私のブログは、
約9年前に…
風邪すらひかない
超健康なサーファー旦那が
悪性脳腫瘍グレード4
神経膠芽腫を
発症した時からを書いています。
大切な人を亡くし…、
絶望感に襲われ、
「人生終わった」と感じ、
自死まで考えていた絶望未亡人が…
どうやって生きてきたのかを
赤裸々に綴っている…、
『30代絶望未亡人
這い上がり物語』です。
初めから読んでくださる方はこちらから…
↓
33歳旦那の病気、発症!
↓
病名が判明しました
↓
2歳と5歳のワンオペ育児をしながら…
↓
旦那の脳腫瘍が再発しました
↓
そして…8年前、
↓
旦那を失う前にも…
↓
これの続きです
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義母(旦那の母)
「◯◯(旦那の名)〜〜」
火葬場に響きわたるほどの
大きな声で…、
義母は泣きはじめました
そりゃ…そうですよねぇ。
大切な大切な自慢の一人息子の体が
焼かれてしまうなんて…
母親として、
どんなに苦しく辛かったか…
その時も、
十分、わかっていたつもりでしたが…、
グリーフを学んだ今は、
さらにそれがわかるようになりました
ただ…、
そのような状況で、
私は…
嫁の私は…、
妻である私は…、
泣けなかった
なんていうのでしょうか…。
そんなに悲しんでいる義母の前で、
私は泣いてはいけないような気がしたのです。
泣いてはいけないような気がした…というのは…、
義母が…、
嫌がるかなぁ…
怒るかなぁ…
にらまれるかなぁ…
不快な思いをさせてしまうかなぁ…
と…、
私は恐れたのです
なんでそんな泣いていい場面で、
妻の私が我慢しないといけなかったのか…
と、今は思いますが…
あの時は…、
泣くことを我慢したのでした
義母をたてないと…
義母を、
怒らせないようにしないと…
そんな義母のご機嫌とりに、
私は必死になっていました
自分の夫が、
焼かれてしまう…
という時まで…
私は右手に6歳の長女の手を、
左手に3歳の次女の手を、
ギュッと強く握りしめて…、
涙と想いを…、
グッと堪えていました
そしてついに…、
旦那の火葬炉に…、
火が灯されました
火葬場の方
「終わりましたら、
放送でお知らせします。
おそらく、
若いし体が大きいので…、
少し時間がかかるかも、
しれません…」
そんなことを言われて…、
複雑な気持ちでした
火葬場の方が悪いとかではありません。
それが事実ですし、
そんなことを伝えないといけない
お仕事ですからねぇ。
私は、
その言葉を言われて…、
「ずっと、
焼けなきゃいいのにぃ…」
とか…、
「そんな、
なかなか焼けないくらいの
強い体を持っているのに…、
なんで死んでしまったんだろう…」
って…
とっさに思ったのでした
つづきます