豆知識を教えて

別に「豆知識」というような類の趣旨でもないのだけれど…最近誰かにオペラについてを話す機会が多い。それは「趣味はオペラ鑑賞です」と謳って憚らない人間であるから、旧来から折に触れて話題に上がってそれ自体の頻度は変わらない。より有り体には「普遍的な事柄に驚かれる」ことが多くなったと言うべきかも。そして、その「相手に驚かれる事柄に対してこちらが驚かされる」のだって

 

自分で書きながら訳が分からなくなりそうだ、つまるところ私達がオペラを語る上で初歩として捉える前提を多くの人は知らない。この世界に暮らす人々はあまりオペラのことに興味がないようだ、私達オペラ愛好者が考えているよりもずっとね

 

 

*****

 

 

私達にとっては常識でも一般的には知られていないこと;

 

①「『オペラ座の怪人』はオペラではない」

 

昨日の記事でも書いたよね、あの会話はネタじゃなくてよくあることなんだ。それもかなりの頻度でね。最初はこちらの失笑を誘う小粋なジョークか何かだと思ってたから「ははっ、それは面白いですね。残念ながら『オペラ座の怪人』は観たことないです」って答えてたのに、そう返事するたびに「えっ、それじゃあ何を観るんですか?」って真剣な表情で畳み掛けられるのを見て「…ああ、これは本気で訊いてたのだな」ってことに気付いたんだ

 

そこで私は「あれはオペラ座を舞台にしたミュージカルですよ。一般的にオペラはオペラ座が聖地とされていて、所謂ミュージカルはブロードウェイやウェストエンドがそれに当たります」と答えようとするものの、そんな風にボールを投じたら相手の気持ちも会話それ自体も縺れてしまう。だから、最近はただ単に「音楽鑑賞です」って答えることにしてる。その方がオペラやミュージカルの定義を語るよりずっと気が利いてるからね

 

そうしたら「そういう時ってどんなお酒を飲むんですか?」のように話題を別方向に逸らしたり「私も音楽を聴くのが趣味で最近は〇〇が好きなんです」って相手の関心事に移譲したりできるから、そのまま円滑なキャッチボールを続けられるってわけ。ごくたまに「どんな音楽がお好きですか?」って質問された時は「実はクラシックを少々」で乗り切ってる。ただし、そこから「どんなクラシックを聴くんですか?」って訊かれたら結局嘘を吐き切れずに振り出しに戻るんだけどね。私はもう少し会話術を磨くべきかもな

 

 

②「名曲「私のお父さん」の出典は悲劇ではない」

 

我が国ではドラマ挿入歌やCMによく起用されるこの曲。最近はそうでもないのかもね、私の幼少期なんかは「これを聴かずに過ごせる日はないんじゃないか?」と思うほどに実によく流れていたものだったよ。私達オペラ愛好者にとっては『プッチーニの三部作』中で唯一の喜劇である『ジャンニ・スキッキ』の一場面で流れるアリアとのひとつであり、それからの顛末を考えるだにともすると口許が緩むことさえありそうなものだ。恐らくはその曲調からだろうか、「これは悲劇じゃないの!?」と驚かれることが大変に多いんだよ!

 

 

③「同じく名曲「小さな木の実」は、実は恋の歌である」

 

これについては少々の誤認も止むを得ない部分があるかもしれない。我が国では国営放送に准じるNHKの『みんなのうた』で1971年から編曲版が流れていたようだし、私の世代では小学生時代に音楽の授業で教科書にまで載っているこの曲を習った。「じゃあ、当時このオペラについて教わった?」って訊かれたら、それは完全に「NO」を意味する。こうまで知名度が高いのに、誰もその出典を知らされないまま大人になっているって訳だ。私自身もこれが『美しきパースの娘』の「セレナーデ」であることを意識したのは大学生になってからだった

 

ちなみに、元曲は鍛冶屋のスミスが恋人カトリーヌへ思慕を歌い上げる恋の歌なんだよね。もし私が死んだら自分の親族に会いに行くのも愛新覚羅溥儀を眺めに行くのも後回しにして、真っ先にビゼーの許へ走っていって伝えたいよ。「今や『カルメン』は世界中で上演されないシーズンなどない大人気作品だよ。それはそれとして、あなたの祖国から遠く離れた極東の地で「セレナーデ」は歌えない者のいないほど有名になってる」ってね

