旧山陽道「山口県の旅」も今回で終了です。約2年前に、京都・東寺
を出発した旅でしたが、今回で「旧山陽道の旅」も終了です。
前泊し、朝「小月駅」に戻りました。今日(7/4)は、猛暑日の予報です。
無理せず、ゆっくりと「前回の終了地点」から出発し、旧街道の雰囲気
を残す道筋を歩いて行くと、三差路があり右手に「孝行塚」がありました。
「孝行塚」です。明治4年に没した「孝女お政」を顕彰するものですが、
山口県内に入ると、こういった「孝行息子・娘」の顕彰碑が多いです。
三差路を左に進み「毛利支(孫)藩・清末藩」の領内を進んで行きます。途中に
「藩邸の裏門」を移設した「橋本家長屋門」があるのですが、判らなかったです。
長州藩には「萩・本藩」の他に「徳山藩」「長府藩」「清末藩」(長府藩の別れ)
の支藩がありましたが「岩国藩」は「関ヶ原の戦い」の経緯もあり「萩・本藩」
から、正式な藩(幕府は認めるも)としては、認められず「家臣扱い」でした。
「神田橋」を渡ると「長府藩領」です。右手奥に「江戸末期」の
欄干等が残されていました。街道筋は「王司地区」に入り、国道を
横断、国道と山陽本線に挟まれた、集落内や農道を進んで行きます。
暫く、旧街道らしい道筋を歩いて行くと「宇部一里塚跡」と彫られた石碑が
ありました。「え!!ここ宇部」と思いましたが、この辺の古い地名のようです。
赤間関まで、3里です。後少し・・。暑いけど頑張らねば・・・。
その先「才川踏切」で、山陽本線を越えて「長府・才川地区」へと
入りますが、城下町「長府」は、まだまだ先で「ひたすら直進」です。
「長府駅」を過ぎ、更に進むと、土塀のある旧家が散見され、城下町
の名残を感じさせる「長府・院内地区」となります。この先の左手に
俳人「田上菊舎」の居宅跡があり、その付近に一里塚があったようです。
小さな「院内川」を越えると「長府宿」で、一転して「無電柱化」
された広い道となります。右手「社寺が並ぶ一帯」が、かっては
「長門の国」の国府が置かれた所で、江戸期は「長府藩」の城下町でした。
寺院が並ぶ先に「仲哀天皇」を祀った「忌宮神社」がありますので、参拝しま
した。妻「神功皇后」は、九州・熊襲と戦い、敗死した夫「仲哀天皇」を悼み
夫が行宮(豊浦宮)を設けたこの地に祀ったのが、始まりとされる古社です。
広い境内のある大きな神社ですが、暑さの為か参拝客はいませんでした。
「忌宮神社」の裏手に「乃木神社」(大正8年)があります。長府藩士
「乃木希典」は、父の蟄居に伴い、江戸から長府に移り、数年を過ごして
います。境内には不遇時代の「乃木宅」が、復元されていました。
英雄「乃木(希典)将軍」も、今は諸説があるようです。
街道筋に戻ると「忌宮神社」の斜め前にある「中浜市場」付近に
長府宿の「本陣」があったようですが、遺構類は残っていません。
この先、街道は「総社交差点」を右折して進みますが、その手前の筋
「古江小路」に、江戸期の雰囲気が残っており、この小路を歩きました。
無電柱化された、気持ちの良い道ですが、土塀以外に古い建物は少く
右手「菅家・長屋門」が、代表的な江戸期の建物のようです。
街道筋に戻り「長府毛利邸」を右に見て左折すると「長府毛利家」
の菩提寺の一つ「功山寺」(鎌倉期)です。この寺は「高杉晋作」が
幕府派の萩政権に対して「クーデターを起した寺」として有名です。
高杉に呼応して集まったのは「伊藤博文」等84人でしたが、身分が
低く、寺側に入山を拒否され「山門前にたむろ」していたようです。
