エキセントリックソリューションズ(株)          代表取締役社長のブログ -11ページ目

エキセントリックソリューションズ(株)          代表取締役社長のブログ

NO PASSION NO GLORY     This is HASHIMOTO☆QUALITY                                            

他者と接しているときに


「どうしてそんなことくらいできないんだ。」


とイラッとしてしまうことがあります。


上司と部下という関係だったり


ときには


お客さんと応対する人という立ち位置だったり


親と子というつながりでのことだったり。


元気でやんちゃ盛りの男の子が


おかあさんの少し前を歩いています。


おかあさんは、男の子の弟か妹かを乗せたベビーカーを押しています。


男の子は、ポカポカするお天気にも上機嫌で


右に行ったり左に行ったり


ジグザグ楽しそうです。


そのおかあさんと前を行く男の子の後ろから


ちょっと勢いの良い車が走ってきます。


いち早く、その車の気配を察知したおかあさんが男の子に声をかけます。


「まーくん、後ろから自動車が来るから左に寄って、道路側に飛び出さない!」


ノリノリの男の子は


そんなことにはお構いなしではしゃいでいます。


おかあさんの横を車が通り過ぎて


いよいよ男の子に車は近づいていきます。


「あぶない!」


徐行をしない車の運転手もいかがなものですが


様子をうかがっていたぼくも一瞬ヒヤっとするような場面でした。


幸い事なきを得て


車は、何事もなかったように通り過ぎていきました。


おかあさんは


反射的に怒りがわいてきたのでしょうか


怒鳴り気味に叱りつけます。


「どうして言うこと聞けないの!危ないでしょ!、いいかげんにしなさい!


 おにいちゃんのくせにそんなこともできないの!」


気持ちはわからないでもないです。


さて


この怒りの源はどこにあるのでしょうか。


ドキッと心配したから?


自分が子どもをコントロールしきれない歯痒さから?


しつけという名の教育的指導?


もしかしたら何度言っても言うことを聞かない我が子に単純にイラッとしてしまっているだけ?




