまではいかないまでも、献身的にひとを愛する事ができた。

けれどどうしてだろう、今となっては、まるで恋愛などまるで無機質な存在に感じてしまうのだ。誰かを愛するということに、決定的で致命的なことだと自分でも思う。己の我が身すら、もうどうでもいいと思えてしまうのは、やっぱり異常なことなのだろう。


とても、恐ろしい。

無干渉になってしまうということは、こんなにも恐ろしいことだったのか。




赤いキャンドルの炎を見つめながら、そんなことを思考する。



「あんたと話してると私が鬱病になるわ。」



そう言われた。


似たような事を言われた事はあったけれど、

それだけは



それだけは言われたくなかった




「あんたといると生きてる意味もわかんなくなる」



そんなことを言われてまで


私は生きる価値ある人間なのだろうか。



この2年、何度も死を選ぼうとしたわたしには、やっぱり何も無い世界が必要なのだろうか。




ねえ、黒さん。


見ているわけが無いけれど、


「死を生きる」って、やっぱりとてもくるしいよ。




生きているだけで誰かをこんな目に、こんなに苦しい病気にさせてしまうのなら、

私が生きることをやめて、誰かを哀しませる方がずっと遥かにマシだろう。




いきているかぎり、これからもわたしは、だれかを、こんなにつらい病気に貶めてしまうのだから。














ひとを不幸にすることを



くりかえしてしまうのだから