 

 

④「恐らく最も有名なアリアである「誰も寝てはならぬ」はオペラの曲である」

 

以前にもこのブログで書いたかも、「昔は日本で最も有名な男声アリアといえば『トスカ』の「星は光ぬ」だった」って。そして、恐らく女声なら『カルメン』より「恋は野の鳥」だったはず。さあれど、その趨勢はある年を境にして一気に様変わりを見せてしまった。その「ある年」こそパヴァロッティが開会式に降臨し、さらに荒川静香さんが女子フィギュアスケートで金メダル獲得の快挙を成し遂げたトリノ五輪開催の2006年。この舞台における「キング・オブ・ハイC」と「クールビューティ」のもうひとつの共通点こそが「誰も寝てはならぬ」だ。こうした刹那に人気の移ろいを見るにつけ、ただ心臓を掴まれるような気持ちだった。今にして思えば、あれは歴史を目撃した瞬間だったのだろうな

 

「これは架空の中国を舞台にしたオペラで歌われる曲で、その内容は「私が勝利するまでは誰も寝るな」です」って話すと結構驚かれるし、それと飽き足らずに「(どうせ退屈な)オペラで寝るなって無理でしょ!」って一笑に付されることもまた事実だ

 

 

*****

 

 

ほかにも私達「オペラ愛好者」と「それ以外の人々」の間には隔たりがあることは確かだ。今後新たに出遭ったり、それについて思い出したりしたら加筆および修正するとしよう。私が一番言いたかったのは「まったくオペラは堅苦しい芸術なんかじゃない」ってこと

 

でも、そうだな…もし表題に相応しい豆知識について話すとしたら、巷ではよく「缶詰が発明されたようやく約100年後に缶切りが生まれた」なんて言われるよね。それは必ずしも正確じゃないんだ。いわゆる現在の保存食としての缶詰は1810年に開発され、その後1859年に缶切りが登場するから、その開缶として金槌と釘が用いられていたのは、わずか半世紀の年月にさえ満たない。ちなみに老大国イギリスにはクリスマス用の晩餐をたった一缶で賄える超便利な缶詰がある

 

同じネタで投稿する

他の投稿ネタを確認する

ほとんど初対面の相手に質問を受けて「趣味はオペラ鑑賞です」と答えた時に、最近よく起こりがちなこと;

 

その後にアレクサンダー・ルイス氏が『オペラ座の怪人』のタイトルロールを演じていたことを知ってから;

 

しかし…同じエリックでも『リトル・マーメイド』の本編中で歌唱しないディズニー作品で唯一の王子と、かたや「音楽の天使」とは皮肉なものだ。その数少ない共通点と言えば、双方とも「黒髪」「楽器の演奏が趣味」「水辺を好んで生息」「たまにケープ状の外套(マント)を纏ってる」「続編では子供がいる」くらいのもの…って、いざ挙げてみたら意外とあったっていう

こんなことをオペラ歌手に関して言うなんて羞恥心の欠片もないよね。さあれど、折角こんなに見目麗しい顔を崇めている身として、こうして幸福の恩恵を受けている以上は、その四達に努めるべきかもなって。そういった理由とは関係なしに、ただ私が眺めているだけで眼福だから一箇所に集約しておこうと思い至ったに過ぎないのだけれど…この短期間ではありながら毎日僅かずつ蒐集し続けた画像はその出典が判然としないものも多いから、それについては今後また加筆していくことにする

 

「とりあえず生ビール」よろしく、あるいは追い越す勢いで、とりあえずこの記事を読んだ全員が果報者になって

 

*****

 

『オペラ座の怪人』の世界ツアーにおける台湾公演リハ映像より。何度観ても揉み上げの存在感がすご過ぎるし、その存在に慣れない。そして、何度観ても脚が長過ぎる。彼を現在国際社会における小人族こと極東アジア人の規格に収めようとする椅子の方に無理がある。既にクリスティーヌとして歌姫の佇まいでおいでのアナ・マリーナ様もお美しいことこの上ないし、何度もしつこいようだけれど「お互いによく好きにならなかったね???」

