皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

今日は私の24回目のバプテスマ記念日です。そして同時に私がエホバに出会ってからちょうど40年目に当たります。エホバに出会うって勿論本当は細胞のとき?からなのですが、ちょうど40年前のこの日に私は引越しのご挨拶でエホバの証人の家を訪ねたのでした。私は今までエホバに出会う=エホバの証人に出会った時という風に考えていたのですけれど私の場合、本当は違うことに気づきました。エホバの証人に会ったからその人を通じてエホバに会えたのではありません。挨拶に伺ったお家がちょうど書籍研究の最中だったのです。私は図らずもこの日「エホバの家」に行ったのです。当時の私もこれまでの私も全然思いもしませんでしたけれど、きっとその時エホバとイエスと天使たちは「よく来たね、待ってたよ~」と歓迎してくださっていたことにやっと気がつくことができて、胸がとても熱くなりました。

 

 

 

エホバは本当に愛情深くて優しい神なのです。私は気づくのがとても遅かったのですけれども、でもついに気づくことができました。感謝の気持ちで一杯です。私はこれまで有形無形いろいろなものを捨てて歩んできました。エホバは私のそのがんばりにいつも応えてくださっていたのです。それを理解できたことが本当に嬉しいのです。生きているうちにそれが判って、本当に本当によかった!です。

 

 

 

 

 

 

私たちは日々エホバに感謝の祈りをします。でもエホバは私たちが感謝する回数より遥かに多く私たちに毎日『ありがとう』と言ってくださっているのです。そのことに気づけたことも嬉しいです。

 

 

(それから)”終わり”が来ます、の終わりも「悪の終わり」が来るだけのことです。だから私はすごくリラックスして楽しみにできます。これもとても嬉しいことです。

 

 

エホバは大患難のときに立ち返る人たちも救おうとされています。そのこともとても嬉しいです。そしたら最後のときにだけがんばれば良いのでは?というご意見もあるかもしれません。でも私の幸せはエホバと共にあることなので、今このときに一緒にいられることがすごく幸せなのです。本当の神さまの愛情を知ることができた喜びは何にも代えがたいのです。

 

 

私の大好きな136番の歌、ルツ2:12に基づく「十分に報いて」は、言い換えると実は「最高の報酬を与えて」です(スタディー版聖書より)愛の神エホバはご自分に近づいて留まる人たちに必ずその人にとっての最高の報酬をくださいます。エシュルンは天のお父さまのそばにいて、お父さまの目にかなう立派なレディ(娘)になりたい!です。それが私にとっての最高の報酬なのです(^-^)♪

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

忍耐・辛抱・待つ、というワード聞くとよっしゃ!がんばる(^O^)/というよりも、つらいよ~(>_<)早く終わって~というような気持ちになったりしませんか?少なくとも私はそういうことがままあります。そのようなわけ?で今回は自分のための個人研究記録です。

 

 

ヨセフは無実の罪だったにもかかわらず、長い長い間、獄中生活を送っていました。ヨセフの一番の望みは自由になることであって、牢獄の長から気に入られることではありません。それでもエホバはそのままの状態を許されました。そんな折、ヨセフは献酌人と料理人の長の夢の解き明かしをします。ヨセフはエホバの聖なる力が確かに自分にあることを感じていたはずです。献酌人の長に自分のことをファラオに伝えてもらうよう頼んだときヨセフの心に希望の光が強く煌めいたのではないでしょうか。でもそれは失望に終わりました。それから2年間全く音沙汰がなかったのです。彼の気持ちを考えるならそれまでの日々よりもずっと耐え難い期間だったことでしょう。

 

 

 

①ヨセフの気持ち

 

解き明かしをエホバから与えられたのに、全く何も変わらない日々を過ごしながら、ヨセフはどんなふうにがっかりした気持ちになったのでしょう?

 

「すごく凹む・・・。」

「エホバはなんでこんなことを許されるのだろう・・・。」

「期待させておいて、失望させるなんでひどい!いじわる??(←邪推です)」

 

ヨセフは私ほど性格は悪くない(^▽^;)でしょうから、もっとソフトな表現で考えたかもしれませんが・・私だったら文句の口撃言いまくりです、きっと。

 

 

 

②なぜエホバから離れなかったのか

 

絶望的と思えるような状況でもどうしてヨセフは自暴自棄になったり、エホバを信頼するのを止めなかったのでしょうか?

 

推測ですが、ヨセフはエホバに向かってそれこそ涙と慟哭をもって切に訴えたこともあったでしょう。でもたくさん凹んでからこのように考えた可能性があります。

 

「この耐え難い辛さには何か意味があるのではないだろうか?」

「解き明かしを経験したことには何か理由があるのではないだろうか?」

 

その後「そしたら待とうエホバを、エホバの答えを待とう。」となり「エホバは悪いままにはしておかれない、必ず助けてくださる」という風に確信に変わっていったのかな~と思います。

 

さらに今までの大変なときにエホバがどのように自分を支えて助けてきてくださったのかを深く深く思い巡らしたことでしょう。エホバが許す試練もあるけれど、決して自分には許していない災いもある、ということを再認識して、エホバが確かに自分を守ってくださっていることを確信できたと思われます。

 

こうしてヨセフは解き明かしをしたときのヨセフよりももっと芯の強いヨセフに成長していったのだと思います。

 

 

 

③彼の強さを学ぶ

 

この時点においてヨセフはとても謙遜な人です。家族から離されてたった一人異国の地においてもエホバとの強い絆を育んできていました。だからこそヨセフはエホバを信頼し続けることができましたし、くじけるのではなく忍耐しようと決意しました。

 

ヨセフについては「人の過ちを許す」とか「寛大で親切で同情心がたくさん(間違いなく他の奴隷や囚人たちに対して)」とかたくさん学べる点があります。今回は特に「忍耐力」について学べました。ヨセフは試練が自分を強くさせることを彼は知っていました。何度も経験してきたからです。でも時には大きなダメージで疲れてしまうことも知っていました。両方を知っているからこそ、彼はより謙遜になってエホバとの絆を強めることを主軸に生活を送ったのではないでしょうか。

 

また一番の望み(自由になること)がまだ先のことだとしても、もう少し小さな祝福に深く感謝していたに違いありません。ポテパルや牢獄の長から目をかけてもらったことなどはその一例です。エホバからの日々の小さなギフトに喜びを抱けるかどうか(こんなものは要らないではなく)が、エホバとの絆の強さに左右する重要な部分ではないかな~と思います。

 

 

 

 

 

 

今日は珍しくBGMを流しながらブログを書きました(いつもは無音です)流れる曲は平原綾香さんのデビュー曲「Jupiter」です。歌詞の中に”愛を学ぶために 孤独があるなら 意味のないことなど 起こりはしない”というフレーズがあります。なるほど~そうだよね~と思います。特にJWならば「エホバの愛を学ぶため」なら尚のこと孤独(あるいは他の試練)には意味があるのだろう、と感じます。

 

 

私ホントに、離れている元JWの皆さんに戻ってきて欲しいのです。エホバ神の本当の愛を知って欲しいのです。会衆の誰か、あるいは親に躓かされるのはめっちゃ辛いというのは私も経験上少しは判るつもりです。それでもエホバの下に帰ってきて欲しいのです。離れていても親を想う気持ち・慕う心、雄大な青い空や白雲、朝焼け夕焼け満天の星に感動できる涙、美味しい食事を味わえる幸福感、動物に癒しを感じる感覚すべては、エホバがあなたをそのように造ったからです。私たちはみ~んなエホバが愛を込めて設計してくださった貴重な宝なのです。

 

 

「太陽は東から昇り西に沈む」ことを誰かが否定したとしても、現実、太陽は東から昇り西に沈みます。あなたが神の組織を否定しているとしても、エホバはこの組織を用いてみんなを救うことを決めておられるのです。だから・・どうか戻ってきてください。会衆内外でのつらい日々の記憶はやがて過去になります。エホバは必ず幸せにすると約束されています。

