今の私をつくったり、物事を考えたり、決断するための価値観に大きな影響を与えた出来事のひとつは東日本大震災だと思う。
震災当日(3月11日)、私は高校教師として、修学旅行の引率のため東京はお台場にいた。
午前中でお台場研修を終え、バスで羽田空港へ。福岡行きの飛行機に乗り込み、15時頃福岡空港に到着した。
到着ロビーに到着すると、何か騒然としていた。
大きな声と慌てた表情で携帯電話で会話をする人、テレビの周りには「あー、あー」と発したまま開いた口を手で押さえる人、、、それ以外の行動をしている人はいなかった。
慌てて携帯電話の電源を入れると、ものすごい数の着信が残っていた。
地震発生直後、お台場(フジテレビ)で発生した建物火災の映像が、緊急生放送で放送されたために、生徒たちの安否を心配する保護者などからの着信だった。
ロビーのテレビをのぞくと、大きな船や、コンテナが津波によってくるくると回転しながら流されていく様子が映し出され、何か言葉には表現できないモヤモヤとした不思議な感覚の後で、はっと「とんでもないことが起きた」と思った瞬間、ひざがガクガクと震えた。
生徒たちを早く家族の元に返さなくてはと思ったし、家族に会って安心させたいと思った。
当日、翌日と日を追うごとに地震の甚大な被害状況が伝えられた。
その中で、ディズニーランドにおける地震による液状化現象、携帯電話の不通などで、観光客の避難や対応に関する情報も伝えられた。
震災前日(3月10日)は、午後からディズニーランドで自由行動だった。夜9時までに一駅隣のホテルまで帰ってくるという行程だった。
引率する教員も、園内の見回りや駅周辺での案内、ホテルでの受付など、それぞれの役割で動いていた。
「もし、3月10日震災があったとして、生徒たちの命を守れただろうか?!」
教師同士の携帯も音信不通で連絡が取れない、生徒たちも自由行動(園内にいる時間ではあったが)、学校への連絡、学校から保護者への連絡や保護者からの問い合わせの対応など。
教師として大切な命を預かっているという感覚に欠け、これまで危機管理について私自身深く考えたことなく過ごしてきた事実にはっとした。
学校の先生の主な仕事は「授業」といわれる。
その日から私の考えは、命あっての授業と考えるようになった。(授業を手を抜くと言うことでなく。授業に10の力を要するなら。生徒たちの命を守ることについては、それ以上の11を要するということ。)
4月、新年度を迎え、1年生、2年生と担任したクラスを、3年生でも受け持つことになり、福祉科の教員である私が担当する「課題研究」という授業で、生徒たちと「東日本大震災から考える社会福祉の課題」を大テーマに、8つの班ごとに「衛生面の問題」「被災地の高校生」「佐世保で震災が起きたら」などの小テーマごとに震災について学ぶことになった。
生徒たちの疑問や指摘は純粋で真っ当なことばかりだった。
行政当局(佐世保市)に対して電話インタビューを行った生徒は、期待していたような積極的な取り組みはされていないことを知り、「ありえない」と怒りをぶつけたりもした。
繰り返しになるが、私私自身も災害について専門的に学んだこともなかったので、災害に関するセミナーや講演会にも可能な限り参加した。
恥ずかしいことだがそこで知ったのは、「阪神淡路大震災のような大規模かつ広域で災害が発生した場合は、「公助」というのは機能しない(通常なら通報から10分以内で駆けつける救急・消防も震災では全ての現場をカバーきない)」ということや、ご近所同士の助け合い(共助)や何よりも自分の身は自分で守る自助が大事など、「公助、共助、自助」という基本的なことから学んだ。
年が明けて2月末に卒業式を終え、「1年生、2年生の授業は時間割を変更をしてもらって、すべて授業を行うので1週間休みをください」と教頭先生、校長先生に申し入れた。
「被災地でボランティア活動をしてきます」と理由を伝えると、「気をつけて、私たちの分まで頑張ってきてください」と研修(出張)扱いで送り出してくれた。
災害ボランティアは様々な団体が展開していたが、自分を活かせる活動内容は何かと検討した結果主な活動として、子どもたちの放課後の学びと遊びの場づくりを展開する「日常支援」と、子どもたちや地域の方を元気づけるイベントの企画・開催を展開する「非日常支援」を行っていた「プロジェクト結」さんの活動に応募した。
活動の拠点「石巻市」に到着後、石巻市内を車で周りながら、震災から1年後の現状の説明を受けた。
そして、はじめての作業のために通された建物の中に入って衝撃を受けた。
そこには、全国各地の企業、自治体、個人から届いた様々な支援物資が山積みされていた。
全国各地、世界中から純粋に「力になりたい」「助けたい」という気持ちや、一人ひとりが被災地のことを思って行動した「善意」が、1年たっても支援物資の整理が追いつかず、行政職員も本来やるべきことに専念できず、復旧、復興を遅らせる要因になっているということを初めて知った。
善意は処分するのも難しく。また大量に余った物資を住民に配布すれば、地元商店などの経済活動の復興の妨げにもなる。
保管するための倉庫を用意するための費用、大量に送られた古着など物資の処分費用も被災地の財政負担になっている。
でも、善意の結果だから、自治体は「ありがとう」とは言えても、「遠慮します」とは言えず、心で泣いて、でも笑顔で受け入れるしかない。しかし、冷静に考えてみると、自治体の負担はすべて税金だから、結果として被災者、そうでない支援者みんなの負担でもある。
