大丈夫は自分の中にある*人生を支える意識の法則* -17ページ目
世間はどう感じるのだろう?
一般常識的にはどうなんだろう?
どうするのが普通?
そう感じることってありますか?
言葉は微妙に違いますが、
全部正解を自分の外側に探すこと。
結婚した頃の私はそんなことばかり
考えていました。
当時、ChatGPTみたいに
何でも教えてくれるAIは、
まだいませんでした。
私がよく見ていたのは、Yahoo!知恵袋。
自分と似た悩みを探して、
その回答の中に自分と同じ意見があると
ホッとしていたことを覚えています。
「私、間違ってなかったんだ」って、
そこではじめて思えるんですよね。
そして、夫に対して
「こうするのが普通だから、
あなたはおかしい。普通にして。」
みたいなことを言って、
よく喧嘩になっていました。
家計の管理についてや、
家事の分担、
夫がタバコをどこで吸うか、
などなど。
全くというほど意見が合わなかったんです。
要は価値観の違い。
育ってきた環境も、
見てきたものも違うので当然のこと
ではあるのですが、
私の価値観を受け入れてもらえない
=私を大事にしてもらえない
と感じていたんですよね。
そして、
「大事にしてもらえない私」を感じる
のが怖かったので、
(これメンタルブロックです)
何とかして私の意見や価値観を
受け入れてもらおうとしていたのです。
もちろん、無意識のことですけどね。
でも、夫は私の話を
全然聞いてくれませんでした。
「時間を決めて話せ。会議の常識だ」
なんて言われたりもして、
話し合いにすら応じてくれないことも。
振り返ると、
私は話し合いをしていると思っていました。
でも、相手に伝わるのは言葉よりも
意識なんですよね。
「私のことを大事にしてね。
大事にしているのなら
私の言うとおりにしてね。」
という、動機がマイナスな上、
コントロールの意識だったので
夫からもマイナスが返って
きていたのですよね。
意識の法則で整理すると、
こういうことが起きていたのです。
更に事態をややこしくしていたのは、
私が自分の価値観に対する自信が
持てていなかったこと。
だから、
「私が、こう感じるからこうして欲しい」
と言えずに、
「こうするのが普通だから、
こうして欲しい」
という風になっていたんです。
主語が「私」ではなくて、
世間、一般、みんな、という
見えない誰かになっていたということ。
今ならわかるけど、
それでは伝わらないですよね。
自分がどう感じるか、どうしたいか。
そこには根拠なんて必要ないんです。
まずは自分がどう感じたか、
自分がどうしたいかを大切にして
いいんです。
そこに正解や不正解をつける必要は
ありません。
自分を信じて、
まるっとそのまま受け取ればいいのです。
まずは自分がね。
それができれば、
まっすぐなエネルギーで
相手に伝わる、伝え方ができるように
なります。
そして、
伝わらなくても、分かってもらえなくても
大丈夫な自分になれます。
自分が分かってくれて、
信じてくれていれば大丈夫ってね。
私たち夫婦は、
今も意見や価値観が合わないことは
よくあります。
そんな時、
ついついChat GPTに
「世間一般的には?」なんて聞きそうに
なってしまうのですが(笑)
聞く相手は、自分。
私はどうしたいの?どう感じるの?
って聞いてあげるんです。
そして、自分を主語にして、
「私はこうしたいから」
「私は嫌だから」
って伝えるようにしています。
そしたら、夫の方が
「世間一般的には…」と返してくるという
おもしろいことが起きたりすることも
ありますが、それはそれでいいんです。
わが家の場合は、
リアルタイムでは受け取ってもらえなくて
も、時間差で分かってもらえることが
増えてきました。
自分が自分の味方でいれば、
案外にまわりも自分の味方になってくる
のかもしれませんね。
あなたは自分の気持ちに自信を持てて
いますか?
自分の内側の声を大切にしてあげて
くださいね。
ノースポールかわいく咲いてきました。
蕾もたくさんで楽しみです♪
今日も最後までお読みくださり、
ありがとうございました
少し前のことですが、父の言葉に
衝撃を受けたことがありました。
子供たちの話をしていた時に、
父がこう言ったのです。
/
二人とも同じようにしようと
したらあかんよ。
\
えっ!兄弟は平等にしないといけない
んじゃないの?
