八ヶ岳 随筆 亀盲帖

八ヶ岳 随筆 亀盲帖

曲草閑人のブログ

 去年の夏の終わり頃、岐阜のよーこの実家に行った。よーこ本人は老父の面倒を見る為に毎週のように行ったり来たりしているが、自分が行ったのは何年ぶり、いや何十年ぶりだったかも知れない。よーこの実家は明治時代から続く洋風の大邸宅で、いったい何部屋あるのかもわからない。実際に敷地内には母屋であるバカデカイ本宅の他に、アトリエ棟、お蔵、別棟などがあり、先日もよーこ本人が知らない2階建ての建物を発見して、それが自分のうちの敷地内にある、我が家の一部であることを知って驚いたという、まるでホラーとかオカルト映画のような、信じられない話があったばかり。

 

 そんな異世界の家に自分が行ったのは、室内の片付けと整理のお手伝いの為で、そこには何か掘り出し物はないかしらという期待があったからだ。時間もあまりなく、結局殆ど何のお役にも立てなかったが、見つけ出した幾つかの陶器と、何冊かの本をいただいた。その本の中に『エクソシスト』があった。

 

 

 表紙を見ると、不気味なイラストではあるものの、まるで児童文学のような雰囲気。ハードカバーでしっかりと厚みも有るが、どうせ大きな文字で挿絵が入っていたり、行間も空いたスカスカの中身であろうと想像した。パラパラとページをめくって、思わずおお!と声が出た。比較的小さな文字がギッシリ上下二段に組まれた、かなりのページ数の大作だったのだ。

 

 

 1973年に公開された、ウィリアム・フリードキン監督、リンダ・ブレア主演のオカルト映画の大傑作『エクソシスト』は、もちろん何回も観ているが、原作を読んだことはなかった。みつけたこの本は、ウィリアム・ピーター・ブラッディ著の、正に映画の原作だった。これは読みたい!

 

 本をもらってから随分日にちが経ったが、先日漸く読み終えた。期待以上の大傑作であった。実に素晴らしい小説だった。この原作を、見事に映画化したウィリアム・フリードキン監督も凄い。原作も映画も、オカルト好きにはたまらない、歴史的名作と言えよう。読後の余韻に浸っていた時、偶然にも、劇場で『オーメン・ザ・ファースト』という新作オカルト映画が公開される運びとなった。

 

 

 『オーメン』は1976年に公開された、リチャード・ドナー監督、グレゴリー・ペック主演、ジェリー・ゴールドスミス音楽の、これまたオカルト映画の大傑作である。1970年代に公開されたオカルト映画の三大傑作は『エクソシスト』『オーメン』『サスペリア』の三本だと言われているが、自分はこの『オーメン』が抜きん出て好きで、オカルト映画の最高傑作だと思っている。今回公開されるのは、その「続編」ではなく、「前日譚」だという。

 

 『オーメン』ファンとしては、絶対に観に行かなくてはならない。『エクソシスト』の原作を読み終えたばかりで、自分のオカルト熱が盛り上がっているところでの新作オカルト映画の公開ということで、ワクワクした。

 

 ただ、ちょっと前に、最近原作を読み終えたばかりの映画『エクソシスト』(1973年)の続編にあたる『エクソシスト信じる者』という新作映画が公開され、もちろん映画館に観に行ったのだが、ハッキリ言ってガッカリだった。個人的には駄作と言ってもいい。

 

<原作の小説と、続編映画のパンフレット>

 

 だから、これから公開される『オーメン』(1976年)の「前日譚」という『オーメン・ザ・ファースト』も、あまり期待をしてはイケナイ。今時の映画だから、古い時代の映画ファンである自分にとっては、期待外れであるという事も覚悟しようと、自分に言い聞かせて、映画館へ向かった。

 

 

 日曜日の夜のレイト・ショウ。映画が始まるのは午後の10時から。終わるのは深夜0時近くだ。オカルト映画を観るには実にお似合いの時間帯である。席に着いてドキドキしながら始まりを待つ。静まり返った他の席をぐるりと見渡すと、客は我々夫婦を含めて5人。広い映画館にたった5人。うひゃ~、コリャますますオカルトっぽくてイイね!