 

 

本当の意味で身体も心も精神もエホバの下に留まる人たちは生きていることに心から喜べる経験ができます、それも永遠にです。もしあなたが否定していても、エホバはそう決めているので誰も阻むことはできません。半ば強制的に?幸せになります(笑)

 

 

天のお父さまエホバはいつも利他的なことを考えておられ、もしあなたが形式上排斥されているとしてもあなたの本心を、奥底にある気持ちをよ~くご存じです。だから何でもエホバに語りかけてください。心の内を注ぎだしてください。何度も何度でもどうか諦めないでください。あなたが大変に苦しんでいることには意味があります。天の父はあなたの怒りと絶望の底の底に隠されている、本来の優しい心の輝きを全てご存じです。あなたの幸せを、エホバとの絆を持って深めていけることを私は心から願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

最近、自分の祈りでとても嬉しいことがありました。わりとよく愚痴ったり(^▽^;)エホバのせい?にしたり(←こらまて)しがちな私が、辛いことがあっても心からの賛美と感謝も一緒に言えるようになりました。ちょっぴりダビデになれたような気分です。詩編の通読をするうちに彼の気持ちにだんだん寄り添えるようになってきたのかもしれません。

 

 

 

奉仕の仕方もだんだん変わってきました。奉仕の準備って苦手だったのですけれど、進んでしている自分に気づくようになりました。エホバへの感謝の気持ちが深まってきたのかな~と思います。他の人に宣べ伝えることは特権であるということの意味が分かりかけてきています。不完全で間違いもいっぱいしている私が、真に神聖な神の清い言葉を話せる、発言権をいただいているのです。とてもありがたいですし、天のお父さまの優しさ・愛情深さをひしひしと感じるこの頃です。

 

 

 

え?今更何を?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですが私ってこ~んな感じなんですよ(*^▽^*)人から見ればホントにゆっくりなペースで歩んでいるのかもしれませんね。でも確実に判っていることがあります。過去の自分に比べて今の私はずっと謙遜になれています。「謙遜」と言う言葉は短いワードですけれど、命を左右するほどのキーワードなのだと私は思います。謙遜になればなるほど天のお父さまへ感謝の気持ちが泉の水のように湧いてきます。そのエホバは宇宙で一番謙遜な方ですからエホバのお気持ちがより判るようになります。エホバにうんと近づくことができるのですね。そしてエホバは宇宙で幸せな方ですから、エホバに近づけるならずっと幸せになれるのです。まさに良いことしかありません(*^▽^*)

 

 

 

エホバは私たちを深く深く愛してくださっています、それが多少なりとも判ることができるのは本当に幸せです。神のことをもっと知りたいという気持ち、困ったときに神に頼ろうとする気持ち、神をたくさん愛したいという気持ち、これ全部「謙遜」の証なのです。以前の自分と比べて少しずつ謙遜になれてきて判ってきたことですが、本当の謙遜さは単に穏やか&柔らかということではなく、ものすごい「強さ」があるということも理解できるようになってきました。エホバの聖なる力の後押しは本当にすごい!です。エホバ神との絆が強くなればなるほど、聖なる力の導きを感じやすくなります。霊の実【愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・信仰・温和・自制】を豊かに生み出すことができるのです。本当にありがたいと思います。

 

 

 

私はプロフィールにも書いていますが、実は別に楽園で永遠の命が第一!とも思っていないのです(^▽^;)もちろん普通の人?より楽園の想像はできますけれども(笑)でももう実現するのは判っているから結構満足していて(あはは~)なんていうのかな、今のこの世界で自分がエホバとの絆を結べて&深めていけることのほうがずっとうれしいのです。私の命がこの体制で尽きるとするなら、そのときにエホバとの強い絆を持てていれば私はそれで満足で、ぶっちゃけ復活しなくてもいいかな~(^▽^;)とも思っています。←まぁこれはちょっと極端かもしれませんが。でも「神の救い」というのは単に人間が永遠にパラダイスに住めるということではなく(←これは結果であり)完全でなくなって清さから切り離された人間が天の神エホバと絆が(再び)結べるということなのではないかな~と思っています。

 

 

 

人間が神と絆を結べる「鍵」=すなわち「謙遜」なのだと私は思います。謙遜は日々地味に培っていくしかありません。でも全世界の誰もが行なえることです。エホバはそのように人間を設計されています。実のところ結果的には滅びの者となったユダでさえ、謙遜になれる可能性がありました。エホバ神はユダが最初からイエスを裏切るような運命づけはされていません。実際イエスは何度もユダ本人には判る仕方で警告されていました。イエスが警告する理由は人間を愛しているから、そして神との絆が持てる見込みがあると信じているからです。だから私たちはどんな境遇の下に生まれ育っていたとしても、一人一人がそれを乗り越えて神の目に正しい選択をすることができます。そのための助けもエホバ神は用意してくださっています。天のお父さまは私たちが望みさえすれば、必ず謙遜になれる、そして神と強い絆が持てると保証してくださっているのです。ですので皆さん、神の言葉から力をもらってひとりも欠けることなく、約束された平和な地に行きませんか(^-^)♪

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

先月の記事の中で書きました、組織からの「謝罪は無用」という言葉について補足をいたします。↓本記事はこちら。

 

 

 

あるお方がTwitter(X)で他人である私が書いたブログの一部を切り貼りした文章をさらにコピーされて(^▽^;)”勝手に紹介させて頂きます”と表記しておられたのですが・・あの・・この行動、恥ずかしくは感じられないのかな?と正直思うところではあります(私のブログに限らず無断転載のさらに無断転載をされているご様子でしたので)

 

 

それはさておいて。上記の記事を書いた後、私は別の記事で何度か補足っぽい思い←組織に責任を求める必要がない理由・鞭の用い方のこと・当時の1世さんたちの置かれていた状況など、を書いています。気が向かれたらご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

私は理解の調整に関して「組織からの」謝罪は無用と思っています。他にも鞭の使用による児童虐待問題等についても同様です。理解の調整は今まで知らなかった、あるいは理解できていなかったことの理解が「深まった」喜びであり、エホバのお考えにさらに近づけた~良かったね!です。無論、前は違うことを言われてたのに~(>_<)という感情を引きずることは普通にあることでしょうし、ある程度納得させる時間は必要だと思います。

 

 

 

とはいえ、地上の組織はわざと違うことを指示してきたのではありません。どんな時でもエホバのご意思を知ろうとベストを尽くしてきたはずです。エホバはその真剣な努力をご覧になり、組織を構成する人たちが努力に伴った成長ができたときに初めて理解を深めさせてくださいます。なぜならそれが最もベストなタイミングの愛のある方法だからです。エホバはいつも私たちの最も益になるような仕方で行動をしてくださる方です。付け加えると私は自分の感情を整えて理解の調整についていくことは「謙遜さ」を培う訓練としてエホバが教えてくださっているように感じます。次回の記事で書く予定ですが「謙遜さ」は神との強い絆を結ぶのに極めて大事な特質です。私たちが幸せに生きていくため、幸せでい続けるためになくてはならない特質です。

 

 

 

私は組織の謝罪は「無用」と書きました。無用とは無益で必要がない、ということを意味します。つまり組織が謝ることは実は無益・・・といいますかエホバのご意思に反します。なぜなら「組織」は児童虐待を全く容認していませんし、責任転嫁もしていないからです。鞭を主導したと仰る方もいらっしゃるようですが、基本指針ガイドラインを教わって思考力を働かせた人が、どのように自分と家族に当てはめる(当てはめた)のかは各人の責任・家庭個別の問題だと私は思っています。

 

 

 

ずっと以前組織はクリスマスを祝っていた時期がありました。でも理解の調整を経て祝うのを止めました(1927年~)ではそれまで間違って祝っていたことを「組織」として謝罪する必要はあったのでしょうか?それはありません。なぜなら組織は一つの大きな家族(兄弟姉妹って言っていますよね)だからです。これって違うよね~お父さんは喜ばないよね~じゃあ皆で変えていこうか~の流れです。外部の一体誰に謝る必要があるのでしょうか。

 

 

 

「組織」と言うと何だか企業のイメージをする方が多いようですが、神の組織はそれとは異なります。弊社の○○の不手際をお詫びします、というようなことは発生しません。統治体も日本支部も雇い主ではありません。私たちは各々エホバと個人契約を結んだ子どもたちです。家庭内でいじめが起きたとき、謝罪する必要があるのはいじめた子供本人だけです。もしそのいじめに全く関係のない子どもがいじめられた兄弟姉妹に謝ったとしたらおかしくないですか?無益ではありませんか?