私は思わずそう感じました。
私は3人兄弟の一番上で
長女って損だな、とか
妹だけずるい!、弟だけずるい!
と感じた経験がたくさんあったんです。
だから、自分の子供には平等でありたい
と常々感じてきました。
そして、両親だって
本当はそうしたかったんだろうけど
その時々の状況で、
平等にはできない状況があったんだ
と思ってきたのです。
親にしたら仕方なかったこと
だったんだと感じていたんですね。
長女の私にしたら辛かったし、
理不尽に感じたこともあったけど
親は親で3人の子供を育てることに
精一杯だったんだろうな、と思うと
共感はできないけど、
理解はできるという感覚でした。
それが、そもそも
同じようにしようとしていなかった
とは…。
私の想像の上をいってる答えでした。
衝撃を受けたのはココです。
でもね、
それを知ると理不尽に感じていた
不平等さが、実は
親から私への信頼の気持ち
だったんだな、と妙に暖かく受け取る
こともできたんですよね。
私たち3人兄弟の子供の頃のイメージは
真面目で努力家の私
不安定で手のかかる妹
お調子者で自分の好きなことをする弟
という感じでした。
お察しいただけるように、
兄弟の中で一番手がかからないのは
長子であることだけではなく
性質的にも私だったんです。
だからといって子供だった私が
それに納得していたかというと
そんなことはもちろんなくて、
自分は大切にされていない、と
淋しさや、悲しさや、悔しさを感じたり
思春期の頃には納得できず親に
抗議したこともありました。
でも、そうしながらも
私はちゃんと進んできたし
乗り越えてこれたんですよね。
簡単に、ほら大丈夫だったでしょ?
と言われると納得はできませんが
自分で乗り越える力を持っていたと
いうのが事実です。
親が見ていたのはここで、
そんな私に対して
信頼があったから
安心して手を引いて見ていられたんです。
そして、
両親(特に母)が一貫して、
子供に信頼感を持って見守れるタイプか?
というと決してそんなことはないのです。
妹に対しては才能を活かそうと躍起に
なったり、妹の代わりに進路を決めたり、
過干渉な親でした。
弟に対しては末っ子の男の子というのも
あり、両親共にかわいがっていたし
でもどこか頼りなくて助けてあげないと
いけない存在として見ていたようにも
感じます。
この距離感の違いを子供だった私は
「不平等」「不公平」だと捉えていた
のですよね。
それぞれがタイプの違う私たち3人の
子供を両親は、
同じようにしたらあかん
というポリシーのもと育てていた
という視点で見ると、
私との間にあった距離感は
信頼という名の愛でしかない。
妹や弟のような距離感に縮められて
いたら、
私はきっと窮屈に感じていただろうし、
鬱陶しくも感じていただろうとも
冷静に見えてくるのです。
子供の側からだと、
手の掛けられ方=愛情の大きさ
と見えがちですが、
子供一人一人の個性にあった
ちょうどよい距離感があります。
その距離感を見誤ると、
過干渉やネグレクトという極端な距離感
を作ってしまうこともあるでしょう。
そこまででなくても、
子供にとっては心地いい距離感を
逸脱すると、
近すぎても、遠すぎても不快なものであり
そこにお互いが依存心を生みやすく
なると思うのです。
兄弟であっても
中身は全く違う人間ですから、
親との心地いい距離感というのはそれぞれ
違うんですよね。
一人の子でも時期によっても変わって
きますしね。
そこを「同じようにしなければいけない」
と感じるのは、
親にとってもプレッシャーですし、
子供にとっては押し付けとなることも、
あるでしょう。
そこに重きを置くことには、
意味がないことかもしれません。
大切なのは
この子との距離感はいまお互いにとって
心地よいものなのか?