 

<この日この時間に『オーメン』を観にきたのは5人だった>

 

 約2時間の映画を観終る。果たしてその感想は・・・。合格! 面白かった。幾つかの疑問点、突っ込み所はあるものの、全体的には良く出来ていて、「前日譚」というだけに、1976年のオリジナルにちゃんと繋がり、登場人物も辻褄が合うよう同じ人物(もちろん役者は違うが)が何人も出てくる。期待していなかっただけに、大満足の作品であった。これなら大いに期待して出かけていたとしても後悔しなかったはずだ。

 

 家に帰り、さっそく買ったパンフレットを読む。映画を観に行くと必ず記念にパンフレットを買うのだが、内容はあまり期待できない。パンフレットを読んで、感じた疑問点が解決することは、まずない。今回も同様で、役者のインタヴューなどは載っていたいたものの、自分が感じた幾つかの「?」は「?」のままだった。

 

 その後、自分のコレクションの中から1976年の『オーメン』のオリジナル・サウンドトラックのCDを探し出す。

 

<1976年の『オーメン』のオリジナル・サウンドトラックCD>

 

 CDをかけると、ジェリー・ゴールドスミス作の、あの不気味なサウンドが部屋いっぱいに広がる。ジェリー・ゴールドスミスは、この作品でアカデミー音楽賞のオスカーに輝いた。グレゴリオ聖歌を元に作られた悪魔の讃美歌は、いつ聞いてもおぞましく恐ろしくも、美しい。

 

 今回の新作の『オーメン・ザ・ファースト』でも、エンディングでこのオリジナル・サウンドトラックが荘厳に鳴り響いた。オリジナルの『オーメン』にちゃんと繋がっていくのだ。出来る事なら、このままの続きでオリジナルの『オーメン』を観たかった。この2本を連続で観たら、今回感じた幾つかの「?」も解消するかも知れない。

 

 ここ最近、オカルト・ブームなのか、けっこう短い間隔でオカルト映画が公開されている。『ヴァチカンのエクソシスト』に始まり、『エクソシスト信じる者』そして『オーメン・ザ・ファースト』。もちろん全部映画館に観に行った。自分的感覚では、出来の善し悪しはあったが、オカルト・ファン達にとっては喜ばしい事だ。物語性と裏付けがしっかりしたオカルト作品は、ただ怖いだけでなく、芸術性も高い。これからも質の良いオカルト映画が製作されることを期待する。

 

 因みに「オカルト」と新興宗教などの「カルト」とは全く意味が違う。「オカルト」と「カルト教団」を混同している人が居るが、テレビ局などにクレームを入れる前に、ちゃんと調べて勉強して欲しいものだ。

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解からない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」

 内田百閒の代表作『冥途』の書き出し。

 

 内田百閒(1889年 - 1971年)は、夏目漱石の門下生の一人で、不可解な恐怖を幻想的に描いた小説や、不思議な体験などの随筆を多数執筆し、名文家として知られる作家。同時代の作家である江戸川乱歩と比較されることもある。

 

 

 内田百閒は、自分の大好きな小説家の一人。この百閒先生の名随筆の一つに『御馳走帖』という作品がある。大酒呑みでくいしんぼうの百閒先生が、食べ物にまつわる体験やエピソードの短編を纏めた随筆集。この『御馳走帖』の中に「大手饅頭」というタイトルの話がある。

 

 百閒先生は、岡山県出身。その岡山県の名物に「大手饅頭」という饅頭があり、東京暮らしの百閒先生は、子供の頃から好物だったこの故郷の饅頭を、食べたくて食べたくて、夢にまで見るというお話。

 

「私は度度、大手饅頭の夢を見る。大概は橋本町の大手饅頭の店に這入って、上り口に腰を掛けて饅頭を食ふ夢である。」

 

 という書き出し。自分は岡山県に行った事はなく、大手饅頭なるものを見た事も食べた事もなかった。大好きな作家である百閒先生が夢にまで見る饅頭とは如何なるものか。ずっと昔から、一度、食べてみたいと思っていたが、そんな機会はなかった。