 

 

 

親御さんたち(おそらく機能不全家族に育ったのかもしれない)からの配慮の欠けた鞭や教育で酷い目に遭われた方々を本当に気の毒に思っていますが、私からの謝罪は全く意味がないですし、エホバはそれを望まれていません。いじめた&いじめられた人との間で事を正す(お父さんエホバの力を借りて=マタイの原則)ことがエホバの家族のルールです。だから「組織としての謝罪」は無益で不要なのです。

 

 

 

ちなみに当然のことですが、私たち「個人」は組織に属しているいないに関わらず、対人問題の解決を希求し、謙遜に謝って平和を作り出す努力義務があります。って、こういうの普通に判ることだと思うのですが・・?判らないものなのでしょうか??(転載された方のご意見を)ちょっと不思議に思いました。

 

 

 

以前に書いたことですが、聖書に人を許しなさい=怒りや恨みを捨てなさいと書いてあるのは、決してエホバが加害した人の行為を甘くみているわけではなく、「被害を受けた方」がきちんと回復できるようにするためのケアなのです。許す行為は被害を受けた方がその先の人生で本当に幸せになるのに欠かすことができない大切な大切なステップなのです。それは幸福な神エホバご自身がずっとなさってきたことなので、エホバはよ~くご存じなのです。エホバは故意に人を攻撃する人のそばにではなくていつも心の打ち砕かれた人のそばに寄り添っておられます。エホバはあなたを本当に助けたいのです。

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

皆さんはダニエル書はお好きですか?私は大好きです。時に預言の辺りは難しいかもしれないとしても(笑)個人的に私はダニエルと3人の友・ハナニヤ&ミシャエル&アザリヤ推しです(^O^)/はい。ダニエルと言えば10章で「大切な人(エホバ&天使たちにとって)」と想われていてそう呼び掛けられていることに深く感動しますし、エゼキエル書14章で偉業を成したノアやヨブと同列に名前が挙げられている(しかもダニエルは存命中でまだ若い)箇所からも彼の素晴らしい特質が伺えます。エホバにとってダニエルは本当に本当に貴重な存在だったと思います。

 

 

 

ダニエルはバビロンの宮廷に連れて行かれた直後(不本意ながらそこで暮らすことになった)エホバの目に自分を汚さないよう身を守ることを決意します(ダニエル1:8)そして決意に基づいた実行動を取っていくことになりますが、この「心に決めた」という言葉に私はずっと何か特別な引っ掛かりを感じていました。どう表現したら良いのか判りませんけれど、内面を明らかにしているある種の物珍しさを覚えたのです。

 

 

 

この聖句について私はもっと深く知る必要はあると思いますが、でも今の時点で理解できていることもあります。それはこの言葉をエホバが現代の私たちのためにあえて残してくださったということです。エホバはダニエルがどんなことをしたのかだけを記すこともできたはずですが、そのようにはなさいませんでした。ダニエルの行動の源をはっきりと書くことで「神に倣う、神に従う」とはどういうことなのかを教えてくださっています。私的にこれは神との強い絆を築く秘訣だと思っています。

 

 

 

遠く故国から離されたダニエルには、真の神との絆を強められるように霊的にお世話して教育してくれる保護者たちはもういません。見方を変えれば何でも自分で自由に思いのままに決められます。自分の欲求や願い通りに行動しても諫める人はいないのです。そして再び故国に戻れるという可能性は限りなく0でした。この条件下にあってダニエルはバビロンの神々に迎合するのではなくイスラエルの神エホバとの絆を強化し続けることを選んだのです。ダニエルのエホバへの強くて深い愛を感じませんか。

 

 

 

 

 

 

ダニエルたちは王の美食やぶどう酒から自分たちを守るように手立てを講じますが、正直なところ、本当はそれを食べたり飲んだりしたとしても身体への直接の悪影響はなかったかもしれません。現代は律法は廃されてほとんどの物を食べたり飲んだりしても大丈夫だからです。健康に悪影響があるかどうかをダニエルが知っていたのかは定かではありません。でもそれを口にしたら自分が神から見て汚れてしまう、ということはよく理解していました。それで口にすることはしませんでした。

 

 

 

普通の人なら喜ぶはずの王の美食を避けていることは周りから相当浮いている存在となったことでしょう。バビロン世界にどっぷり浸かっている人々から奇異の目にさらされたことは想像に難くありません。でもダニエルと3人の友は周りの人からどう思われようとも自分たちが信じる神のお名前のために行動しました。見えない神との絆を第一にしたのです。

 

 

 

現在私たちは日本という国の風習・文化・法律・宗教世界に住んでいます。この国の常識からすればきっと非常識な行動をしていることでしょう。学校行事のほとんどに関わらなかったり、輸血という治療を選択しなかったり、毎週の集会に出かけたり&伝道したりと日本に住む一般の方々から見れば相当に変わっている人たちです。でもこれが私たちの信じる神エホバが望んでおられることです。献身してエホバの証人になったのは神の望まれることを行なうためです。

 

 

 

皆と同じように国の行事には加わるべき、と他人は言うかもしれません。そして実際そうしたところとて身体に実害はないかもしれません。でもそれは自分とエホバとの絆を弱めます。日本の八百万の神に迎合することは時代は違ってもバビロンの神々に迎合することと同じです。ダニエルはそうすることを「自分を汚すこと」と捉えたのです。そして絶対に自分の身を汚さないと決意していました。

 

 

 

エホバの証人はどのような立場の人の要求よりも神に従うことを選んだ人たちです。神のご意思と人の望みが反するとき、例えば伝道するなと言われても伝道しますし、輸血を受け入れなさい、と言われても受け入れることはしません。エホバのお名前が神聖なものとされる行動をとることを第一としています。これは人を愛さないということではなく人を神よりも少なく愛するということです。ですので周りの方々に敬意を払い、親切で温かくかつ柔順でいることを重んじるよう各自最大限努力しつつも、決して譲れない部分を持っているのです。

 

 

 

私は将来ダニエルに会えたとき、特に「ダニエル1:8」を書いてくれたことに深く感謝したいと思います。神から遠く離れているよその世界で強い決意を抱いて歩んでいくための大きな励ましを受け取ったからです。私もダニエルのように(サタンの圧力・狡猾な企みで)身を汚さないことを心に決めて日々生きていきます。がんばろ~(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

本題に入る前に、たまには自分のことでも書きましょうか(^-^)♪私は親から実際の鞭は受けていませんが、それでももれなくアダルトチャイルドです。これでもだいぶ良くなりましたが非常に自己肯定感を築くのを難しく感じます。生きづら~く感じることもままあります。昔、暫くの間JWなのに聖書がほとんど読めない、ということもあれば、涙が出なくなるほどの感情鈍麻になってしまったときが何年も続きました。さらに見当識障害や統合失調のような幻視幻聴症状が表れたり、一時的ですけれども認知症のような(記憶が砂のようにこぼれ落ちていくけれど自分ではどうにもできず他の人に説明もできない)というような状況にも陥りました。

