お立ち寄りいただきありがとうございます♡

いいね、フォロー、コメント、メッセージもありがとうございます。お返事が遅くなりがちですがいつも大切に読ませていただいています♡ 前回は特にこんなことまで書いて大丈夫だろうかと少しビビりながらの投稿だったので皆さんの温かい言葉が身に沁みました。

 

今日の投稿はもちろんユンギのことを書くつもりで書き始めたのですが、例によって関係ない話になっています。でも彼ならこういうのも許してくれる気がしてしまうんですよね…。

 

そんな生ぬるいセンイル記事じゃなくてユンギについての記事が読みたいんだ!という方は、ぜひこちらをご覧ください↓(なっちゃん、筆が止まってる時にプレッシャーかけてごめんね。素敵な提案をありがとう♡)

このブログを書いてるナッツさん、バンタンランドの年パスを買っていいものか私が悩んでいた時に背中を押してくれたあの方です(詳細についてはこちらをMa City:帰る場所)。彼女のユーモアと愛に溢れるブログの魅力について語り始めたら止まらくなってしまうのですが、1点だけ。私は彼女のペイフォワード精神が大好きです。バンタンから受け取った愛をバンタンやアミに返す「ペイバック」だけでなく、それを世界の裏側の誰か、場合によってはBTSの音楽さえ聴くことを許されない環境で生きている誰かに届けようとする「ペイフォワード」。それはきっとBTSが自分たちのことを誇りに思えるARMYの姿だと思うし、私もARMYでいることを誇りに思わせてもらってます!なんて言って、また真面目腐った物言いしかできない私ですが、彼女のお部屋をノックしていただければ、笑っているうちにいつの間にかペイフォワードの波に乗せられてしまう、そんなスムーズライクバターなブログです。

 

ということで、ユンギ以上に彼のファンのことを熱く語ってしまったあとに恐縮ですが

私なりの愛を込めてSUGA DAYを記念して。

 

***

 

国木田独歩の「忘れえぬ人々」という短編がありますよね。高校生の頃に読んだままの記憶が正しければ、主人公は旅の途中、宿で思いがけず意気投合して熱く語り明かす人物がいるのですが、その何年もあとに旅のことを思い出したときに記憶に残っているのは、その人物ではなく、その翌朝?に一言交わしただけの船頭だったというような話だったと思います。

 

最近はプロデューサー色が強いせいか、日頃の口数が少ないせいか、私の中のユンギのイメージはこの船頭です。一言で表すとすれば「名脇役」。このブログでもユンギが書いた楽曲をモチーフにした投稿はいくつかありますが、いずれも完全にBGM化しており、ユンギ自身は登場しないけれど、確実に彩を添えてくれる。時には暗闇を温かい風呂敷に変えて包み込んでくれる感じで。

 

自分の人生の主人公としてしっかり生きなきゃというメッセージが世の中に溢れている中、今私が目標にしていることがあるとすれば、一人でもいいから誰かの人生の一部として記憶に残してもらえるような素敵な脇役になりたいということです。その意味でユンギは私がバンタンメンバーの中で、最も憧れる存在です。

 

そんなユンギ自身にとっての名脇役について語った楽曲。

 

僕の記憶の片隅
その片隅に居座る茶色いピアノ
子供のころの家の片隅
片隅にたたずむ茶色いピアノ

 

その時を覚えている
俺の身長よりずっと大きかった

茶色のピアノ そいつが俺を導いたとき
お前を見上げて 憧れを抱いていた
小さな指で お前を撫でた
「心地いいね、母さん」 最高だ

ただ手が動くままに触れていた鍵盤

あの時はお前の存在の大きさを知らなくて

見つめているだけでもよかったあの頃
 

まだ覚えている 小学生の頃
俺の背がお前よりも 大きくなったあの頃
あんなにも憧れていたお前に振り向かなくなった
白くツヤツヤとした鍵盤には

埃がたまっていって 放置されていたお前の姿
あの時も分かっていなかった お前の意味を

俺がどこにいたって

お前はいつもあの場所にいたから

それなのに
それが最期になるなんて知らなくて

このまま行かないで

ってお前は言う

 

置いて行っても心配しないで

君は自分の力でうまくやれる

君と初めて会った日がよみがえる

いつの間にか大きくなって

僕たちの関係は終わるけど

絶対に謝ったりしないでほしい

どんな形でも また会うことになるから

その時はまた迎え入れてほしい

 