 

image

件のアナ・マリーナさんのInstagramより。こんなに貴い写真をご供出戴けるなんて感謝に堪えざるを得ないよ。まじでありがとうございますでしかない。私がAL氏だったらこのままクリスティーヌを連れ去っちゃいたいし、私がアナ・マリーナさんならとてもじゃないけれどカメラ目線になんてなれずに目の前にあるご尊顔を拝み倒してしまうこと請け合い過ぎる。いわゆる古典ディズニー作品から時空を超えて現れてきたような二人だよね。そう考えて改めて見てみたら、彼女ってどんなディズニー作品に登場するプリンセスの衣裳も全部が似合う。その中で最も相応しいのは『リトルマーメイド』のアリエルかな。もっとも彼女には既に別のエリックがいるけどね!

 

以前に貼付した"From Broadway to La Scala"の別予告映像。この主要歌手陣6人を「全員一堂に会する」「男声と女声に分ける」「1人ずつ個別のインタビュー形式を採る」にしなかった広報担当の有能さが神懸かってる。彼が生来持ち合わせているらしい陽気さ(※詳細は後述)と、そうしてオペラ歌手を志しその道を邁進する過程で身に付いたであろう真摯な傾聴振り、突然デヴィッド・ホブソンに話題を振られて当意即妙な返答を言った後のドヤってる表情のあどけなさ…この動画に介在するすべてがいいよね、すべてに心ときめかされてる

 

image

同国における唯一の一般向け全国日刊紙でありオーストラリア国内外の彙報を扱うThe Australia紙が『メリーウィドウ』上演を伝えた際のウェブ記事より。この画像の中央で破顔するハンナ役がジュリー・レア・グッドウィンであることやそもそも周囲のスタッフたちがマスク姿であることから、これが2019年上演版の衣裳合わせであることが分かる。無論のことカメラマンの持つ力量も然ることながら、彼らには一瞬を捉えたはずの写真からでも伝わる躍動感が備わってる。それがスターのスターたる由縁なんだね。「この画面から少しでも目を離せば、その視線を盗んで動き出す」と言われたら、その説得力に頷くだろうな

 

The Merry Widow WNET Feature

在ロンドン行政市庁舎(ギルドホール)の公式YouTubeより。同芸術ホールでメトロポリタン歌劇場(以下MET)の『メリーウィドウ』がLive in HD上演されることを受けて配信された映像のよう。この映像をはじめて観た時に思わず絶句した理由は既出として、今では別の意味で絶句してるよ。だってさ、彼って脚長過ぎにもほどがない? こんなに脚が長かったら足の爪をどうやって切ってるのか。ちなみに既製品の裾上げを経験したことがない我が夫は、自分では出来ないゆえ私が切ってる。…ってことは、やっぱり奥様かしら? 以前読んだインタビューで「ただ座って黙々と作業するとか無理!」って言ってたのを思い出させる落ち着きのなさに、もはや何度目か分からずに絶句してる。全部かわいいかよ
 
image
彼がタイトルロールを演じたショスタコーヴィチによる『鼻』のオーストラリア公演時、同国で最も歴史が古い日刊紙であるThe Sydney Morning Herald紙によるインタビュー記事より。なんか無駄に爽やか過ぎて点鼻薬の宣伝みたいだな。「つらい鼻腔内の痛みやかゆみに。きちんと患部に留まり不快感の緩和を期待できます」って感じ。もし彼の鼻がこの世から消えちゃったら、彼以上に私が血眼になって探して必ず御下に返す。その「鼻」の首に縄を付けて、彼から逃げ出そうとした悪戯心に手を染めたことを悔恨するように諭して足を洗わせ…待って、ちょっと話がややこしくなってきたな
 
 
*****
 
 
(※詳細は後述)とした陽気さを物語る画像まとめ
image 
まじでディズニー作品ごとし体格差に一生萌える。すべての実写版はこれでいいだろ…
なんて貴いの、私が独裁国家君主だったら危うく2人を幽閉しちゃうとこですからね
 
この状況でこのポーズを取ろうと思えること自体が並大抵の陽キャの胆力ではない
初見で思わず笑ったけども、もしラウルがTinderやってたらプロフ写真これじゃね?
 