例えば、1993年の北海道南西沖地震では、衣類だけでも約1,200トンが不要となり焼却処分され、その処分費用約1億2千万円が自治体の負担と報じられている。
いずれにせよ、東日本大震災発生直後から、報道で伝えられてきたのは「善意の輪広がる」とか「恩替えし」とか「自分にできること」とか、支援物資については、被災者も被災地も「喜んでいる」「助かっている」という報道を真に受けていたので、大量の支援物資の山にショックを受けた。
同時に、善意=善行とは限らないということや、「自分は誰かの役に立っている」「困っている人の力になっている」という自己満足に浸っていないか、本当に被災者のためを思うことは何か。自問自答しながら、自己嫌悪を感じながら、災害支援の難しさを痛感した。
そして、先週発生した「熊本地震」。
まず、マスコミ批判をしても仕方がないが、冷静に各マスコミの報道を見聞きしながら腹立たしく感じることは多かった。
「行政は対応を早く」と伝える報道番組の現地レポーターやスタジオのキャスター、解説委員…
災害の度に、「災害報道のあり方(問題点)」について指摘はされるが、過去の教訓をどういかしてきたのだろうか。
「何が足りませんか」と被災者にマイクを向け、「水、食事ですね…」という当たり前の答えを引き出して、「とにかく物資が足りません、国をあげての対応が急がれます」と被災者に聞かなくてもごくごく当然なことを伝える。
熊本県内の宅配がストップしていると報道しながら、物資の送り先として、具体的な市町村役場と住所をフリップに出して紹介する。
翌日の報道では、「物資が大量に届いて配送が滞る」「人手が足りない」と報じる。
マスコミが「物資が足りません」と具体的に紹介した避難所に、個人や団体が届けた物資が集まり、翌日には「物資が余ってる」とか「避難所によって格差が」と人ごとのように伝える。
被災者や県外で心配する家族に必要な情報を早く正確にわかりやすく伝えることよりも、芸能人が寄付したと、支援を表明したとか、、、「絆」とか感動物語を伝える。
私はマスコミ評論家ではないし、批評家でもないので、マスコミについてはこれ以上は言わない。
ただ、この1週間、被災地自治体(市町村)、そして県、国(政府)はどのように対応するのか。
その危機対応は注視してきた。
そして、佐世保市を含めた周辺自治体の連携や支援体制についても注視してきた。
私にできることは何か?すべきことは何か?
私は佐世保市の議員だからこそ、佐世保市の行政と、市民のつなぎ役として今だからこそ佐世保市にの防災について考察を深めてみたいと思っている。
ひとつ、はっきりわかったことがある。
それは、地方自治体は防災や災害対応の素人集団ということ。
消防、警察、自衛隊など常に万一に備えて訓練を繰り返している専門組織はプロだが。
その指揮をとる県知事、市長、町長は、政治家でそれぞれ在任中に大規模な災害を経験する方が稀である。
当然のことながら、人は、失敗から学び、経験が人を育てる。
しかし、このような大規模災害は、一発勝負で、物事を把握するスピード、判断するスピード、修正するスピードなど、スピードと正確さが求められる。
それを支える行政職員も、技術職や専門職以外の職員は事務屋だから、防災の専門家はいない。
佐世保市の防災行政を取り仕切る「防災危機管理局」だって、人員は6名で、選挙管理委員会よりも人員は少ない…
今現在も、4月16日に設置された「佐世保市災害警戒本部」が24時間体制で設置されているので、6名の職員がローテンションしながらの勤務が続いているから、体調も心配される。
現在、佐世保市からも、災害派遣で職員が被災地で業務に当たっているが、私は危機管理局の職員を派遣し、派遣業務を兼ねて視察させ、佐世保市の防災計画である「佐世保市地域防災計画」どおりで十分なのか、改善、見直しは必要はないのかなど、防災危機管理に最前線で対応する職員ほど、肌で感じてほしいと考えるが、現在の人員と業務では無理であろう。
地方自治体は、防災や災害支援の素人集団と言葉を使ったが。
なぜなら、経験の機会がない。
あったとしても政治家は引退(3期で12年)するし、職員も定期的な異動で防災や災害対応だけに携わることはない。
それに比べ、九電をはじめ電力、ガス、水道、道路、鉄道、空港、など各種インフラ。
コンビニ、スーパーなど小売りやそれを支える物流。
災害支援団体など、数々の災害現場での経験を教訓として、万一に備えてきた。だからこそ、復旧作業の手際の良さは、行政はまったく及ばない。
「行政は何を活かしてきたのか?」という批判をしがちな私たち市民も過去の震災から同じように学べていないと思う。
阪神淡路大震災の経験、新潟中越沖地震の経験、東日本大震災の経験。
「被災地のためにできること」は一生懸命に考えて行動(募金、ボランティア)したが、「もし自分のまちで災害が起きたら」について考え、備えた人はどれだけいただろう。私も反省している。
長くなったが、熊本、大分には、毎年野球で交流をしている先生方、生徒、そして恩師や友人もいる。
避難所生活をされながら、必死に復旧を支えている。
被災地の復旧に寄り添いながら、同時に自分たちのまちの災害対応についてしっかりと考え、行動することが政治と行政の責任だと思っている。