 

 

 

当時、かろうじて読めていた出版物の一つに1992年5月22号の「アルコール依存症の親のもとで大人になった人のための助け」という記事があります。何度も読んだのを覚えています。これは現在のアダルトチルドレン(チャイルド)と呼ばれる人たちのための先駆けのような記事でした。AC(=アダルトチルドレン)とは「Adult Children of Alcoholics=ACOA」から来ています。もともとは「アルコール依存症の親を持つ家庭に生まれ、現在大人になった人」という意味でした。 今では解釈が拡大されて「機能不全の家庭に生まれ、大人になった人」を指すようになっています。

 

 

 

もう少し若かった頃の私は精神分析(的心理療法)治療を幾年も受けつつ、医学書・心理学書など、それはもう片っ端から読み漁りました。AC分野に関連した本の執筆で有名なS氏やN氏の書籍はもちろんのこと、認知療法での抑うつ克服ガイドで有名なB博士の本はかなり読み込みました。地元図書館から時には国会図書館に取り寄せもして研修医向けの精神医学書とか、本格的な論文集の「精神科治療学」「精神医療」シリーズなどの定期刊行物を読んだり、時には購入したり(←かなり高価)していました。そうした本や実際の医療は知識を増し加えるうえでサポートにはなってくれました。でも私の場合、心の傷を癒すのに何よりもエホバ神との絆を強めたことが最も大きな回復につながったのです。考えてみますとエホバが一番に!人の造りをよ~くご存じですから、当たり前と言えば当たり前なのですけどね(*^▽^*)

 

 

 

ですので私は医学や心理学・それに携わってこられたたくさんの方々の強力な助けに感謝してはいますが、何よりも誰よりも私を支えて助けてくださったエホバ神に最も感謝の気持ちを抱いています。これを前提に本題に入りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

ご両親あるいは片親がJWの家庭に育ったアダルトチルドレンの方がネット界隈にはたくさんいらっしゃいます。辛いだろうな、と日々思っています。理不尽にむち打たれた記憶はずっとトラウマとして残り、その記憶に苦しめられているのだろうと思うと同情を禁じえません。必ず癒されて欲しいと心から願っています。と同時に、私は組織が「懲らしめのむち」を用いることを教えたことを否定しません。これはエホバ神のご意思だと思いますし、事実、組織は「神のご意思を伝える」機関だからです。

 

 

 

では何が問題なのか、と言うならばそれはむちを使ったこと自体が悪いのではなく、むちを用いる教育の仕方と、教育する側の心の動機の2つに問題があったのではないかと思います。むちをされたおかげで良い教育をして貰えたと感じるJW2世さんも確かにいらっしゃるのですから「用いる仕方」について目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

前回のブログ記事の中でも書きましたが、エホバは教える立場の人が本当に子どもの永続する益のために基づいてむちを用いていたのか、利他的な愛だったのかその心をよくご覧になっています。「むち」は矯正とはいえ相手に少なからずの痛みを与えるわけですから、慎重なうえにも慎重を期して、褒める以上に注意深く用いていくもののはずです。誰かに助言を与える時はよく熟考してからというのと同じ、或いはそれ以上の熟考が求められる分野でしょう。子どもに対して毅然とした態度は必要不可欠ですが、当然その用い方は首尾一貫していることや、懲らしめが道理にかなっていて公正で何より子どもがエホバと良い関係を持てるように、ある意味親たちが一時的に子どもに嫌われるという自己犠牲を払ってでも子どもがエホバとの永続的な強い絆を築いてエホバを愛することができるようにサポートしたい!という動機はとても大切ではないでしょうか。

 

 

 

エホバ神も組織もそうですが、神の民に何も考えず盲信で従ってほしいとは願っていません。ちなみに今後「よくわからない指示でもすぐに従う」と言うのはある意味で緊急の時で会衆・羊全体が行なう行動です。そしてその指示が出される前に私たちは心からの深い愛情と敬意と信頼を神と組織に抱いている必要があります(当然のことですが組織の指示はすべてが聖書の原則を踏み越えるものではありません)

子どもの教育について与えられた指針は各々の家庭ごとに、家庭の状況に応じて適用していくものであって、単に一律どんな子どもにもむちを使えば良い、というものではありません。ですが私たちは国民性もあって「とりあえずお上には従っておくのが無難」という精神が江戸時代くらいから結構受け継がれている?のではないかな~と思います。同調圧力もよくありますしね。海外ですとその辺はまた異なるのかもしれませんが、いずれにしてもしそういう精神のままで上辺だけで表面的に組織に従っておられた(=つまり、これさえしておけば安泰大丈夫!な程度くらいの)後に齟齬が生じてもおかしくないでしょう。それは当事者双方ともとても気の毒なことです。

 

 

 

これも前回のブログに書いたことですが(許す、許さないはともかく)最初に聖書を学んだ1世の親たちはそれまで何世代も渡ってサタンからの悪影響を受け続けてきた人たちの末孫です。1世が真理を学んですぐに完璧になってキリストの丈に達することができる、というのは現実的な見方ではありません。日本の風土がキリスト教と合わないと言われるのであれば尚のことです。・・・ですので、サタンの世に漬けられてきた1世の方々もその親の悪影響をまともに受けられた2世の方々も広義的には被害者だと私は感じています。

 

 

 

 

 

 

私も含めて皆さんは様々な理不尽さを人生のうちに味わってきました。それを残りの数十年でもし修復出来たら(としたら)満足のうちに死ねますか?実のところエホバ神は誰よりも満足しません。なぜなら私たちの受けてきた理不尽な経験のほとんどは私たちの最初の二親(+サタン)に端を発しているからです。私たちのせいではないことをエホバ神はよ~くよ~くご存じなのです。エホバはそんな状況に置かれてしまった私たちを深く同情してくださっています。それでエホバは贖いの犠牲という別の理不尽さ?を持って解決してくださいました。

 

 

 

皆さんは誰かの失敗の悪影響を道づれで受けるのって嫌ではありませんか?アダムとエバはこの最たる出来事です。彼らが失敗したから、私たちは様々なことに苦しめられているのです。理にかなわないことが起きているのです。

でも誰かの成功の良い影響を道づれで受けるのはどうでしょうか?感情的には良かった~ラッキー♪と思うかもしれません。でもこれもホントは理にかなわないことですよね。エホバに従うことにおいて完璧に成功できたのはイエスだけです。でもほかの人もイエスの成功の恩恵を受けられるのです。

 

 

 

無論エホバ神はルールを全部変えてしまうこともできます。その権利もお持ちです。ですがエホバは首尾一貫して聖書の原則にご自身を合わせてくださっているのです。そのおかげで私たちはエホバは変わらない方だ、エホバはこういう方だ、といつでも思えて言えて安心することができるのです。これって超!感謝ですよね(*^▽^*)♪

 

 

 

 

 

 

私たちが、私がバプテスマを受けたいと思ったのは少なくとも神の基準に従いたいと思ったからです。最近学べましたが、エホバに献身するということはこれからの人生すべて、エホバだけを崇拝することを決意し、どんなときも神を第一に、自分のことよりも優って愛し、エホバの望まれることを行ない、嫌われることを憎み続ける、ということを神に誓約することです。皆さんはきっとこんな気持ちを抱いたからこそ、バプテスマをお受けになったのではありませんか?そしてエホバはその誓約に対して揺るぎない愛を以って応えてくださいます。エホバも責任を果たされます。

 

 

 

エホバはイエスの変ぼうの幻のとき、イエスの弟子たちに「彼(イエス)の言うこと聞きなさい」とお命じになりました。そのイエスは私たちに適宜霊的な食物を与えるため「忠実で思慮深い奴隷」を神の民の上に任命しています。そうであるなら組織の指示に従うのはエホバが望まれていることではありませんか。組織が本当にエホバに従っているのかどうか、熟考すれば必ず判るはずです。

 

 

 

仮にもし、組織がエホバに従っていない、と思われるのでしたら、サウル王に対してダビデがどのように接したかをぜひ思い出してください。それがエホバ神の望まれていることです。

 

 

神の望まれることを行なってきたダビデはソロモンにこんな忠告を与えました。

 

 

「あなたが神を探し求めるなら、神を見つけられるが、

神を捨てるなら、神からいつまでも退けられる。」

 

 

人によってはもしかすると、自分からエホバ神を組織を捨ててやった!と思っているかもしれません。ですが実際には神から退けられているのです。

それでも・・・エホバは筆者ヤコブを通してこうも言っておられます。

「神に近づいてください。そうすれば神は近づいてくださいます。」

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

基本私はTwitter(X)にはブログの更新記録しか呟きません(別アカウントは除く)でも最近事情があって長文を入れました。Twitterの文章は後に消去するかもしれないのでとりあえずこちらにも転記をしておきます(微修正有)

 

 

↓↓↓ ここから ↓↓↓

 

 

どなたか?私のブログの一部をコピペ(切り貼りですね)しておられるのかな?