いずれも一次ソース不明、出典はtumblr内のファンによるアカウントより。こうした挫折や悲嘆とは無縁(だったであろう)の人間を等身大かつ王子然として演じられるのは彼ならではの強みじゃないかな。あるいは、ともすれば表層的になりがちであったり、そうでだければ齟齬が生じやすかったりする役柄に深みを持たせられるとでも言おうか。その完璧なまでの外貌とそれがもたらす多幸感については言わずもがな。彼がラウルを演じた動画のコメント欄に「彼って夢のように見目麗しいわね…!」って書かれているのを見掛けて深く頷いた深夜25時。何度も頷き過ぎて首が取れちゃったから慌てて追い掛けてようやく取り戻して今に至る。こうして視力と聴力を取り戻せてよかったよ
 
*****
 
ここから先は怒られるかもですが、
あまりにも画像と映像の供給が少なすぎて、自ら画像生成AIに命じて手を下した。これはご存知『メリーウィドウ』で元恋人同士が旧縁を深め合う同作中でも重要な場面だ。この距離でご尊顔を拝んだら、私がダニエル・デ・ニースなら今後の展開のすべてを忘れてしまいそう。それを言うなら、私がアレクサンダー・ルイス氏なら自分の姿に楽屋で見惚れて出トチるだろうな。そう考えるだに、このご両人はどちらも偉すぎる。あまりにも映像映えし過ぎてデスクトップ画面に設定してる
 
さんざん既出の『オペラ座の怪人』のラウル・シャニュイ子爵、これは第一幕かな。彼のEラインも立ち姿も芸術品だと思う。そう言えば、現在同ミュージカルの映画化作品が4Kデジタルリマスター上演しているらしく、私の旧Twitter現Xはただならぬ情熱の沸き返りを見せている。その中で「たとえ仮面に隠れた素顔が醜くても残された顔の半分がジェラルド・バトラーなら愛せる」ってポストを読んで「そんな訳な…いや、そんな訳ある全然ある!」となった。私がクリスティーヌなら、その顔の半分が美しかったばかりに流麗で雅やかな世界に憧れて、実際にそう生きる術を身に付けた怪人に愛おしさを抱かざるを得ないと思う。たとえ自分に生き写しの人形を抱える変態だとして、それは障壁にならない。ただ、それはAL氏が怪人役だった場合で、彼がラウル役を演じてたら私がクリスティーヌなら音楽の天使なんて一笑に付して終わりだよ。彼と再会した初日に「2分後に」誘いに応じて、そのままオペラ座を離れるから
 
MET『リゴレット』より。別に言いたかった訳じゃないよ、アヌビスサンダー・ルイスって。恐らくはこの後ジルダをファラオの棺に押し込んで攫うこと(と、さらには彼女を待ち受ける結末)に掛けてのアヌビス神を模した仮面なのだろうことは十二分に承知してる。されども、それを言い出したら次の場面でオシリスを思わせるダイオウイカみたいな帽子を被って然るべきだし、最後の登場時にはヌン面にしていた方が筋が通るよね。そんな屁理屈を通したいのは、ただあの仮面を纏ったAL氏を見たいからだよ。何だっけ、あのチュン助みたいなの…あっ、ホルスでしたっけ? あれが一番エジプト九柱神でかわいいじゃん、あれがよかったな
 
*****
 
これは余談ですが…最近いつになく悲しい出来事があって珍しく落ち込んでた。先般まで新しい仕事に慣れなかった時にこのブログを顧みる時間がなかったのとは異なって、ただブログに向き合う気力が沸かなかった。それほどに打ちのめされてた、その理由はこれ;
ここ最近の画像及び映像を鬼検索した結果として見付けたのだけれど、その時から今に至るまで上手な息継ぎの仕方を忘れてる。何ならそれに伴う酸欠で若干の意識を失ったまである;「…ちょっと待ってよ、昨年末に来日してたってこと!?」。きちんと間に合うように知りたかったし、何が何でも駆け付けたかった。何とはなしに今後は二度と来日が果たされないような気がするから
 