こんな場面には


少なからず


日頃の会社勤めや生活でも遭遇します。


ある意味「相手の愚かさ」を


自分の思い通りに支配をして


変えてやりたい


と思う気持ちが


空回りし、打ち砕かれているような感覚が


怒り


という感情に変換されアウトプットされているのです。


相手を思いやる気持ちが強いばかりに


このような


怒りのスイッチをオンにしてしまうとも言えます。


ただし


このような場面で気を付けていないと


相手を追い込んでしまうという危うさがあるのです。


自分が言われたときに事を思い出してみてください。


「なんでできないのか。」


できないことを指摘され、叱られることは


すごく重く


ダメージが大きいです。


なんとなく自分の存在すべてを否定されたような気持ちにすらなります。


いつもこのような環境に置かれていると


負のスパイラルに陥っていって


萎縮してしまって


いよいよ


身動きがとれなくなってしまう。


ぼくも娘を叱ることがあります。


そのときに用いるものさしは


「あなたに接する人、携わる人に迷惑をかけたかどうか。」


「自分で納得して決めたルールを守れたかどうか。」


としています。


自分のうちなるところに湧き上がってくる欲を優先したかどうかみたいな


結構厳しい問いかけをしているのかもしれません。


でも


こうしていることが


信頼感を安定させていられているような気もします。


長期間の休みになると計画的な行動ができないこととか


要領が悪い部分があったりとか


親の期待するようにできないとか


こういうことには


悪意が存在しないということに気がついたからです。


そこを突くことは


自分が支配者であることを誇示したいという


いまでいう


パワハラの範疇なのではないかという気づきからです。


同時に自分たち親の育て方の検証という方向へ考えがいくようにになりました。


表現するコトバとしてはあまり好きではないのですが


脳が無いとか愚かというのは


すべての人がこの世に生れ出てきたときにはほぼ「無能で愚か」だったはずです。


もしかしたら


たかが百年程度生きたとしても


そんなに変わりがないのかもしれません。


教えられ


学び


痛い目をみたり


ほめられたりしながら


いまを生きているのです。


さてさて


今日もイラッとする場面に遭遇することでしょう。


そこに悪意があるのか


満員電車でグイグイ押されたとしても


改札口やエスカレーターで横入りされたとしても


きっと何かの理由があるのです。


相手に聞こえるように「チッ」と舌打ちして


ストレス発散したくなるかも知れません。



許すこと



許していいこと



自分のココロの余裕



イラッとしたのは


そのイライラのもとは


自分のせいかもしれません。


自分だって


はじめは


何もできなかったじゃないですか。


何も知らかなったじゃないですか。



甘やかすことと


教育することの


境界線


だからって


指導する立場の人


教育する役割の人が


臆病になってはいけません。


そこに


悪意がないのなら。




ほんとうのやさしさ




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昨日のブログ記事を読んだ方、複数から


「めずらしく怒ってませんでした?」とか


「なにか、イヤなことがあったのでしょうか。」


というような感想を頂戴しました。


実は、一つ


いつもは意識的に使わないひとつのコトバを仕込んでおいたので


敏感な方は、違和感を感じてくださって当然だったのです。


もちろん


怒ってなどいませんし


ストレスのはけ口にしたつもりもありません。


その違和感の正体は


「ヤツ」


というひと言です。


人を対象にしたときのネガティブな表現のときに


いままで決して使ってこなかったコトバです。


「おもしろいヤツ」とか


「かわいいヤツ」のように


好意的な文章ですら


ほとんど使っていなかったりもしますから


ぼくの書く文章のテンポや


リズムからすると


途轍もない


不協和音を発しているのですから


当然なリアクションなのです。



テンポというキーワードで


思いついたことがあります。


年間何百人とという方とお会いさせていただきコミュニケーションをとらせていただいています。


その中で


なかなか感じることのできない


心地よいテンポのミーティングが今日ありました。


いまでも気分爽快です。


初対面で


この感覚は、この先の明るい未来を暗示しているのではないかというような


そんな感覚です。


まあ、ぼくが必要以上に余計なツッコミを入れなかったこともあるかもしれませんが


求めているものに対する


アウトプットが


それこそドンピシャで


さらにこうだったらイイのになぁっていう部分まで提案に含まれているという


小気味良さ。


そもそもアクセス開始からのスピード感に


予感はありましたが


素晴らしいものでした。


「ぼくも気が短いから先に言っちゃうけど。」という気の利いた枕詞のあとに


イエス


ノーを


今回は、イエス+αでしたが


明確に表明されたのです。


もちろん


これがゴールではなくて


スタートの


さらにもう少し前の準備段階かもしれませんが


やっぱり良いイメージがむくむくと湧いてきます。




テンポや


リズム


たとえば歩調を合わせるとか


呼吸を合わせるってことで


こんな簡単なことで


相手のことが


今まで気が付かなかった


ことが


感じられたりします。


ただし


いつも


こんな風じゃなかったりもするので


人生は


楽しいと言えるのでしょう。


そして


カタチあるものに仕上げること


これ重要です。




あなたの周りにいませんか


アイディアだけで終わってしまう人。


能力だけ見せびらかせて


単なる時間の無駄遣いをしているコンサルタントもどきさんは。





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何らかの理由で、複数の方々にメールを送信する機会があります。