巧山寺の墓地には、大内家最後の当主「大内義長」や「三吉慎蔵」の墓
があり、境内には「回天義挙」をした「高杉晋作・騎馬像」もありました。
巧山寺を出ると「辻堂峠」です。「長府と赤間関を結ぶ」重要な峠道
でしたが、今は生活道路として整備されています。只、結構長いです。
峠を下って「前田地区」に入ります。山の斜面に開けた土地で
昔から、眼下に「関門海峡」を望む「絶景の地」でした。
写真の左側に、関門海峡が見えます。幕末には「砲台」があり
そこから、外国船を砲撃しましたが、逆に返り討ちに遭っています。
前田地区を一旦下りますが、又「火の山」方向へと、厳しい坂道を
登って行きます。間近に関門海峡と「関門橋」が見え癒されます。
海が、左下まで迫っていた地形なので、山越えしたのでしょう。本来の
道筋は、途中にあった「一里塚」を含め、住宅開発で、消滅しています。
街道筋は「火の山」の高台にある「ホテル・旅館街」を通り「壇之浦」
へと下って行くと、海辺を埋め立てた「みもすそ公園」に到着します。
公園には「下関戦争」で長州軍が使用した「カノン砲(模型)」や「源平合戦」の
モニメントがあり、関門海峡を眺めながら、暫く「避暑を兼ね小休止」しました。
国道9号線を挟んだ公園の右手に、海峡下を通って対岸の「門司と
下関を往来」する「人道トンネル」の入口があります、今回は、
失礼しましたので、以前(2012年5月)のものを、貼って置きます。
海峡の下を潜る「人道トンネル」です。観光客より、健康の為
に歩く市民が多い所で、何往復もする市民もおられるそうです。
国道9号線を歩いて行くと、右手高台に龍宮をイメージした「赤間神宮」
が見えて来ます。元は、阿弥陀寺(859年)で「安徳帝」の御影堂を建て
仏式で祀っていたのを、明治期に「仏式を廃し」神社に変更した所です。
ここには「長府」では見かけなかった「外国人観光客」の方を
多く見かけました。下関港から、直行便が出ているようです。
境内の左手奥の狭い所に「平家一門」の墓所や、阿弥陀寺が
舞台となった「耳なし芳一」を祀るお堂があり、参拝しました。
廃仏希釈の影響で、片隅に押し込められてしまってます。
赤間神宮の隣に「日清戦争の講和会議」の会場「春帆楼」があり、街道は
その角を右左折して進んだようです。角に「本陣・伊藤家」があり、そこから
「赤間関宿」でしたが、戦災と区画整理で、街道筋は消滅しています。
「本陣・伊藤家跡」です。大名やオランダ商館長、シーボルトや
坂本龍馬夫妻も訪れていますが、今は跡地を示す看板があるのみです。
国道9号線に戻り「亀山八幡宮」に参拝しました。かってこの辺は
海に突き出た所で、神社の周辺に、九州への「渡船場」や藩の
「船番所」があり、実質的には、ここが「旧山陽道の起終点」でした。
七夕を控え、風鈴や短冊を付けた笹等、賑やかな装いの神社でした。
公式資料には、この先にある「永福寺」前の一里塚が基点と標記され
ていますので、亀山八幡の裏手から市役所前を通って、永福寺へと向かい
ます。途中に「金子みすゞ」「馬関越荷方役所跡」の説明板がありました。
永福寺に到着です。何と!!以前は無かった「起終点」を示す石碑が右隅に
ありました。寺自体は空襲で焼失し、小さなお堂がこの上にあるだけですが・・・
猛暑の中、無事「永福寺」に到着です。暑い暑い約6時間の行程でした。
これにて「旧山陽道を歩く旅」は終了ですが、今は、生活道路で補修・舗装
さてた峠も多く、昔の「厳しい峠越え」はなく、比較的歩き易い旧街道でした。