一部分だと例えを書いた真意が歪んで汲まれてしまうので

こちらに思いを記しておきますね。↓

 

 

親御さんにトラウマになるような躾をされたこと、大変気の毒に思っています。

正直私はアダルトチルドレンになってしまわれたjw2世(元・現問わず)さん方は「jw」としては育てられていないと思います。親から虐待を受けながらも生き延びられたサバイバーさんです。今も尚生きづらいのは当然のことと推察します。

 

 

おそらく受け入れ難く思われるかと存じますが、エホバ神は深く同情しています。

本来ならエホバ神が愛の神であることを最もよく教えて貰える立場だったはずなのに間違った教育のせいで最も遠くに引き離され(エホバを嫌いにさせられて)しまったからです。回復は決して容易くない、そう思います。 

 

 

と同時に1世の親御さんもまた気の毒に思います。聖書の言葉を心に置いて古い人格を脱ぎ捨てることができなかった(できてない)からです。聖書の教えに基づいて躾をしているつもりがエホバから子供を遠ざけてしまいました。地上におられたイエスは自分に幼子たちが近づこうとするのを弟子たちが止めたとき憤られました(マルコ10:13-14)おそらくエホバはこのときのイエスと同じお気持ちだったと思います。

親御さんはお子さんとエホバとの絆を愛のうちに強める必要がありました。ご自身の子供ではありますが、エホバからの大切な預かりの宝物だからです。 

 

 

私が組織に責任を取らせる必要がないと言うのは、この組織は神の意志を伝えるための機関であって個人より偉いところでもなんでもないから(コリントの身体の各部の例えと同じでどれが偉いというわけではなくみんな必要)です。組織に属する人は各々が神とそれぞれ関係を築いています。責任はその人個人にあり、他人が代わって謝罪する必要も資格もありません。聖書は対人関係の問題解決はまず当人同士で話し合うマタイの原則を用いることを教えています。

許す、許さない、はともかく私個人の思いとしては最初に聖書を学んだ1世の親はそれまで何世代も渡ってサタンからの悪影響を受け続けてきた人たちの末孫です。学んですぐにキリストの丈に達することができる、と期待するところではないでしょう。

日本の風土がキリスト教と合わないと言われるのであれば尚のことです。

 

 

サタンの世に漬けられてきた1世の方々もその親の悪影響をまともに受けられた2世の方々も広義的には被害者だと私は感じています。 何より「エホバの証人」と呼ばれる人が、そのエホバ神のご意志を正しく理解して当てはめていなかったことはエホバがとても傷ついたはずです。

私たちのエホバの証人としてのエホバのご意志の当てはめ方は、今まで円周率「3」のレベルだったのです。でも訓練を重ねて変化してきました(全体としては)少しずつですが、以前よりもエホバが望まれることを行えるようになってきました。だから、エホバは今の私たちに「3.14…」を教えてくださっています。それを理解できる心を私たちが持てるようになったと判断してくださったからです。 エホバに近づけば近づくほどに、謙遜になればなるほどこの桁数は増えていき、暗記も理解も簡単にできるでしょう。でもエホバを学ぶことに終わりはありません。

 

 

↑↑↑ ここまで ↑↑↑

 

 

 

 

 

 

 

JW地上の組織に対して、即反対&否定するのでもなく、盲信するのでもなく、本当に得心して信頼するにはエホバ神への揺るぎない愛が欠かせないのだと私は思います。組織を盲信しているだけなら「懲らしめのむち」の用いるとき、単にその場の怒りやいら立ちの感情に任せたり、或いはとにかく場をすぐおさめるためにだけに、むちを簡単に使うかもしれません。本当の本心が子どものために永続的な益のために使っているのか、それとも親のプライドのためなのか、エホバは教える立場の人の心をよくご覧になっています(これは長老も同じですね)

エホバとの絆が本当に強いなら、むちを用いる場合(組織は実際のむちを使うことを禁止していません)エホバから託された子ども一人一人の心の繊細さをきちんと考慮して用いるのではないでしょうか。

エホバは大祭司エリが息子たちをきちんと懲らしめてこなかったことに責任を問われました。ですので子どもに対して毅然とした態度は必要不可欠です。でも同時に首尾一貫していることや、懲らしめが道理にかなっていて公正で何より子どもがエホバと良い関係を持てるよう、ある意味で自分が一時的に子どもにとっての悪者になったとしても、エホバを愛せるようにサポートしたいという利他的な愛の動機を抱いていることが「懲らしめのむち」を用いる場合のエホバへの揺るぎない愛の強さを表すものだと私は思います。

 

 

 

もっと言うなら、天のお父さまエホバへの愛情・信頼・絆を持っているだけでなく、深めていかなければ、地上の組織を本当に信頼することは難しいのかもしれません。

エホバと同じ考え、思い、見方ができて初めてエホバが地上の組織をどれだけ愛して信頼しておられるか、地上の組織がどれだけエホバに見倣おうとしているのかが判るからです。エホバを心から愛すれば愛するほど組織が好きになれる、このことを私は体験させていただいています。個人的にすごくよく判るのですが組織に属する一部の人から辛い目に遭わされる(と感じる)と、組織全体に対して疑いとかネガティブな感情を抱きがちになります。そうなってしまうのは無理もないことですし、エホバはその気持ちをよ~く判ってくださいます。でもだからこそ、エホバはその人が抱いてしまったネガティブ捕囚状態から一人残らず助けたい!と思っておられますし、その方法もよ~くご存じなのです。

 

 

 

聖書に人を許しなさい=怒りや恨みを捨てなさい、と書いてあるのは決してエホバが加害者の行為を甘くみているわけではなく、被害者がきちんと回復するためのケアのためであり、被害者が本当に幸せになるために欠かせない大切なステップなのです。エホバは故意に人を攻撃する人のそばにではなく、いつも心の打ち砕かれた人のすぐそばに寄り添っておられます。あなたを助けたいのです。

 

 

 

ところで、イエス・キリストは目に見えない神が実際にはどんな方なのかを生き方で表してくださいました。それで人々はイエスを通してエホバ神を知ることができたのです。人によってはイエスを心から信頼して大好きになれたので、敬愛するイエスが心から大好きな天のエホバのことも大好きになれたのかもしれません(上手く伝わるかしら?)その方式でまいりますと、エホバが用いておられる神の組織を心から支持するための条件は、エホバ神との絆をしっかり強く持っていること、つまりエホバを心から愛して信頼していることです。そうするならエホバが選んで、信頼して用いている地上の組織との絆もしっかり築けます。

 

 

 