私も幼い頃からピアノを弾いていたので、ユンギが言わんとしているピアノの温かさはとってもよく理解できるのです。長く弾いていなくても、鍵盤に指を乗せれば、懐かしいメロディーが指先でいとも簡単によみがえる不思議。言ってしまえば、何年乗ってなくても乗れる自転車と同じで、単なる小脳記憶なんだけれど、「受け入られた」と錯覚させてくれる温かさがピアノの音色には確かにあるように思います。

 

まだ覚えている すっかり忘れていた
お前にまた向き合ったとき 14歳のころ

ぎこちなさは一瞬で 俺はお前をまた撫でた
長い時間が過ぎていたが

少しも拒否する様子なく
俺を受け入れてくれたお前

お前なしじゃ俺は何者でもない

夜明けを過ぎて2人で

共に迎えた朝
永遠にお前は俺の手を離さないで

俺もお前を離したりはしないから

まだ覚えている 俺の10代最後を
共に燃やしたお前

 そう、一寸先も見えなかったあの時
泣いて笑って
お前と一緒だったからその瞬間さえ思い出になった
粉々になった肩を握りしめて言った

「俺もうこれ以上はできそうにない」って
諦めたいと思うたびに
そばでお前は言ったんだ
「お前は絶対にやれる」って
そう、その時のことを覚えてる
疲れて彷徨い
絶望の深い沼に溺れていたあの頃
俺がお前を押しのけて
お前に出会ったことを恨んでも
お前は屈せずに俺のそばにいた

何も言わずに
だからお前は俺の手を放さないでくれ
俺もお前のことは離さない
俺の生まれたときも果てるときも
そのすべてを見守るのがお前だから

 

でもユンギの誕生日を知ったときに、私は真っ先に思い出す別の人物がいました。木藤亜也さん。3月9日は彼女には何の縁もゆかりもない日にちだと思うのですが、脊髄小脳変性症を抱える彼女のことを描いたドラマ「1リットルの涙」の挿入歌がレミオロメンの「3月9日」だったことを覚えていらっしゃる方は多いのではないでしょうか。

 

私はそのドラマ放映後、何年か経ったあとだったと思うのですが、大学受験が終わってすぐにDVDを借りて夢中になって観ました。毎エピソード号泣するほど心を動かされた私は、原作となった亜也さんの日記を手にしたのですが、ドラマ化に際して加えられた甘酸っぱい恋愛要素がまったく登場しない彼女の日記に刻み込まれたあまりもの孤独に現実の厳しさを突きつけられ、衝撃を受けたのを覚えています。

 

私が医学部に編入するのはその5年後であり、神経内科を志すのはさらに何年も経ってからなのですが、でも思えば、私の心は、その本を手にしたときから、この道を目指していたのかもしれません。この度久しぶりに読んだ日記の一部を抜粋します(選びきれず長くなってしまってすみません)

 

16歳ー 東高から養護学校へ

 

運動神経を支配する小脳の細胞が、何ものかによって働きが悪くなってくる病気で、百年くらい前に、初めて報告された病気だという。病気はどうして私を選んだのだろう。

 

時間よ止まれ!涙よ落ちるな!もう午後9時です。世界中の時計を壊してしまっても、時は進んでいくでしょう。生きている限り、時間は止められない。諦めるより仕方ないのです。

 

知らぬ間に、家から見える稲荷山の桜の葉もほとんど散ってしまいました。そういえば、学校の銀杏も紅葉していたっけ!友達の肩や、廊下の壁につかまって歩く私は、上を向くと転ぶのです。

 

大きなハエが窓のところで、ブーンブーン飛んでいます。冬のハエは殺さんといかんのです。けど、夏になったらいっぱい赤ちゃんが生まれるんだと思ったら「生」の神秘を感じて、殺せなかった。

 

生物部にネズミが大好きな三編みの女の子がいます。その子と一緒に図書館まで歩いたのよ。補助してもらわなくても一人で歩けた!ゆっくりだけど、彼女は歩調を合わせてくれた。私は彼女について何も知らない。先生や先輩に聞けばわかるけど、私は彼女の話の中から彼女を知りたい。だから、聞こうとも思わない。

 

彼女とまた話ができた。<中略>「ボク(彼女は女の子なのにそういうのです)は、人が死ぬと、ああ自分が死ぬ代わりに死んでくれたんだと思うことにしているの。キミは足が悪い。だからその分、ボクはまじめに生きなきゃいけないと思うの」<中略>彼女も私も来年は東高にいない。

 