という視点であり
その時々での距離感を調整して
見つけていくことだと思うのです。
/
二人とも同じようにしようと
したらあかんよ
\
という、父の言葉はこういうこと
だったのだと受け取れました。
兄弟を「平等にしなければ」と力が入り
すぎるとかえって子供との距離感を
狂わせてしまうことがあります。
もし、今お子さんとの間に心地よさが
感じられないのであれば、
距離感を見直してみるタイミングかも
しれません。
近すぎても、遠すぎても苦しい。
だからこそ、
「今この子にとっての心地いい距離感は
どこだろう?」
という視点で見ていくといいですね。
あなたの内側の感覚を大切にして
感じてみてくださいね。
今日も最後までお読みくださり
ありがとうございました
昨日のわが家の夕食は、
煮込みハンバーグとポトフとサラダでした。
ハンバーグは煮込んでしまうので、
玉ねぎは粗めのみじん切り。
玉ねぎだけ炒めることもしなくて、
生のまま投入します。
さっぱりした感じに仕上がります
パン粉も切らしていたので、
なしにしました。
適当に丸めて形作って焼いている間に、
ポトフの野菜を切ります。
キャベツをざくざく切っていき
圧力鍋に放り込んでいってると、
ふと感じたんです。
私この作業すごく好きだってね。
料理している時の私の頭の中って、
なぜか過去の出来事が
流れていることが多いのです。
考え事をしている訳でもなく、
勝手に再生されているような
感じです。
だから、
料理しているのに、
意識はここにあらずという、
ちぐはぐな状態だったんです。
もちろん無意識のことですけどね。
それがね、
自分の好きな作業だと気づくと
好きなことをしている今を
ちゃんと感じないともったいないな、
という気持ちが湧いてきたんです。
お留守になっていた自分の意識を
今ここに戻してみました。
包丁でザクザク切る感覚。
特にキャベツの切り心地が好き。
切れた野菜をお鍋に放り込み
まな板がスッキリする感じが好き。
どんどん切って、
どんどん入れていく。
大雑把でも大丈夫な単純作業だけど、
淡々とこなせると
料理のできる人になった
気分になれてしまいます。
楽しい!大好き!を味わいながら
切っていくと、とてもいい気分。
毎日のように、
何気なくやっている料理なのに、
自分の「好き」を感じながらすると
満足度が違います。
料理が好き?と聞かれると、
下味を付けたり、
揚げ物の衣を付けたりする細かい工程
は、面倒で好きではありません。
なので、気持ちに余裕のある時でないと
やる気になれないのです。
献立を考えることすら、
負担に感じることもあります。
それって、
実は、料理が嫌いなのではなく
献立を決めるのことや
細かい作業や手の込んだ調理が
苦手で嫌いなのです。
料理そのものが嫌い、苦手なわけでは
ないのですよね。
そこは一括りにしないほうがいいかも
しれません。
敢えて細分化することで、
「好き」が見つかることがあるから。
私たちの日常って、ほとんどのことが
オートマティックに流れています。
歯を磨く時に
右の奥歯から磨こうとか、
身体を洗う時に、
まず左前腕から洗おうとか、
トイレにいって用を足す時に
外尿道筋を緩めておしっこを出そうとか、
いちいち意識して行動に移さなくても、
歯を磨いたり、身体を洗ったり、
できてしまいますよね。
いちいち意識しないとできないこと
ばかりだと、
1日24時間では、足りなくなってしまう
でしょう。
だから、無意識にオートでできること
も素晴らしいこと。
でも好きなことをしてる時は、
敢えてそのオート機能を外してみるのも
いいかもしれません。
意識を今ココに戻して、
じっくりと好きを感じて、
身体の感覚を感じてみるんです。
アナログで感じてみる。
思った以上に、
心が満たされますよ。
私は、大好きなお寿司を食べる時に
感じることに集中したりします。
振り返ると、いつもは
お寿司屋さんに行っただけで、
満足していたんですよね。
でも、ネタの食感やわさびの抜ける感じ
までしっかり感じてみたら
美味しい、幸せ、が増し増しで受けとれて
心が満たされる、いい時間が過ごせます。
あなたの好きなことは何ですか?
その「好き」をもっと感じてみませんか?
今日も最後までお読みくださり
ありがとうございました