 

 先日、岡山出身という人が、会社にお土産として、なんと大手饅頭を持って来た。その御裾分けに与かり、遂に大手饅頭なるものを、食べる時がきたのだ。

 

 おお! これが大手饅頭か。
パッケージを見ると、想像したものより随分と小さい。こんな小ぶりの饅頭だったのか、と思ったが、百閒先生とは時代が違う。
その記述の中に、

 

「子供の時は、普通のが二文で、大きいのが五文で、白い皮の一銭のは、法事のお供えだと思った。」

 

 とあり、だいぶ様変わりしているのだろうと想像できる。
もらった饅頭のパッケージを見ると
『創業天保八年 大手饅頭伊部屋 岡山・京橋』
と印刷されており、百閒先生の通った橋本町の店ではないようだ。

 

 

 百閒先生が食べていた「そのもの」ではないにしろ、それこそ夢にまで見ていた大手饅頭が手に入った。店が違っていても、岡山県の名物ということで、基本的な味には変わりあるまい。

 

 さあ、お茶にしよう。とっておきの美味しい緑茶を入れ、饅頭のパッケージを開き、お皿に乗せる。
 はは~ん、こういうタイプの饅頭なのね。餡子に薄皮が貼りついている。きんつばのようなものかな?ということは、殆ど、餡子を食べる感じかな。

 

 

 自分が百閒先生の随筆を読んで想像していたのは、酒饅頭のようなものだった。それなりに皮がしっかり厚く、蒸し上げて湯気が出ているようなイメージだった。想像していた姿とはまったく違っていた。

 

  なにはともあれ、食してみよう。パクッ。うんうん、おお、なるほどなるほど、美味い。薄皮が貼りついたこし餡は、実に上品な甘さで、くどさが無い。第一印象で、餡子だけを食べるような見た目に、甘くてくどそうだなと思った。自分は、左利きというほどではないにしろ、あまり甘すぎるものは、得意としない。しかし、この饅頭は好みだった。小ぶりだったことも良かったのかもしれないが。

 

 

 これは気に入った。流石は食通の百閒先生好みである。おかげで、久しぶりにゆったりしたお茶の時間を過ごせた。ゆったり、まったり、お茶の時間をしていると、その後ろにブーシカが寝ている。大手饅頭とネコ。まるで、内田百閒の世界をそのまま表しているような絵だ。

 

 なぜならば、百閒先生のネコ好きは、これまた有名。自分の愛猫のことを綴った随筆、『ノラや』、『クルやお前か』、は猫文学の代表作の一つとなっている。師の漱石が書いた『吾輩は猫である』を蘇らせ、その続編の『贋作 吾輩は猫である』も書いている。

 

 

 ただ、大手饅頭を気に入ったからと言って、また明日買いに行こうというわけにはいかない。なにしろ岡山の名物であるのだから。今時は、おそらく、ネット通販などで取り寄せる事は容易なのかも知れない。でも、それをするつもりはない。地方の名物はその地方で食べるか、もしくはお土産でもらうかの、どちらかがいい。何時でも何処でも手に入ると、その有難さが失われ、情緒も無くなる。だから、この次に再び大手饅頭を食べるのは、自分が岡山県に遊びに行く時か、誰かがお土産としてぶら下げて来た時になろう。

 

 そもそも岡山県は、大手饅頭とは直接関係なく、自分の幾つかある、昔から行ってみたい土地(県)の一つ。内田百閒という、実に不思議な感覚を持つ作家の、その根の部分を育んだ土地とは、如何なるものか。謎に満ちた風土や風習、信仰や民間伝承が、深い部分に残っている土地(県)には、非常に興味が有るのだ。

 

 いつの日にか、岡山を旅することがあれば、お店の「上り口に腰を掛けて饅頭を食ふ」というのを、やってみたい。百閒先生の通った時代のような雰囲気の店構えは、おそらくもう残っていないのだろうが・・・。

 

 

 

 

 