スパム判定されてしまうのような一斉送信の営業メールというのは基本的に送信することはないですから


それぞれの相手にむけてというか、そのひとり人のことを思い起こして


ご縁をいただいた感謝であるとか


業務連絡とか


仕事の依頼などをしたためます。


もちろんそのような場合は


CCやBCCというような便利という皮をかぶった手抜き作業は無しです。


ここで仮説というか


過去からの経験も含めて


送られたメールに対するリアクションについて仮説検証をおこなっていたりもします。


効果測定などというコトバがありますが


自然にというか、異なる場面でレッスンを積んできていることもあったりするので


こんな些細なことで自己完結型(または自律型)の行動が磨かれたりもします。


ここでのリアクションの仮説は


誰から


どのタイミングで


返信があるのか(または無いのか)というような


単純なことです。


いただいた名刺を見ながら、そして出会いのときを思い出しながら


たとえば


○○営業部部長さん


この人きっと返信が一番早いな。



○○代表取締役さん


この方は、返信が無いか、あったとしても社交辞令程度の内容かな。



○○代表取締役社長さん


きっとノーリアクションでしょう。



これには


お会いした時の感触というか


お話をしたときのリアクション


その方にとって、自分は興味を持っていただく対象であったか


というような最初のスクリーニング(ふるいかけ)をしていたりするので


的中率は比較的高かったりするのですが


長いことこんな風に半分遊び感覚で効果測定もどきみたいなことをしてくると


おもしろいもので


見えてくることがあったりします。



それは


あるレベルのポジションに就いてしまったことで


受け身になってしまっている人があまりにも多い


ということです。


これは、自分自身でも気をつけていることなのですが


組織のトップになった途端に


勘違いがはじまってしまうという


誘惑と落とし穴です。


ぼくは、自分に携わるスタッフにも


営業部隊のテコ入れのコンサルティングやセミナーでも


必ず伝えていることがあります。


「あなたたちの都合とお客様の優先順位は同じものさしで測れない」


同じように


電話の受け答えを聞いていて


ハラハラすることがあります。


「申し訳ありません、バタバタと忙しくてご連絡が遅くなってしまって・・・。」


苦し紛れの言い訳をいっしょうけんめいしてくれているのはわかります。


対応は個人ですが


やっぱり一人一人が会社の看板を掲げてアクションを起こしていることにはかわりがなくて


良くない対応については


謝罪ではなく


それが、わけのわからない状況説明(のような言い訳)であったとしても


抵抗してくれているのは


ありがたいことかもしれません。




などという手前勝手な言い分など通用するわけがないのです。




チカラを使わなければならないところは


そこではなくて


電話やメールが来たら


すぐに出られなかったり


メールの確認ができない状況だったり


内容が無理難題だったとしても


自分で抱え込まずに


アウトプットが準備万端に整わないとしても


連絡をいただいたということに対して


受け取りました。と


相手のいわば「承認欲求を満たすこと」を優先しなければなりません。



コンサルティングという仕事柄


こういう方々とお付き合いするケースが少なくないのですが


返事がないのは元気な証拠、みたいな半世紀くらい前の感覚でいる人が多いことに

いまでも頻繁に驚いています。


電話をしても(携帯電話の場合、よほどのことがない限り着信履歴が残ります)反応無し


メールに至っては(ぼくは、開封通知設定をすることを好まないこともありますが)


メールが届きましたかと


電話連絡をする始末。


そしてお決まりのセリフ


「あ、来てます来てます。」


もっと凄いのが


「すみません、メール来てるのは気づいていたのですがまだ見てません。」


会社の代表者と担当者レベルの間柄でも


平気でこのようなリアクションををしてしまう。


もちろんこの逆もあって


社長だから忙しいので


いちいち返答してられないみたいなケース。


これもいただけない。


これだけはハッキリと断言できます。


仕事ができる人は


リアクションが早くて


かつ丁寧であるということです。



あれあれ


あなたのメールボックス


未開封だらけになってませんか。



自分の都合を優先して


礼を失するような状況になっていませんか。



大好きな人からのメールだったら


どんなふうに対応するのでしょうか。



なぜ


それと同じように


できないのでしょうか。



仕事だから?