ツッコミの入る例えかもしれませんが(笑)夫が妻を愛し、妻が夫を本当に敬愛して心から信頼しているならそれは二人が強い絆で結ばれているということです。そしてその絆の状態で災害に遭い、緊急避難をしなくてはならなくなったとき、夫の指示に妻があーだこーだと理由をつけて従う(あるいは従わない)ことはしないでしょう。なぜならそれまでに夫がいつも妻を心から愛して妻を大切にしてくれる(してきた)ことを、妻自身がよ~く判っているからです。そういう絆を今のうちに組織(つまり神の家族です)と強めて深めていくなら「いざ!」という時に、よくわからない指示だけれども従うことが簡単にできてしまうでしょう。エホバと組織を深く愛せているからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

さて、私的人生でお初な補助開拓奉仕ですが、無事にお約束した時間を果たすことができました~!パンパカパーン!!やったね♪がんばりました~私!えっへん!天のお父さまとお兄さま方々に深く感謝します。ありがと~(^-^)♪この調子で月末まで特別に楽しく奉仕をしたいと思います。

 

 

 

振り返るとエホバと知り合えてからの40年間、いろいろな経験を私はしてきました。家庭環境等の影響で私は5歳のころから既に希死念慮がありましたが、9歳の終わりの時にエホバが私をつかんでくださいました。両親のすんばらしくきつ~~~い反対を受けながらも何とか聖書を学び続けてきました。人一番、人への恐れが強くていつもおののきを感じていたこの私が・・・まさに奇跡としか言いようがありません。

 

 

 

小学5年生頃には校歌斉唱も国旗敬礼も自分でするのを止めました。親は喜ぶはずもなく、みんなと違っていることをする私を怒っていましたし(よく世間様に顔向けが云々~と言っていたのを思い出します)先生方からもいろいろ圧力を頂戴しました。中学の体育館の学年集会でひとりだけ名指しされみんなの前でずっと立たされたり、廊下に何時間も正座させられました。割と品行方正&成績優秀(笑)でも校歌を歌わなかったからです。

 

 

 

親戚の家に伺うとまず仏壇にお線香をあげる習慣を子供の私が止めたときもめっちゃ大変でしたし、祖父が亡くなったときのお通夜では鬼の形相の家族から逃れるためにトイレに一人ずっと立てこもっていましたね~。でもみんな意外なところから助けはちゃんと与えられました。今では懐かしい思い出です。

 

 

 

いつも隠れて行なう研究だったので司会者が家に来ることはなく、私が司会者の家に行きました。これがスタンダードだと思っていましたから、伝道に出て初めて研究は司会者側がお相手の家に訪問するものなのだと知りました(^▽^;)個人宅で行われる書籍研究は仕事が終わっても家に帰らず、商業施設のアトリウムお気に入りベンチで出版物を読みつつ時間を調整していました。王国会館の集会はラフな格好で出かけてトイレで着替えていました。大会の日は家族が眠っている間に家を出て(置き手紙をする)参加していましたね。家に帰って無視される、怒鳴られるは常のことでした。

 

 

 

バプテスマも秘密裏に受けて、濡れた水着は持って帰りませんでした。家を出ていかざるを得なくなって一人暮らしを始めたとき、それまで押し入れの天袋とか鍵付きの引き出しにしまっていた聖書や出版物を堂々と部屋のテーブルや枕元に置いたままで眠れたときはとてもうれしかったです。でも残念ながら会衆ガチャ?は当時はハズレ(苦笑)でしたので、成員からのいろいろな試練?仕打ちにも遭いました。なかなか大変でしたね~(遠い目)人の不公正を長い年月耐えてきました。

 

 

 

そんな40年をエホバは私と共にいて、私と同じ景色を見て同じ気持ちを共有し続けてきてくださいました。永遠に存在される宇宙の創造者がこんなちっぽけな私、それも何も持っていない私にずっと関心を示し続けてくださったのです。そして私を愛してくださった、私にとってエホバから愛されること以上の幸せはこの世にありません。

 

 

 

希死念慮を抱えつつ、子供の私がいろいろな困難を一人で乗り越えてなくてはならなかったのは本当に本当に怖かったです。でも怖いながらも私は自分の意志で選択して歩んでこれました。私は幸せ者です。大人たちからは否定されてきても、歩んできた道は間違っていなかったのです。この組織を通して教えてもらえる神の言葉の知恵のおかげで、私は世の中の人や組織の人たちではなく、エホバを真っすぐ見続けてくることができ、そのエホバはいつも私と一緒にいてくれました(*^▽^*)

 

 

 

エホバは今現在私に揺るぎない愛を持っておられることを私は知っています。平和の契約も結んでくださっています。聖書を理解する力を日々鍛えてくださっていることは勿論、世俗の仕事でもいつも私に成功をくださいます。エホバとの絆はこれからも強めて深めていきたいですけれども、少なくとも貴重すぎる絆を持たせていただいていることを私は理解しています。天のお父さまエホバのお名前が神聖なものとされることエホバだけが唯一の神として讃えられることを私は心から熱望しています。そう思えることができることにも深く深く感謝します♪

 

 

 

私は霊的には父なし子つまり孤児です。でも会衆の人からはあまりお世話されませんでした(悲)でも・・・だからこそ私は会衆の霊的には片親の若者たちや、あるいはやもめの姉妹たちを特に援助したいと思います。放置される辛さがよ~く判るから。何よりもエホバがそれを望まれているからです。私は今エホバのために自分ができることを精一杯行なって、来たるべき時が来たときに「あのときに精一杯やれて本当によかったです」と言えるようでありたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう~♪前回記事から随分間が空いてしまいましたが、皆さまご息災(←意味はくぐってね~♪)であらせられましたか?実は今までブログに書きた~いことはいろいろあったのですが、なにぶんかったる?しんどい&忙しい日々でして、健康的な睡眠時間確保のためブログは手放しておりました。そして今月!何と!人生お初な補助開拓奉仕を体験しているエシュルンです~♪おお~偉大です私は(笑)

 

 

 

その時々に応じて( ̄▽ ̄)書きたいなぁ~と思っていたことは異なるのですが、まぁ上手くまとめられる・・・かなぁ?ということで久しぶりのエシュルン姉妹ブログをご高覧くださいませ~(*^▽^*)ちなみに今日も一日中奉仕でしたよ!おお~偉大です私は!(←大事なことなので2回言いました)

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 理解の調整について

 

 

何と言ってもスラックス~♪楽チンです(*^▽^*)発表のあった日から毎回ではありませんが何度か着用させていただきましたよ~(* ̄▽ ̄)フフフッ♪某Twitterでは物議?を醸し出していた??ような気もした「集会に来られた排斥者に対する対応の云々」については素直に良かった~と思いました。組織は精錬されたんですよ、間違いなく。うん(*^▽^*)

と言っても排斥されている人たちに対してバランスの取れた見方をする必要性についてはずっと前に教えられていましたけどね(例えばものみの塔1974年11/1号とか)

 

 

 

ここで「じゃあ今までの対応は間違ってたのだから、組織は謝罪すべき」というのは人の感情としては理解できなくもありません。でも論理的に私は謝罪は無用と考えてます。

論理的風な例えで少し見解を述べます。皆さまは円周率(π)という言葉をご存じだと思います。π=3.141592653589・・・・とずっと続くあれです( ̄▽ ̄)2022年に100兆桁(!)までは算出できたそうですが終わりはありません。私に言わせれば、今回の(とも限りませんが)理解の調整は今まで3.14だった理解が3.1415926までに成長を遂げたのだと思っています。

エホバは組織を構成する人々の理解力に応じて、真理を明らかにされていく方です(ヨハネ16:12&格言4:18など)エホバが良い時とされた時とは、エホバが私たちに教えても大丈夫!つまり私たちの側に成長があったということです。エホバの証人がレベルアップ~!できた証だと思うので私は嬉しいのです。

 

 

 