映画「野のユリ」をテレビで見る。神の存在を私は信じる。神は私をお試しになっているのだ、と思ったら、急に心が晴れ晴れした。この気持ちを何とか忘れずにいたい。

 

養護学校のことを考えるとこわいんです。確かに身障者の私にとっては、最適なところかもしれません。でも私は東高にいたいんです。みんなと一緒に勉強したいんです。いろんなことを学んででっかい人間になりたいんです。健康な同級生が周りからいなくなる世界なんて考えたくないんです。

 

「あれからお母さんなんか話した?」だって。まったくしらじらしい。先生はなぜ直接、私と話して下さらなかったのですか。<中略>もし、そうして下さっていれば二年生から転校しますと素直に言えたのに。四月から嫌でも養護学校に行くつもりでいたのに。最後は潔く討ち死にするつもりでいたのに。それもできず、このまま悔しい気持ちで去るのは何が何でも悔しい。

 

千羽鶴を折って私の幸せを願ってくれるのはうれしい。でも「亜也ちゃん行かないで」と言ってほしかった。そういわれるように今まで努力しなかった自分と、言ってくれなかった友が憎たらしくてたまらない。

 

(家族と買い物に行ったら)きれいなスカートがあった。はいてみたい。いつも這うので、膝が痛いためズボンばかりの私の憧れだ。勇気を出して指さしました。「一枚あってもいいね。だんだん暖かくなるもんね」と母は買ってくれた。すごく嬉しかった。花柄のプリント地のスカートに、白いレースのブラウスを着てスーッと立ったら、みんな可愛いねって言ってくれるかしら。一度でいいから、そういわれてみたい。

 

T君が「車いすに乗れるっていいね」という。もう藁人形じゃ、呪ってやろう!よほど「あんたは歩けるでいいじゃん」と言ってやろうと思ったけど、きれいな虹を汚すようで言えなかった。

 

人間が人間らしく、かつ人間的にものが考えられるのは、歩いている時であると思う。社長さんは机の前を行ったりきたりして「どうしたらもうかるのかを考える。だから、恋人同士も歩きながら将来を語り合うのかな?

 

17歳ー 養護学校での生活

 

17歳になった。これから何年闘ったら、神様は許して下さるか。私は母と同じ年の自分を考えることができない。不安だ。でも生きていたい。

 

前は急ごうと意識すれば、急ぐことができた。今は急ごうと意識しても、急げない。そして、将来は、急ごうという意識さえなくなるのではないか。神よ!なぜ私にこの苦しみを与えたもうたか。いや、人は皆苦しいのかもしれない。でも、なぜ、自分だけが惨めになるのか。

 

小学生のころは医者になろうと思った。中学生時代は福祉大学へ行こうと考え、東高のころは文学系へ進めたらいいと、ころころ変わったけど、人のために役立つ仕事がしたい気持ちは一貫していた。今は目標が定まらない。でも卒業したら、動けない子の食事の世話くらいできないかな。手を握って人の温かさをわからせてやりたい。少しでも役に立つことはできんかしら。

 

書初めの練習をした。今年は細筆を新しくおろして、墨をすってみた。お手本なしの習字は難しい。お手本なしの人生はなお一層難しい。本番は「素直」と書いた。

 

箸がうまく使えない。だから食べ方も自然と工夫され、わたし流の食べ方が身についてしまった。<中略>飲み込むのも注意が必要。よくむせるからタイミングよく口に運び、リズムに合わせて口を動かし、息を止めて、ドクンとする。<中略>ずっと前に読んだけど、障害者同士が見合いをするのに、一番初めにすることは、自分の悪いところをさらけ出すことだそうだ。わたしの食べ方もそのことといっしょだろうか。

 

将来が不安だなあ、人生に、いつの間にか背を向けてしまっている。あの希望はどうした!将来何になるかなんて、真剣に考えられなくなっちゃった。なるようになるだろう、運命という名の波に押し流されてしまった。私にはどんな職業が残されているかさえ分からない。母は「あと1年あるから」と言う。私は「もう1年しかない」と思う。この違いは、もう縮める術を知らない。

 

痰がのどに詰まって死にそうになった。腹圧がかからんし肺活量も少なく、どうしても痰が切れなくて苦しかった。きっと、私は些細なことで死ぬのだろうと予感した。

 

お風呂で、体の重心がとれなくてブクブク沈んでしまった。不思議と死ぬという気はしなかった。でも透明な世界を見た。天国ってあんなんだろうな。

 

胸に手をあててみる。ドキドキ音がする。心臓が動いている。嬉しいな。私は生きている。

 