そうした艱難の中に在っても前を向かせてくれるのは、それこそがやっぱり彼の歌声の素晴らしさなんだ。今日の私はまだそれを実際に聴くに値するほどの優れた人間じゃないというだけのことなのかも知れない。いつかそれに相応しい価値が備われば、その時にこそ好機に恵まれるかも。そう信じて生きるしかないよね、ただ頑張るほかはないのだから

ここ最近ずっと気分が落ち込み続けていて、どうにも感情を浮上させることが出来ずに項垂れたまま毎日をやるせなく過ごしてた。自分が見過ごしていた重大な事実とどう折り合いをつけたらいいのか分からずに、どんなに理性で抑え込もうとしても時を選ぶことなく唐突に襲ってくる哀傷や苛立ちに打ちのめされながら

 

さらに時は下って、今では「こうした煩悶はそれ自体が幸運に恵まれているんだ」って気付いたんだ。そんな事実が存在したこと、それを窺い知れたこと、我が国で彼の名前とその魅力が曠然と知れ渡ったであろうことも…すべては手放しで歓ぶべきことなんだ。そんな言を俟たない事実にさえこのありさまだ、だから「傲慢だ」と言うんだよ

 

 

あの「家庭の妻」「幼い子を持つ母」「〇〇家のお嬢さん」としか看做されずに、何の社会的主体性も持ち得なかった出産後の数年間ほど悲劇的で残酷な経験を知らない。あんなに人生で絶望したことはなかった、その悲嘆に寄り添ってくれたのも、そこから立ち上がって一歩を踏み出す背中を押してくれたのもやっぱりオペラだった。あの頃に戻ることを思えば、どんなに仕事上で辛酸を舐めるとしても堪え難い魂の乾きより遥かにましだ。そうであるならば、ましてやそれがオペラによるならば、どんな苦痛でさえ糖蜜の甘さに変わるよ

 

そこに存在してくれるだけで、ただそこに息衝くだけで誰かの生き甲斐になる…そんな世界が本当にあるんだね。これまでも知っているつもりでいたけれど、これほど絶大な力を持っているとは思っていなかったし、私個人の嗜好こそあれどそのほかの類稀なる芸術と対等に位置付けるべきだと考えようとしてきた。「今更何を」って感じだよね、改めてオペラってすごいんだな。そんなことは到底不可能としても連綿とした歴史上において数え切れない人間を救い続けてきたオペラを愛する者として、それに相応しい人間でありたいと願うよ

 

どんな失敗も笑顔で埋め合わせてきた、今こそ最上の破顔で乗り切るべきだ

あーあ、たまにはアレクサンダー・ルイス氏以外の記事を書くことで現実に戻らないとね。遠い昔に旧Twitter現X何とやらで廻って来たハッシュタグがあって、あの当時は日常生活の些事に手一杯過ぎて答えられなかったものを「どうせならここで動画を貼付しながら話そうかな」って

 

偏に「好き」と言っても、その思慕のかたちはさまざまある。我が国においては、かねてより擬人化なる文化が市井において伝統的に根付いているよね。そういう意味で言うなら、ここに挙げた交響曲らと相交わり合うのは賢明じゃないな。ただ観客席から耳を澄ませていたい、その場に居合わせる誰よりも真摯に

 

 

交響曲第1番;

なんて心戦慄かせる曲だろう。実際私はこの旋律をなにか堪え難い悲しい出来事があった時の心の拠り所とすることを願い続けてた。まあ、こんな生活を送っているからそんな事態にはそうそう出食わさないのが現実だよね。だからこそ、これを聴きたいって背理にも寄り添ってくれる名旋律なんだ。彼女こそが天才だよ、その定義については言うべくもないほどに

 

交響曲2番;

あたら屈折したクラシック愛好道を歩み続けてきたゆえに、いわば大衆の支持とは懸け離れた「迷演」を偏愛してしまうことがよくある。だのに、こうしてフルトヴェングラー指揮に惹かれているのは奇跡だ。昨今の趨勢なら絶対に否定したいし、私だってそうしたいよ。でも、この世界上に国境が存在する以上は認めざるを得ないよね。彼らには彼らにしか得ない真髄のあることを