一部の方々はご納得いただけないかもしれません。もしかしたら地上の組織のトップを統治体だと思い込んでおられるのかもしれませんが、彼らはメッセンジャーです。新しい理解と調整はエホバから任命されたイエスから発信されているもので、それはエホバとイエスの目にちょうど良い時=私たちがその指示についていけると判断してくださったときになされます。早すぎても遅すぎてもダメなのです。だから今までの方針が間違っていたわけではありません。

 

 

 

私が学生の頃の教科書と現在の教科書は絶対に同じではないでしょう。歴史も化学も数学も書かれていることはどんどん変わってきているはずです。でもこのことに謝罪って必要なのでしょうか?むしろ今まで判らなかったことが、さらなる研究の成果によって明らかになったわけですから感謝するところではありませんか(^-^)♪組織の精錬も論理的にはこの例えと似ているかな〜と私は思います。円周率「3」よりも「3.14」よりも、さらにずっときめ細やかな「3.1415926」ケアがこれからなされていきますし私も微力ながらそうできるようでありたいです。

 

 

 

とはいえ知識を並べた教科書の刷新ならともかく組織の理解の調整は今までの人生をどうしてくれるの?ともやもやすることもあるでしょう。例えば今まで強力な反対者だった家族が信者になりました→めでたしめでたしかと言えば、人生はそう単純でもなく、過去に受けた仕打ちとかを全く忘れられるわけではありません。許していたとしても時折辛い記憶がよみがえることもあるでしょう。私は感情的ネグレクトをした両親をスッキリ許してはいます。でもだからといって自己肯定感が修復されたわけではありません。未だに幼少期の辛い経験は人生に暗い影を落としています。でもね、これは私の負うべき荷ですからね(*^▽^*)エホバはよ~く判ってくださっています。

 

 

 

Twitterで元JWさん同士でも理解してもらえないということで諍い(なのかな?よく判りませんけど)が生じているのが流れてくることがあります。内容はともかく人に理解してもらえない、という気持ちの辛さは少しわかるつもりです。でも、そういうお一人お一人の心の痛みを本当に分かってくださっているのが他ならぬ天のエホバとイエスだということを知って欲しい!と私は願っています。辛い体験のために生じたどんな感情も人間と違ってエホバとイエスは決してさげすんだりしません。あなたが悲しんでいるとき、エホバもイエスも涙しています、そして守ってあげたいと思っているのです。だから近づいて欲しいな~(^-^)

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 初めての補助開拓奉仕中~♪

 

 

今よりももっと自尊心がなくて、エホバを愛することができていなかったときの私は奉仕が怖くてたまりませんでした。その頃も開拓奉仕は奨励されていましたが、ある姉妹に言われたことがあります。自尊心を埋め合わせるために開拓をしても幸せにはならない、と。本当にその通りだと今もそう思っています。今月補助開拓を行なっているのは自尊心のためではありません。自分から望んでエホバのためにできることをしたいと思って始めました。だから今とても充実しています。きちんと待って本当によかった(^-^)♪

 

 

 

奉仕の機会が増えたので、仲間の良い点を観察する貴重な機会にも恵まれています。

あらすてき~尊敬しちゃう♪な~んていうのは日常茶飯事、見倣いたいと思う姿勢がたくさん心に入ってきます。自分のための開拓奉仕ではなかったのに明らかに自分のためになっているのを実感しています。ありがたいですね~♪

観察しながら新たに発見したことがあります。それは神の言葉を温かい愛情をもって教えられた2世の兄弟姉妹は心から奉仕を楽しんでいます。もちろん葛藤や緊張はしているでしょうけれどそれでも無理をしてフリで行なっている人は誰もいません。人に会おうとしています。また謙遜な姿勢をお持ちの1世の姉妹たちはごく自然に利他的な行動をされます。自然に対する愛情たっぷりで幼子のように素直に感動もされます。改めて私はエホバがご自分が選ばれた=引き寄せられた方々、幼子のような謙遜な心を持っている方々を深く愛されていることがよく判りました。後半もがんばろ~っと(^O^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

3. お父さんやお母さんに見放されていたとしても、あなたにはエホバがいます

 

 

先週の集会聖書通読の範囲に詩編27:10がありました。宝石を探し出すのプログラムではこの聖句がピックアップされていましたね。私はこのようにコメントしました。

 

 

『エホバはつらい境遇にある人を深く気遣ってくださいます。でもイエスはエホバに倣うことで、自分が愛されていると感じ辛い人にエホバの愛の大きさが伝わるよう、全力で助けられました。それで私も家族や親しい人から文字通り見放されたり霊的な保護やお世話を受けることができなかった、かなわなかった方々にエホバの愛が少しでも感じられるようその大きさが少しでも理解できるようサポートすることに精一杯努めたいと思います。』

 

 

そういうわけもあり、今回このブログ記事を作成しました(^-^)♪時折JW2世さん方々のことを「真理の内に育てられた」という表現をすることがあります。でも私は思うのです、そこで育てられたはずの子供たち(現在大人な方々)が人の顔色をびくびく窺うアダルトチルドレンになっていたりするのなら、果たしてその人は「真理の内に育てられた」なんて言えるのでしょうか?極端な言い方かもしれませんが、そういう人たちはむしろ父と母に霊的に正しく保護されなかった(捨てられた)子供たちではないのでしょうか。正確なところその人はJW2世とは呼べないのでは??と思うのです。

 

 

 

エホバが特に助けたい!と思っておられるのは、そんな辛い過去を持った方々すべてです。父母(あるいは片方の親)が教えてこられた、厳しく鞭をふるうだけのエホバ神は「本当の」エホバでは断じてありません!本当のエホバは宇宙で一番善良で親切で思いやりがあっていつも温かい愛情に満ちておられる方なのです。あなたの痛みを一番判ってくれるのは”元JW”の仲間ではなく、実はエホバなのです。どうか少しずつで良いので時々エホバ神に話しかけてみてください。そして傷が癒されていくことを私は心から願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

4. 遅ればせテーマながら「記念式」は宣伝なの?について

 

 

以下は昔の別ブログにUPしていた記事のコピペになります「記念式」とは一体?私的な思いを綴っています↓↓↓

 

 

 

ところで、記念式の時期になると、わりと?よ~~~く言われる事柄です。

 

 

①そもそも記念式は最初にイエスがなさったように、信仰のある油注がれた人たちだけですれば良い。

②なので、ほかの羊の出席はいらない(小命令違反)

③ということはお決まりの年一度の出席者とか、ましてや排斥者とか呼ぶのはちゃんちゃらおかしい、そもそも神に対して失礼である(大命令違反)

④なぜ宣伝をして一見さんを招待する必要があるのか理解不能。

 

 

ということを異口同音にネット上では見聞きしております。

で、私の答えです↓↓↓

説明しよう!

この日はエホバから全ての人への救出招待宣伝集会なのです(←何?)

 

 

統治体がこの形式の集会でOK通達出しているなら、これがエホバのご意志です。

信じたくなければ信じなくてよろしいですが。

記念式は大事、でも今の時代は人をすなどることも大事。何とかして一人でも助けたい(排斥者であろうと例外なく)のです。これは救出目的のための手段集会なのです。ある意味伝道&同時集会ですね。そもそも油注がれた人たちだけでOKなら、記念式の話なんて不要です。さっさとパンとぶどう酒をまわせばそれで式はすむはずですから。

 

 

でもそうせずにわざわざ、信者からすると薄っぺらい??まとめ話を作るのは、一見さんを始め、さほど信仰のない方々がどこの部分に心惹かれるか判らないからです。話のどこでも良いから、何か一つでも良い、心の琴線に届いてほしい、そうした強い願いがあります。

 

 

普段の集会はハードル高くても、記念式はやや初心向けです。私のようなほかの羊もイエスに対する思いを新たにできる機会だったりもします。ニサン14日はエホバとイエスが全人類を助けるため特に行動された日です。だからこそ今も全ての人を招待して気遣うのです(同時に人類がお二方に特に感謝する日です)このエホバのご意志は一貫していませんか?