18歳ー 養護学校卒業→入院

 

脳波の部屋で目の検査をした。先生の足も不自由だった。私もどこか一か所でも健全であったなら働けるのにな。「クリーム、どうしてぬるの?」と聞いたら「検査するんでね」と的外れな返事が返ってきた。身体障害と言語障害があると、馬鹿に見えるのかしら。

 

(卒業に際して)この2年間、障害を認めよ、そこから出発せよ、と教えられ、悩みながら、闘いながら生きてきました。<中略>たとえどんな小さな弱い力であっても、喜んで与えたかった。お世話になった、せめてもの恩返しにしたかった。私が世の中に貢献できることは、死んだあと、医学の進歩のために体を提供して、腎臓、角膜、使えるところはみんなバラバラにしてもらって、病んでいる人のためにあげることぐらいしかないのか。

 

(入院に際して)今日の涙は嬉し涙。「先生ありがとう。私を見捨てないでいてくれて。2回も入院して新薬を使ったのに、なかなか回復しないから先生があきらめてしまわないだろうかと心配でたまりませんでした」言葉にならず、涙でくしゃくしゃの顔で大きくうなずいた。母は背を向けて肩を震わしていた。

 

頭の中に描く自分の姿は健康だったころの普通の女の子。姿見に映った自分は美しくなかった。背骨が曲がっていて上半身が傾いている。できなかったことが厳しいリハビリでできるようになった、という事実が一つでもほしい。

 

今日もトイレで転び、頭をひどくぶちました。<中略>車いすに乗り廊下の公衆電話まで行く。家に電話したら母が出た。「亜也、日曜日が待ち遠しいね。あと3日だけよ、ほしいものは?洗濯はしてあげる。雷は鳴ってる?」「ふん、鳴っとるよ」 もう、死んでもいいと思った。

 

19歳ー 在宅療養

 

家庭のぬくもりの中で、愛されていると感じる。でも、私は、みんなを愛していると表現できない。言葉を話せないし、それを表す行動ができないから。にこにこ笑って愛に答えるだけが精一杯!早寝早起きをしましょう。ハミガキも手早く、食事にも遅れないように、訓練も毎日きちんとしましょう。そして愛に答える努力をしましょう。

 

いつの間にかセミが鳴かなくなって鈴虫にバトンタッチした。朝夕冷え込みます。そして体力も気力も衰えていくような気がしてならない。生きていていいのか。お前がいなくなっても何一つ残りはしない。愛、それだけにすがって生きている自分の何と悲しいことよ。お母さん、私のような醜いものが、この世に生きていてもよいのでしょうか。

 

母から受ける愛は、自分の中で消化され、人に対する愛に変わっていくものであると思う。小鳥にピーナッツをあげたら、喜んで食べた。さて籠をきれいにしてやろうと入口の金網を開けた途端、飛び出して外に飛んで行ってしまった。生きてゆけないことを知らないから、こわい敵がいることを知らないから、出てゆけたのだ。それがわかったら、帰っておいでよ。

 

我慢すれば済むことでしょうか。1年前は立っていたのです。話もできたし、笑うこともできたのです。それなのに、歯ぎしりしても、まゆをしかめて踏ん張っても、もう歩けないのです。涙をこらえて「お母さん、もう歩けない。ものにつかまっても、立つことができなくなりました」と紙に書いて、戸を少し開けて渡した。

 

後ろに人の気配がする。止まって振り向くと母が這っていた。何も言わずに、床にポタポタ涙を落して。抑えていた感情がいっきに吹き出し、大声で泣いた。「亜也、悲しいけどがんばろうね。お母さんがついてるからね。さあ、お尻が冷えるから部屋へ行こう。亜也をおんぶする力ぐらいあるから、地震が来たって火事になったって、一番に助けてあげるから心配しないで安心して寝なさい」

 

死ねないからしょうがないので息をして生きています。

 

生きてゆこうよ 青空を思いっきり吸い込んでみたい

 

目標がない毎日はとてもつらいんだ。いつまで続くのか、この生活が。お母さん苦しいよ、助けてくれえ。

 

入浴も一人では危ないからと母か妹がショートパンツをはいて一緒に入ってくれるようになった。アコちゃんが背中を洗ってくれる。右手が上がらなくなってしまった。肩の関節が固まってしまったようだ。

 

恐ろしいほど文字を書かない日が続いている。もうダメかもしれない。

 

20歳ー 再度入院

 