 

交響曲第3番;

巷ではラフマニノフって交響曲第2番の方が高人気だよね。個人的にはこちらの方がずっと好きだよ、同じくピアノ協奏曲も第2番より第3番を聴きたい。「もし私がラフマン本人だったら、これをこそ名曲として弾き継いで行って欲しい」って思ってたら、彼自身もそう本当に願っていたらしいことを読んで思わず笑っちゃった。その天賦の才の白眉なのだから、さもありなん

 

交響曲第4番;

「詩人と思想家の国」が生んだ作曲家に天才と謳われる者は数あれど、その中にあって不遇に甘んじる最たる存在であるルイ・シュポーア。ほらね、それが証拠にこの膨大な動画が集まるプラットフォームの中に生演奏を見付けられないほどに。私が生きている間に、彼の名声がまた復権して演奏会の定番曲になることを切に願う。その時にこそ今曲に題された「音の奉献」が遂げられるのだ

 

交響曲第5番;

その生涯において軍務に従事した生活を送りながら交響曲だけで27曲という途方もない遺産を残したミャスコフスキーの手仕事に触れるたびに、その「最も素晴らしい曲」の順序は変わり続けてきた。恐らくこれからもそうだろう。もし今夜このハッシュタグを引っ張り出してきたのでなければ、ここに選んだのは間違いなく異なる結果だったから。今夜でよかったよ、この曲でよかった

 

交響曲第6番;

何度も言うように、まるで音楽については明るくないんだ。それでも分かるよ、これを生み出した人間が絶対的な傑物だってこと。もし私の人生が映画だとしたら、数時間に凝縮されることを避け得ない喜怒哀楽とその移ろいのあわいには、この曲から相応しい部分を抜き出して与えてほしい。…待てよ、ちょっと攻撃性の高い部分どうしようかな。折角の何も起こらない幸せな人生だっていうのに

 

交響曲第7番;

かつて朝比奈隆は言ったよね、「自分の葬儀にはベートーヴェンの交響曲第7番第2章の『不滅のアレグレット』を流して欲しい」って。それに深く同意する身としては、ここに挙げる楽曲をほかになく迷った。さあれど、今曲作曲当時のショスタコの心持ちを思うだに、こちらを貼付せざるを得なかった。あらぬ祖国の暴挙に絶望したとして、それにさえ寄り添い合える楽曲があるなら、それは幸福と同義であって欲しい

 

交響曲第8番;

これまでに列挙した「個人的に好む交響曲たち」を擬人化したとしよう。私はそれこそ必死に誠心誠意の真心を込めた言葉と態度で口説き落とそうとするよね。もし運良くほかの楽曲を振り向かせられたとしても絶対にブラ2とドヴォ8だけには歯牙にも掛けられないんだろうな。私にはこの曲に込められた作曲者の愛郷心すべてを理解することは土台できない。そのことを折に触れて悔しく思い返すほどに愛してるっていうのに

 

交響曲第9番;該当なし

ここまで散々語っておきながら、最後に何を言い出すんだ。自分でもそう思うよ、もし他所様のブログを読んで同じ展開に遭遇したら金輪際そのページには近寄ることさえしないことにする。けれども、到底ひとつに絞れないんだ。あの神童節たっぷりの躍動感、「交響曲の父」の本懐とも言うべきアレグロ・モルト、それに楽聖による『歓喜の歌』に関して言えば望むと望まざるとに関わらず歌わせられ続けて来たから愛憎のすべてが詰まってることだしね

 

 

誰しにも経験があるよね、「もはや引き返せない場所まで手を出してから後悔する」ってこと。私にとっては今がそう。そもそもがどうしてこのハッシュタグを持ち出したんだっけ。あっ、たまにはAL氏を忘れようとしたからだっけ。でもさ、こうして顧みるだに、どちらにせよ「恥の多い人生」だったことは明白だよね?

 

どうせ同じ顛末なら見目麗しさを噛み締めて死にたいから、こんなことで馬脚を現すよりも萌え語りの一丁目一番地に引き籠ることにする