 

 先日、映画を立て続けに2本観に行った。前々から観たかった映画だったのだが、調べると両方とも後数日で上映が終わってしまうと知って、慌てた。だから二日連続で映画館に行くことになった。

 

 

 初めの日に観たのは『エクソシスト 信じる者』。

キリスト教系のオカルト映画には目が無い。もともと宗教学が好きで、ずっとやっているのだが、中でも様々な宗教に登場する悪魔や邪神と呼ばれる存在が、自分の中の文化人類学的興味の対象なのだ。だから、ただ単にコワイ映画を観たいというのではなく、脚本の出来や宗教的裏付けの緻密さなどが重要となる。やたらに怖がらせようと血まみれにしたり、恐ろしいメークの存在が出てきて怖がらせたり、大音量でビックリさせたり、キャーキャー!ワーワー!というだけの作品は下の下と評価してしまう。

 

 

 で、今回の映画を観た感想は・・・、う~ん・・・イマイチ。

1973年に公開された伝説的名画『エクソシスト』の続編というふれ込みだったが、どうも背骨が無いという感想だ。少女二人が悪魔に憑りつかれ、家族たちが愛で救おうとするストーリーなのだが、各エピソードや設定が散漫で、宗教的な裏付けの緻密さがない。そもそも、最も大事な、憑りついた「悪魔」の名前が出てこない。キリスト教系のオカルト映画であるならば、その悪魔の名前が極めて重要なのだ。

 

 

 後で、買ったパンフレットを読んで、憑りついた悪魔は「ラマシュトゥ」という設定だったと知る。「ラマシュトゥ」は古代バビロニアで信仰されていた邪神「パズズ」の伴侶とされる女の悪魔。1973年のオリジナルの『エクソシスト』で、リンダ・ブレア演じる少女リーガンに憑りついた悪魔は「パズズ」であった。その続編なので「パズズ」の伴侶の「ラマシュトゥ」にしたのだろうが、そこにストーリー的な必然性が無い。

 

 因みに、今年観たもう一本のオカルト映画ラッセル・クロウ主演の『ヴァチカンのエクソシスト』に登場する悪魔は「アスモデウス」。こちらの映画は中世にまで遡る歴史的裏付けの設定もしっかりしており、納得のいくストーリー展開であった。

 

 まあ、ちょっと期待外れだったが、映画館で映画を観るのはウキウキして楽しいものだ。

 

 その翌日、こちらも上映がもうじき終わってしまうというので、慌てて観に行ったのは、北野武監督の『首』。

北野武監督は、現在の日本の映画監督としては突出した存在だと思っている。今までの作品も何本か観ているが、今回のは大掛かりな時代劇ということで興味津々だった。黒澤明監督に「君がこれを撮れば『七人の侍』を超える傑作になるよ」と直接言われたというエピソードも興味に拍車をかけた。

 

 

 で、映画の感想はというと、実は観終って映画館を出るときは首を捻っていた。『首』という映画だから自分も「首を捻った」というシャレじゃなくて、映画の本質を掴み切れずにハテナ?っという感じだったのだ。

 

 面白い映画ではあったが、北野武という監督の作品にしては、ちょっと自分の想像と違っていたのだ。うまく言えないが、今までの感じとは何か違う。正直に言えば期待していた感じではなかった。

 

 しかし、家に帰ってから、パンフレットを見ながら思い返すうちに、ジワジワと何かが見えてきた。正解不正解は別として、自分なりの解釈が生まれてきたのだ。そして、辻褄を合わせ、シーンを思い出し、もう一度反芻するよう映画全体を掴んでみる。やがて、うん、コリャ凄い映画だったんだな、という思いに至った。ずいぶん鈍い感覚だが、北野武がやりたかった事が見えたような気がした。この映画はもう一度観て、自分の感覚を確かめたいと思う。

 

 そんなわけで、最近観た2本の映画でした。図らずも、クリスマス・イヴに、悪魔の映画と、生首がバンバン切り落とされる映画を取り上げたってのは、偶然にしても素敵なクリスマスになりそうでんな~、笑。