 

 

もう少し踏み込むと本来はシンプルでも最も厳粛のある契約締結の記念の日であり、エホバとイエスを愛して信仰を持つ契約対象者に限定というのは間違ってはいないと思います(例:極めて格調高い結婚式とか〇〇賞とかに呼ばれた、中に入れる招待状を持つことのできる関係者ですね)でもホストのエホバとイエスは極めて深い愛を持っておられるので、ご自分たちのほうから身をかがめてすべての人を招待してくださった(この契約の影響はすべての人の命に及ぶので)というほうがより正確に近いだろうと推察します。

 

 

ということで、私としては記念式の宣伝は大いに結構と思っています。それで誰かの命が救われるのなら、それこそがまさにお二方の1番の望みであり、体裁の優先順位はそれよりも低くて良いのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さまごきげんよう、エシュルンです(^-^)♪

 

 

 

JW libraryの新着情報で何本かの動画がupされていました。ゆっくり見ようと思っていたら、早々にX(Twitter)で、元JWさん方々の間で、あれこれ言われているようでびっくり(←自動的に上がっていたものですから^▽^;)ええと、私以前から思っていたのですが、おそらく今のところは組織に戻りたいと考えておられないであろう、ネット界隈の元JWさん方々って、私たちよりも遥かに熱心にブロードキャスティングとかその他のお知らせとかをご覧になっている気がします。皆さん存外お暇なのか?それともいわゆるストーカー的粘着気質なのか?は存じませんが、いや~すごいですね。それで組織著作の動画や画像をあえてルール忌避して勝手に載せています、これまたすごいですねー。

 

 

 

と、まぁさておき。

会衆から除かれた人たち(排斥・断絶)=「全てが背教者」ではない、これが改めて強調されたのが良かったと思いました。今は離れていてもみんなを絶対に助けたいと願っておられるエホバの愛情の強さを感じます。罪を憎んで人を憎まずって大切ですよね、うん。それでも自由意思は尊重されるべきですから、戻りたくない人を無理に引っ張らないことも愛の表れです。個人自由と責任のバランスは大切ですね、うん。漸進的に理解できることを揶揄される方もいらっしゃいますが、私が思うにエホバは私たちJW信者の歩みレベルに応じて教えてくださっているのだと感じます。幼子のような集団から各々訓練してきた良心によって判断できる、までに成長してきたことなのだと思いました。だからこのタイミングで新しい見解になったのでしょう。

 

 

 

と、統治体②の感想はここで一旦横に置きまして。

私は同時期に配信された「このことを信じますか(ヨハネ11:26)」のお話がとても心の琴線に触れました。お話の詳しい内容はJW libraryをご覧ください( ̄▽ ̄)v

 

 

 

以下は私の私的な見解です↓

イエスの「あなたの兄弟(ラザロ)は生き返ります」の言葉に対し、マルタが「終わりの日に彼が生き返ることは知っています」という答えをした理由について動画では少なくとも、という前提で2点考察(今まで若い人しか復活していない・亡くなってから日数が経過している)されていました。私は別の理由を考えていました。それはマルタが人を復活させる力を持つイエスが少なくとも今この時にラザロを復活させる意思をお持ちではないのだと思っていたからでは、かな?です。

 

 

 

マルタとマリアもイエスが来てくれればラザロは死なないと信じていました。信じていたのでラザロが亡くなる少し前に使いを出しています。でもイエスはあえて2日待った後でマルタたちの住むベタニヤに向かいました(それをマルタが知っていたかどうかでもこの見解は変わりますし・ラザロの死後4日経っていますからイエスが急いできても、間に合わなかったかもしれません)イエスが間に合って来ることをマルタとマリアは期待していたはずです。でもこの時点ではイエスは二人の期待には応えませんでした。あえて急いでは来られなかったイエスの行動から、マルタはもちろんイエスを愛していますが、ラザロを今すぐに生き返らせて欲しいという願いは聞き入れられないと判断していたのではないでしょうか・・な~んて思ったり。違うかもしれません。でももしそうだとするならば、その後にイエスの流された涙がより愛情深く、私には伝わるのです。

 

 

 

イエスはマルタの姉妹マリアにも「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言われます。そして今度は泣き声を聞き、泣いている人たちもご覧になります。聖書にはイエスが心の中でうめき、苦悩されて涙を流されたことが記されています。イエスが泣かれたのは愛するラザロが亡くなってしまったこともそうですが、ラザロの死で悲しい思いをしている人々の苦しみを感じたからでもあるでしょう。ここからも充分にイエスの憐れみ深さや同情心が判るのですが、今回私はマリアの(と泣いてはいないマルタも)深い気持ちにイエスが心から寄り添っておられた、という視点で書きます。

 

 

 

マリアが泣いた理由は無論ラザロの死なのですが、イエスに対してなぜ?どうして?助けてくれなかったの?というちょっと微怒と言いますか、期待が打ち砕かれた絶望とかそういった複雑なものも混ざっていたのではないでしょうか。もちろんマルタもマリアも「あなたが来なかったせいでラザロは死んだのよ!!」なんて失礼なことは言いませんし、イエスに感謝をしない人たちでもありません。でもこのときばかりは堪えていたのではないかな~と思います。自分たちの身近に救い主メシアがおられるのです、頼りたくもなるでしょう。でも一番助けを必要としているときに応えてくださらなかった。悲しいとか悔しいとか0ではない、何らかの負の感情を抱いてしまったとしても(無意識でも)おかしくない状況です。他の人たちは助けてくださったのに私たちはダメなの??とも思ったかもしれません。

 

 

 

イエスは人の心を正確に洞察することができる方です。事細かな心の内を読むことができます。だからこの時のマルタやマリア他の人たちの幾らかの自分への負の感情をイエスはご存じだったでしょう。それでも、たった一言も責めませんでした。むしろそのなぜ神は助けてくれない(くれなかった)の??しくしく(涙)・・・の辛さを、その心の苦しみを、ご自身の痛み同様に感じて共に涙してくださいました。明らかにイエスは人間の苦しみに寄り添ってくださる方です。であれば当然お父さまエホバも同じ方ですよね(^-^)♪

 

 

 

エホバとイエスは私たちの日々の悩みや苦しみに優しく寄り添う&涙を共にするだけでなく、解決策を既にご存じです。そしてそれは必ずしも楽園世界での一掃に限りません。マルタやマリアの身に生じたように今生きているこの世界で救出してくださることもたくさんあります。エホバは私たちの想像もできないような素晴らしい仕方で解決してくださるのです。あなたはこのことを信じますか?

 

 

 

 

 

 

さてさて、ここで温めておいた?統治体②の話と組み合わせます。

 

 

問題はこの後です。復活したラザロ、そしてマルタとマリアは当然イエスに感謝したでしょう。でも後になって「やっぱり最初からラザロ死ぬ前に病気の時に癒してくれれば良かったのに、そうしたらたくさん苦しまなくて済んだのに」・・と3人は思ったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

さらに、例えばエジプトで苦難の末、総理大臣になったヨセフは父ヤコブと再会してみんなで飢饉の時代を乗り越えた後で「でもやっぱり17歳から39歳の間、お父さんと一緒に暮らしたかった。過去には戻れないんだ・・辛いなぁ」とネガティブモードになったでしょうか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

王国会館に来られた排斥されている人と交友は持たないものの、挨拶することは自由裁量になりました。ではこれまでに挨拶されなかったことは不当ですか?許されないことですか?悔しいですか?皆さんはどう思いますか?

 

 

 

乗り越える鍵はたぶん・・・「謙遜さ」なのだろうなぁと私は思います。

そして、たとえどんな「後遺症」が残っていたとしても、エホバを信頼するなら必ず私たちが思いもよらない仕方でエホバは行動されて解決してくださいます。

あなたは「このことを信じますか」(^-^)?