そういうヤツに限って


誰かのツイッターの更新を知らせる着信音が


頻繁に鳴っているから


おかしなものです。






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昨日は、いっさいの情報発信を控え


身も心も


黙とう


することにしました。


京王線に乗る機会はあまりないのですが


14時46分に全線で電車を30秒間ストップさせたそうです。


震災を風化させないという意思表示と


動いているものを


すべて止めてみたときに発生するであろう


さまざまなことの検証をされたようです。


表現が適切ではないかもしれませんが


実のある


すばらしいアクションだったと思います。


巷では


この一年を総括するコトバや文章やイベントなどがたくさんありました。



決して無かったことにはできないリアルを省みて、噛みしめて


思いを新たに


前に進んでいきましょうというもの



とにかく


自分の中でケリをつけてしまいたい


できうることなら記憶の奥底にしまいこんでしまいたい


そんなニュアンスを内包するもの



もうこんな不安な状態は耐え難いと


自らの不安感を


他者批判というカタチに変換しているもの



「いまは、あの時の映像なんて見たくないからながさないでくれ。」という悲痛な叫びもありました。



生活の利便性を支えていたはずの原子力発電所が


突如として


目に見えない恐怖になってしまったような雰囲気もあります。



いろいろなことをさらに考える日曜日だったと思います。



去年の6月にボランティアに行った


南三陸町志津川で体感したすべての事柄が


いまでも忘れられません。


写真を撮ることができるカメラやケイタイを持っていましたが


恐ろしさもみたいなものもあったのかもしれません


それよりも


なんだか申し訳ないような気持ちが湧きあがってきて


カメラを向けることすらできませんでした。


圧倒的なリアルの前に


ただただ怯んでしまったのかもしれません。


昨日も何度も現在の志津川の映像が目に飛び込んできました。


がれきはすっかり無くなっています。


同時に


そこには


いまも


何もありません。


街の姿も


住んでいた方々の生活も


人生もです。



復興には


何が必要なのか。


ぼくたちにできることは何なのか。


改めて


考えさせられる


そんな一日でした。



今日も


新しい朝が


新しいいのちを


はこんできてくれています。


大切に


一日を


生きていきます。





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たしか今年度のオスカー発表の前日だったと記憶しているのですが


今日みたいに雨の降る土曜日。


映画館で映画を観るということが


好きなオヤジは


高校進学が決まった娘を誘って


映画でも観に行こうと思いつくわけです。


雨の日に、です。


娘と二人で観に行く映画は


どちらかというと


ハリウッド系のメジャーなものが多かったりするのですが


彼女は、ぼくがいわゆる単館系の作品を好むことを知っていて


ぼくが提案する映画は、ちゃんと彼女のニーズをも満たすものであることを知っています。


オフタイムは


思いつきで行動することが多かったりするのですが


最近は映画のチケットもネットで購入(予約)ができたりするので


そういう意味では、少しだけ計画的になります。


もちろんせっかく観るのなら


自分たちのスペック(メガネをかけているとか)にあった見やすい座席を確保できることは


ありがたかったりもします。


検索をスタートした時にアタマにあった映画のタイトルは


『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』


でした。


トム・ハンクス、サンドラ・ブロック、少年役のトーマス・ホーン、脇をかためるマックス・フォン・シドー


「愛を読む人」「リトル・ダンサー」「めぐりあう時間たち」という珠玉の作品を生み出し続けるスティーブン・ダルドリー監督


脚本は「フォレスト・ガンプ 一期一会」のエリック・ロス


チョイスする理由は満載です。


たしか、オスカーにもノミネートされているし。


さらに、先日、映画を観に行った彼女が、予告編がおもしろそうだったと言ったことが優先順位を押し上げていたりもします。


そして


予約をして


観た映画が


この映画です。

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オヤジは、ハズし方のテクニックを心得ています。


しかもサプライズを含む


楽しめるハズし方を。


この映画を観る前に


彼女はこの映画のことを


「過呼吸の映画」と表現していました。


新宿のバルト9は


満席で


カップルや小学生くらいの女の子を連れたおとうさんやおかあさんが多かった印象ですが


AKB48が現在いかに幅広い年齢層に支持されているのかを物語っています。


娘にも話したのですが


「もしかして、この3番シアターの中で、ぼくが最年長かもね。」


映画がはじまりました。


内容は詳しく書くことはしませんが


出だしから


アタマの中を


ぐらんぐらんと揺さぶられて


上映二時間で


三度ほど


涙が出てきました。


オヤジ化がすすんでいて


涙腺がゆるくなっていることも否めませんが


この涙は


少女たちのけなげさと


明日で一年が経過する


東日本大震災の


まさに


ドキュメンタリーだったからだと思います。


いかなるインタビュー素材やリアルな画像も


VTRや映画を編集した時点で


作り手の価値観のフィルターに通されることになります。


すなわち、実際の声や実際の姿であっても、それは“作られた事実”なんじゃないのか、という人もいます。


マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』のやり方と同じとか


そんな評論はクソくらえという感じです。


AKB48というコンテンツが持つ集客力で


今回の震災のログが


風化されることの無いように


多くの人のアタマに刻まれることとなるでしょう。


この映画の収益が何に使われているのか


説明の必要など無いでしょう。


明日は


3月11日です。


一年前の今日


3月10日に


自分は何を考え


何をしていたのでしょう。


そして


3月11日以降


何を思い


何が変わり


いま


何をしているのでしょう。


そんなことを考えるのに


イイ感じに


今日も


雨が降っています。




『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on』





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