精神科医療で、臨床能力が学力、頭の良い順にならない理由 | kyupinの日記 気が向けば更新

精神科医療で、臨床能力が学力、頭の良い順にならない理由

これは、おそらく精神科に限らないと思う。

精神科では、ある病状を呈している患者さんを診た際、その対処の仕方は、曖昧で、答えが明確でないものが多い。

さて、どうするかと言った際に、参照する要素(書籍、論文、過去の臨床経験、本人の忍容性、家族の意向など)が多様であり、結局、60:40くらいの判定によることもある。精神科臨床は応用問題で、常に曖昧な局面に対峙し続けなくてはならない。

学力の高い人は、往々にしてセオリーに縛られ、柔軟さに欠ける欠点を持っていたりする。

結局だが、どういう治療をするかは、マークシートのように明確に答えは出ない。

過去、僕の友人は、大学病院の上級医(指導医ではない)に、検査結果のあるスコアが高いことから、「なぜベンゾジアゼピンを使わないんだ!」と叱責された。

当時の周囲の評価だが、臨床能力に関して明らかに叱責された方が高かったのである。その事件の不条理さを感じ、その後、大学病院を辞めた。

個人的に言うと、気づくのが遅すぎると思う。僕は大学病院は研修医の2年間以外、働いたことがない。医局に在籍したのは7年くらいで、そのうちほとんどの期間は県外の関連病院にいた。

大学に残ると覚悟したのなら、いろいろなことがあろうとも、教授を目指して粘るべきだと思う。その覚悟がないなら、早めに決着すべきである。

その理由は、種々の臨床スキルを上げる臨床経験は、大学病院にいる限り圧倒的に不足するからである。

大学病院での治療が苦戦するのは、もちろん難治の患者が相対的に集まっていることもあるが、現実的には、一般の市中病院でも十分に難しい患者は存在する。

大学病院に長く在籍すると、仕方がないが、何かと中途半端になる面がある。(長く大学病院に在籍し、その後臨床に入った場合など)

細かいことを言うと、大学に長く在籍すると論文を書く技術などは向上する。しかしこれは直接、患者さんの治療に役立つものではない。長期的には論文が定説化すれば患者さんの利益になることもあるが、時間がかかり過ぎる。

もちろん、大学病院で長く頑張っている人たちが無意味なことをしていると言っているのではない。誰も論文を書かなくなると、これは困る。

ある日、女医さんから、僕のコピーのようなドクターが100人くらいいれば、大変な数の患者さんが助かるのに・・と言われたことがある。

しかし、「もし自分のような精神科医ばかりだったら、それはそれで困ったことになるでしょ?」と返したところ、彼女は笑い始めたのである。

今回の話だが、研修医の時代、終夜脳波の手伝いをしている際に、オーベンの一見わかりにくい示唆と、オーベンにまつわるある事件から学んだ。(このようなことは助手クラスの医師からはなかなか聴けないものだ)。

参考
アナフラニールの点滴と器質性幻聴
精神科医と薬、エイジング
器質性妄想とトピナ
28歳頃の話
精神科医は医師になり5年目までが重要