あーあ、たまにはアレクサンダー・ルイス氏以外の記事を書くことで現実に戻らないとね。遠い昔に旧Twitter現X何とやらで廻って来たハッシュタグがあって、あの当時は日常生活の些事に手一杯過ぎて答えられなかったものを「どうせならここで動画を貼付しながら話そうかな」って

 

偏に「好き」と言っても、その思慕のかたちはさまざまある。我が国においては、かねてより擬人化なる文化が市井において伝統的に根付いているよね。そういう意味で言うなら、ここに挙げた交響曲らと相交わり合うのは賢明じゃないな。ただ観客席から耳を澄ませていたい、その場に居合わせる誰よりも真摯に

 

 

交響曲第1番;

なんて心戦慄かせる曲だろう。実際私はこの旋律をなにか堪え難い悲しい出来事があった時の心の拠り所とすることを願い続けてた。まあ、こんな生活を送っているからそんな事態にはそうそう出食わさないのが現実だよね。だからこそ、これを聴きたいって背理にも寄り添ってくれる名旋律なんだ。彼女こそが天才だよ、その定義については言うべくもないほどに

 

交響曲2番;

あたら屈折したクラシック愛好道を歩み続けてきたゆえに、いわば大衆の支持とは懸け離れた「迷演」を偏愛してしまうことがよくある。だのに、こうしてフルトヴェングラー指揮に惹かれているのは奇跡だ。昨今の趨勢なら絶対に否定したいし、私だってそうしたいよ。でも、この世界上に国境が存在する以上は認めざるを得ないよね。彼らには彼らにしか得ない真髄のあることを

 

交響曲第3番;

巷ではラフマニノフって交響曲第2番の方が高人気だよね。個人的にはこちらの方がずっと好きだよ、同じくピアノ協奏曲も第2番より第3番を聴きたい。「もし私がラフマン本人だったら、これをこそ名曲として弾き継いで行って欲しい」って思ってたら、彼自身もそう本当に願っていたらしいことを読んで思わず笑っちゃった。その天賦の才の白眉なのだから、さもありなん

 

交響曲第4番;

「詩人と思想家の国」が生んだ作曲家に天才と謳われる者は数あれど、その中にあって不遇に甘んじる最たる存在であるルイ・シュポーア。ほらね、それが証拠にこの膨大な動画が集まるプラットフォームの中に生演奏を見付けられないほどに。私が生きている間に、彼の名声がまた復権して演奏会の定番曲になることを切に願う。その時にこそ今曲に題された「音の奉献」が遂げられるのだ

 

交響曲第5番;

その生涯において軍務に従事した生活を送りながら交響曲だけで27曲という途方もない遺産を残したミャスコフスキーの手仕事に触れるたびに、その「最も素晴らしい曲」の順序は変わり続けてきた。恐らくこれからもそうだろう。もし今夜このハッシュタグを引っ張り出してきたのでなければ、ここに選んだのは間違いなく異なる結果だったから。今夜でよかったよ、この曲でよかった

 

交響曲第6番;

何度も言うように、まるで音楽については明るくないんだ。それでも分かるよ、これを生み出した人間が絶対的な傑物だってこと。もし私の人生が映画だとしたら、数時間に凝縮されることを避け得ない喜怒哀楽とその移ろいのあわいには、この曲から相応しい部分を抜き出して与えてほしい。…待てよ、ちょっと攻撃性の高い部分どうしようかな。折角の何も起こらない幸せな人生だっていうのに

 

交響曲第7番;

かつて朝比奈隆は言ったよね、「自分の葬儀にはベートーヴェンの交響曲第7番第2章の『不滅のアレグレット』を流して欲しい」って。それに深く同意する身としては、ここに挙げる楽曲をほかになく迷った。さあれど、今曲作曲当時のショスタコの心持ちを思うだに、こちらを貼付せざるを得なかった。あらぬ祖国の暴挙に絶望したとして、それにさえ寄り添い合える楽曲があるなら、それは幸福と同義であって欲しい

 

交響曲第8番;

これまでに列挙した「個人的に好む交響曲たち」を擬人化したとしよう。私はそれこそ必死に誠心誠意の真心を込めた言葉と態度で口説き落とそうとするよね。もし運良くほかの楽曲を振り向かせられたとしても絶対にブラ2とドヴォ8だけには歯牙にも掛けられないんだろうな。私にはこの曲に込められた作曲者の愛郷心すべてを理解することは土台できない。そのことを折に触れて悔しく思い返すほどに愛してるっていうのに

 

交響曲第9番;該当なし

ここまで散々語っておきながら、最後に何を言い出すんだ。自分でもそう思うよ、もし他所様のブログを読んで同じ展開に遭遇したら金輪際そのページには近寄ることさえしないことにする。けれども、到底ひとつに絞れないんだ。あの神童節たっぷりの躍動感、「交響曲の父」の本懐とも言うべきアレグロ・モルト、それに楽聖による『歓喜の歌』に関して言えば望むと望まざるとに関わらず歌わせられ続けて来たから愛憎のすべてが詰まってることだしね

 

 

誰しにも経験があるよね、「もはや引き返せない場所まで手を出してから後悔する」ってこと。私にとっては今がそう。そもそもがどうしてこのハッシュタグを持ち出したんだっけ。あっ、たまにはAL氏を忘れようとしたからだっけ。でもさ、こうして顧みるだに、どちらにせよ「恥の多い人生」だったことは明白だよね?

 

どうせ同じ顛末なら見目麗しさを噛み締めて死にたいから、こんなことで馬脚を現すよりも萌え語りの一丁目一番地に引き籠ることにする