大手饅頭 | 八ヶ岳 随筆 亀盲帖

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曲草閑人のブログ

「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解からない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。」

 内田百閒の代表作『冥途』の書き出し。

 

 内田百閒(1889年 - 1971年)は、夏目漱石の門下生の一人で、不可解な恐怖を幻想的に描いた小説や、不思議な体験などの随筆を多数執筆し、名文家として知られる作家。同時代の作家である江戸川乱歩と比較されることもある。

 

 

 内田百閒は、自分の大好きな小説家の一人。この百閒先生の名随筆の一つに『御馳走帖』という作品がある。大酒呑みでくいしんぼうの百閒先生が、食べ物にまつわる体験やエピソードの短編を纏めた随筆集。この『御馳走帖』の中に「大手饅頭」というタイトルの話がある。

 

 百閒先生は、岡山県出身。その岡山県の名物に「大手饅頭」という饅頭があり、東京暮らしの百閒先生は、子供の頃から好物だったこの故郷の饅頭を、食べたくて食べたくて、夢にまで見るというお話。

 

「私は度度、大手饅頭の夢を見る。大概は橋本町の大手饅頭の店に這入って、上り口に腰を掛けて饅頭を食ふ夢である。」

 

 という書き出し。自分は岡山県に行った事はなく、大手饅頭なるものを見た事も食べた事もなかった。大好きな作家である百閒先生が夢にまで見る饅頭とは如何なるものか。ずっと昔から、一度、食べてみたいと思っていたが、そんな機会はなかった。

 

 先日、岡山出身という人が、会社にお土産として、なんと大手饅頭を持って来た。その御裾分けに与かり、遂に大手饅頭なるものを、食べる時がきたのだ。

 

 おお! これが大手饅頭か。
パッケージを見ると、想像したものより随分と小さい。こんな小ぶりの饅頭だったのか、と思ったが、百閒先生とは時代が違う。
その記述の中に、

 

「子供の時は、普通のが二文で、大きいのが五文で、白い皮の一銭のは、法事のお供えだと思った。」

 

 とあり、だいぶ様変わりしているのだろうと想像できる。
もらった饅頭のパッケージを見ると
『創業天保八年 大手饅頭伊部屋 岡山・京橋』
と印刷されており、百閒先生の通った橋本町の店ではないようだ。

 

 

 百閒先生が食べていた「そのもの」ではないにしろ、それこそ夢にまで見ていた大手饅頭が手に入った。店が違っていても、岡山県の名物ということで、基本的な味には変わりあるまい。

 

 さあ、お茶にしよう。とっておきの美味しい緑茶を入れ、饅頭のパッケージを開き、お皿に乗せる。
 はは~ん、こういうタイプの饅頭なのね。餡子に薄皮が貼りついている。きんつばのようなものかな?ということは、殆ど、餡子を食べる感じかな。

 

 

 自分が百閒先生の随筆を読んで想像していたのは、酒饅頭のようなものだった。それなりに皮がしっかり厚く、蒸し上げて湯気が出ているようなイメージだった。想像していた姿とはまったく違っていた。

 

  なにはともあれ、食してみよう。パクッ。うんうん、おお、なるほどなるほど、美味い。薄皮が貼りついたこし餡は、実に上品な甘さで、くどさが無い。第一印象で、餡子だけを食べるような見た目に、甘くてくどそうだなと思った。自分は、左利きというほどではないにしろ、あまり甘すぎるものは、得意としない。しかし、この饅頭は好みだった。小ぶりだったことも良かったのかもしれないが。

 

 

 これは気に入った。流石は食通の百閒先生好みである。おかげで、久しぶりにゆったりしたお茶の時間を過ごせた。ゆったり、まったり、お茶の時間をしていると、その後ろにブーシカが寝ている。大手饅頭とネコ。まるで、内田百閒の世界をそのまま表しているような絵だ。

 

 なぜならば、百閒先生のネコ好きは、これまた有名。自分の愛猫のことを綴った随筆、『ノラや』、『クルやお前か』、は猫文学の代表作の一つとなっている。師の漱石が書いた『吾輩は猫である』を蘇らせ、その続編の『贋作 吾輩は猫である』も書いている。

 

 

 ただ、大手饅頭を気に入ったからと言って、また明日買いに行こうというわけにはいかない。なにしろ岡山の名物であるのだから。今時は、おそらく、ネット通販などで取り寄せる事は容易なのかも知れない。でも、それをするつもりはない。地方の名物はその地方で食べるか、もしくはお土産でもらうかの、どちらかがいい。何時でも何処でも手に入ると、その有難さが失われ、情緒も無くなる。だから、この次に再び大手饅頭を食べるのは、自分が岡山県に遊びに行く時か、誰かがお土産としてぶら下げて来た時になろう。

 

 そもそも岡山県は、大手饅頭とは直接関係なく、自分の幾つかある、昔から行ってみたい土地(県)の一つ。内田百閒という、実に不思議な感覚を持つ作家の、その根の部分を育んだ土地とは、如何なるものか。謎に満ちた風土や風習、信仰や民間伝承が、深い部分に残っている土地(県)には、非常に興味が有るのだ。

 

 いつの日にか、岡山を旅することがあれば、お店の「上り口に腰を掛けて饅頭を食ふ」というのを、やってみたい。百閒先生の通った時代のような雰囲気の店構えは、おそらくもう残っていないのだろうが・・・。