他者と接しているときに
「どうしてそんなことくらいできないんだ。」
とイラッとしてしまうことがあります。
上司と部下という関係だったり
ときには
お客さんと応対する人という立ち位置だったり
親と子というつながりでのことだったり。
元気でやんちゃ盛りの男の子が
おかあさんの少し前を歩いています。
おかあさんは、男の子の弟か妹かを乗せたベビーカーを押しています。
男の子は、ポカポカするお天気にも上機嫌で
右に行ったり左に行ったり
ジグザグ楽しそうです。
そのおかあさんと前を行く男の子の後ろから
ちょっと勢いの良い車が走ってきます。
いち早く、その車の気配を察知したおかあさんが男の子に声をかけます。
「まーくん、後ろから自動車が来るから左に寄って、道路側に飛び出さない!」
ノリノリの男の子は
そんなことにはお構いなしではしゃいでいます。
おかあさんの横を車が通り過ぎて
いよいよ男の子に車は近づいていきます。
「あぶない!」
徐行をしない車の運転手もいかがなものですが
様子をうかがっていたぼくも一瞬ヒヤっとするような場面でした。
幸い事なきを得て
車は、何事もなかったように通り過ぎていきました。
おかあさんは
反射的に怒りがわいてきたのでしょうか
怒鳴り気味に叱りつけます。
「どうして言うこと聞けないの!危ないでしょ!、いいかげんにしなさい!
おにいちゃんのくせにそんなこともできないの!」
気持ちはわからないでもないです。
さて
この怒りの源はどこにあるのでしょうか。
ドキッと心配したから?
自分が子どもをコントロールしきれない歯痒さから?
しつけという名の教育的指導?
もしかしたら何度言っても言うことを聞かない我が子に単純にイラッとしてしまっているだけ?
こんな場面には
少なからず
日頃の会社勤めや生活でも遭遇します。
ある意味「相手の愚かさ」を
自分の思い通りに支配をして
変えてやりたい
と思う気持ちが
空回りし、打ち砕かれているような感覚が
怒り
という感情に変換されアウトプットされているのです。
相手を思いやる気持ちが強いばかりに
このような
怒りのスイッチをオンにしてしまうとも言えます。
ただし
このような場面で気を付けていないと
相手を追い込んでしまうという危うさがあるのです。
自分が言われたときに事を思い出してみてください。
「なんでできないのか。」
できないことを指摘され、叱られることは
すごく重く
ダメージが大きいです。
なんとなく自分の存在すべてを否定されたような気持ちにすらなります。
いつもこのような環境に置かれていると
負のスパイラルに陥っていって
萎縮してしまって
いよいよ
身動きがとれなくなってしまう。
ぼくも娘を叱ることがあります。
そのときに用いるものさしは
「あなたに接する人、携わる人に迷惑をかけたかどうか。」
「自分で納得して決めたルールを守れたかどうか。」
としています。
自分のうちなるところに湧き上がってくる欲を優先したかどうかみたいな
結構厳しい問いかけをしているのかもしれません。
でも
こうしていることが
信頼感を安定させていられているような気もします。
長期間の休みになると計画的な行動ができないこととか
要領が悪い部分があったりとか
親の期待するようにできないとか
こういうことには
悪意が存在しないということに気がついたからです。
そこを突くことは
自分が支配者であることを誇示したいという
いまでいう
パワハラの範疇なのではないかという気づきからです。
同時に自分たち親の育て方の検証という方向へ考えがいくようにになりました。
表現するコトバとしてはあまり好きではないのですが
脳が無いとか愚かというのは
すべての人がこの世に生れ出てきたときにはほぼ「無能で愚か」だったはずです。
もしかしたら
たかが百年程度生きたとしても
そんなに変わりがないのかもしれません。
教えられ
学び
痛い目をみたり
ほめられたりしながら
いまを生きているのです。
さてさて
今日もイラッとする場面に遭遇することでしょう。
そこに悪意があるのか
満員電車でグイグイ押されたとしても
改札口やエスカレーターで横入りされたとしても
きっと何かの理由があるのです。
相手に聞こえるように「チッ」と舌打ちして
ストレス発散したくなるかも知れません。
許すこと
許していいこと
自分のココロの余裕
イラッとしたのは
そのイライラのもとは
自分のせいかもしれません。
自分だって
はじめは
何もできなかったじゃないですか。
何も知らかなったじゃないですか。
甘やかすことと
教育することの
境界線
だからって
指導する立場の人
教育する役割の人が
臆病になってはいけません。
そこに
悪意がないのなら。
ほんとうのやさしさ
This is HASHIMOTO☆QUALITY