今度こそはもうダメかもしれない。体力も気力もない。考える力もないから、闘うなんてとてもできそうもない。病気に負けたくないけど、病魔が強すぎる。

 

泣き顔が定着しつつある。いかん。

 

言っている言葉がなかなか通じなくて癇癪をおこして泣く。わかってもらえんのは自分が悪いんだから起こることはない。おばあちゃん、ごめんね。

 

よい天気 立ちたい 話がしたい

 

ナ行、ダ行がはっきりしない。カ、サ、タ、ハ行も言いにくい。言える言葉がいくつ残っているだろう。

 

おばあちゃんの手にヒビ割れができた。とても痛そうだ。夜の失敗のために、おむつを洗ってばかりいるからだ。ごめんね。

 

ボタンかけの練習を必死でやる。リハビリで、寝返りや膝立ちの練習も必死でやる。

 

体が衰弱すると生理もなくなってしまうことを知った。6ヶ月ぶりによみがえった女性としてのしるしは、体の回復のきざしと思った。

 

病室からいま見る青い空 我に一筋の 希望を与えん

 

桜舞う | 植物 > 桜 | GANREF

 

病魔に何度も身体を奪われ、ついに愛する家族の手を握れなくなっても、それでも彼女が握って離さなかった自身の心。それが滲み出ている文章の数々。ペンを握れなくなったあとも、彼女は25歳で亡くなるまで、文字盤を使って自分の思いを伝えていたようです。

 

そしてこの本編のあとに、主治医だった山本廣子先生の文章が添えられているのですが、そこに19歳の亜也さんが「先生、私、結婚できますか」と尋ねた時のことが書かれています。山本先生は「できない」と反射的に答えたとのことで、驚きと動揺を隠さなかった亜也さんに対して「結婚するには亜也ちゃんの病気をわかってくれて、それでもという相手が必要でしょ」と返事をしたときの心の内について、生半可な返事で幻想を抱かせたくなかったと解説しています。

 

でも同時に、病気で手一杯の彼女が結婚のことを考えているなんて想像もつかず、不意打ちをくらったとも書いています。このことが、同じ女性として、医師として、私には悲しくなるほど不思議でならず、「できない」と言い切る前に、「亜也ちゃんはどう思う?」「亜也ちゃんは今好きな人がいるのかな」となぜ聞かなかったのだろうと思ってしまったのです。それは私自身が未婚で、身体障害の有無に関係なく中々結婚に縁がない場合があることを知っているからかもしれないけれど。

 

興味深いことに、このエピソードは亜也さんの日記には登場しません。主治医との関係を維持するために編集過程でカットされたからなのか(日記は生前に出版されています)、あるいは、そもそも先生の断定的な言葉に打ちのめされた思いを本人が文字に起こすことができなかったからなのか。亜也さんもお母様も山本先生に全幅の信頼を寄せていたのは、日記の文面から明らかで、亜也さんにとっての彼女が、ユンギにとってのピアノのような存在であったことが伝わってくるだけに、私は先生の言葉を残酷に感じてしまったのかもしれません。

 

最初から恋をしないより、恋に破れる方がいいと考えるのは無責任なのか。夢を捨てきれない19歳を前に、最初から夢を抱かないより、思いっきり夢に破れる方がいいと考えることは許されないのか。

 

そんな疑問に対して、最初から生まれてこないよりは、傷つきながらも一生懸命に生きることに意味があると教えてくれる亜也さんの日記。

 

それは私自身にとっての、ユンギのピアノのようなものなのかもしれません。

 

新たな世界の入口に立ち

気づいたことは 1人じゃないってこと

 

瞳を閉じれば あなたが

まぶたのうらに いることで

どれほど強くなれたでしょう

あなたにとって私も そうでありたい

 

僕の記憶の片隅
その片隅に居座る茶色いピアノ
子供のころの家の片隅
片隅にたたずむ茶色いピアノ

 

 

最後までお付き合いくださってありがとうございました♡

 

♥たくさん読まされたけど、やっぱりユンギ自身について触れた記事が読みたいという方はこちらを。FIRE:ユンギが許したもの

♥ユンギの曲から考えるBTSと資本主義とその他もろもろについて読みたいという方はこちらを。Strange:消費の先に残るもの

♥ユンギの曲から思いを馳せるグクテテについて読みたいという方はこちらを。Stay Alive:白夜を行く

♥ユンギの曲をBGMにした誰かの日常について読みたいという方はこちらを。So Far Away:あの日の夢の向こう People:すれ違う人

この他にもユンギはちょくちょく登場していると思います。名脇役なので♡