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京都検定ファンBLOG

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ペンネーム:山科のNanibah

 

3月25日に小野小町ゆかりの随心院はねず踊りを見に行きましたゴー

 

見たのは3年ぶりですが、観客が以前よりも格段に多くなっていました。午前の部(11時)を見るために7時ごろから並んでいた人もいたようです列私は10時半ごろ着きましたが、なんとか座席を確保できましたチェア

 

はねず踊り踊るのは小学生の女の子たち。この日のために半年練習したそうですショートヘアちょっと緊張した面持ちの子もいましたが、みんな可愛らしく、優雅に踊っていましたヤッホー

 

 

はねず」はしとやかな薄紅色で、随心院梅の花も「はねず」と呼ばれていたとのことです赤梅小野小町に恋い焦がれた深草の少将は百夜通いをして九十九日目に命が尽きたという伝説がありますが、はねず踊り歌では、少将は九十九日目に大雪が降ったので自分の代わりに他の人に行かせたため、小町に会うことがかなわなかったというちょっと面白いストーリーになっています本

 

はねず踊りは一時途絶えていましたが、現代にこの伝統を伝えたいという小野の里の方々の熱意により昭和48年に復活したのだそうです炎

 

はねず踊りの次は今様です。白拍子装束の若い女性たちが可憐に、時には雄々しく舞います!!はねず踊りを卒業してから白拍子の踊りを学んだ女性もいるようです鉛筆

 

 

最後に会場を湧かせたのは京都瓜生山舞子連中による石見神楽大蛇(おろち)」でしたへび大蛇」はスサノヲノミコトがヤマタノオロチを退治する様を表したものです伝説の剣

 

スサノヲノミコトの勇壮な姿もすばらしかったのですが、会場の皆さんの目が釘付けになったのは赤、白、黒、緑の大蛇の舞です。目大蛇たちはくねくねと蛇腹をコイル状に巻いたり、お互いの蛇腹を巻き付け合ったり、高度な業を披露してくれましたねじ体力と高度なテクニックが必要な舞です。蛇の演者に中に女性がいることが分かって、会場から感嘆の声が上がりましたおんぷ

 

 

この日は随心院の梅園も大盛況でしたぱちぱち梅の花が青空に映えてとてもきれいです空

 


雪柳やレンギョウも花盛りでしたきらきら

 

 

随心院には小町が装いを整えたという化粧の井戸があります井戸水面を鏡として姿を映していたのでしょうか手鏡

 

 

深草少将など小町に恋をした男性たちから送られた文を埋めたと言われる文塚も林の中にひっそりと残っています手紙

 

 

小町は深草の少将が通う日数を榧(かや)の実で数えたと言われていますが、小野の里では今も榧の木が大切にされています椿の実

 

 

榧の実は外見がアーモンドに似ていますアーモンド榧の実は縄文時代から食用にされてきたとのことですお食事後の時代には油を搾って、食用油だけでなく灯火油や整髪油にも使われたそうですびっくり

 


ミス小野小町おすすめの青竹に入った「はねずういろう」をお土産に買って帰りました竹米粉ではなく、寒天と黒砂糖で作られていますぐぅ~。素朴なやさしい味でした○(まる)

 

ペンネーム:京田辺の京検1級のアラ古稀一休

 

前回に続き西郷さん京都での足跡を訪ねました2西郷さんの足跡は清水寺にもありましたあしあと清水寺の北総門には、西郷さんと月照上人が幕府転覆の謀議を謀ったとされる「成就院」への案内がありました凱旋門月照上人はこの成就院の僧でしたmoon*

 

北総門

 

北総門をくぐると、幕末に散った月照・信海両上人と西郷隆盛公の歌詩碑がありました!
清水寺では、いつもすぐに本堂や舞台へ向かっていましたので、今まで気が付きませんでしたびっくり
 

 

これが2018年大河ドラマ西郷どん」主人公・西郷隆盛と共に入水自殺を図る悲劇の住職・月照上人と、実弟であり同住職の信海上人の歌碑、そして右端が西郷隆盛公の弔詞碑ですTV
西郷隆盛公弔詞」は以下のようです。
「相約して淵に投ず、後先無し。豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す。」

その先の成就院は、普段は非公開でなかなか行くことができませんでしたが、「冬の京の旅」特別公開中でしたので見学することができました目有名な「月の庭」をやっと見学できて満足しました月西郷さんも落ち着ける場所だったのだろうと思われる、静かで素晴らしい庭でしたさつまいも
 

 

成就院は、残念ながら内部も庭も撮影禁止なので、案内看板の庭を撮影しましたカメラ SP

 


 
それにしても最近の清水寺は、境内で聞こえるのは韓国語が殆どで、時々中国語、たまに日本語が聞けるくらいになってきていました音量設定
 あと、境内にある「舌切茶屋」も月照上人と西郷さんのゆかりの茶屋であると聞いていましたが、残念ながら改装工事中のため寄ることができませんでしたベーッ

次に幕末に薩長同盟が結ばれた地とも言われる京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸跡へ行きました。鞍馬口通室町の南東角にあり、石碑もありました石公家の近衛家の別邸で御花畑御屋敷とよばれ、薩摩藩が借りていたようです花畑


近衛家別邸御花畑御屋敷跡の碑

 

すぐ近くには御花畑絵図も標示されており、屋敷のほか、池や川、庭園を備えた邸宅が描かれていました川
 ここが薩長同盟の締結場所だった可能性が高いと言われているようですパカッ薩長同盟は土佐藩出身の坂本龍馬中岡慎太郎の仲介で、それまで対立していた薩摩藩西郷隆盛長州藩木戸孝允らが集まったことで有名です注目


 

薩長同盟の締結場所を巡っては、ほかに、この場所より約1キロ南にある薩摩藩邸(現在の同志社大今出川キャンパスの一部)という説がありますが、現在では、薩摩藩邸では幕府の監視が厳しく、締結場所とは考えにくいとされているようです汗2


同志社大学前にある薩摩藩邸跡

 

 

最後に西郷さんも参戦した御所の「蛤御門の変」の蛤御門を訪れました貝殻


 
今なお、門の扉に戦闘の傷跡が残っていました刀


 

また、「鳥羽伏見の戦い」が勃発した当時、薩摩藩の本陣は東寺にあったようです塔西郷さんは、55メートルの高さを誇る五重塔の五層目に上がり、伏見の戦局を眺めていたと言われていますじー・・・

 

 

今回、大河ドラマ「西郷どん」にちなんで、西郷さん京都における足跡を辿りましたが、その行動や残された書などから文武両道ともに大変すぐれていたことが推察され、あらためてその偉大さと人間の大きさを思い知らされましたぱちぱち大河ドラマの進行が進み、京都時代に移ってくるのが楽しみとなりましたGOOD

 

       ペンネーム:京田辺の京検1級のアラ古稀一休

 

大河ドラマ「西郷どん」にちなみ、京都における西郷隆盛ゆかりの地を訪ねましたGo
最初に「京の冬の旅」特別公開中の東福寺塔頭即宗院」を訪れました雪だるまここは10年ほど前にも来ましたが、その後は紅葉の季節などにはタイミングが合わず、非公開のために見学できませんでしたもみじ
このお寺は薩摩藩の畿内菩提所とされてきましたサツマイモその関係もあって明治維新の際、西郷さん清水寺の勤皇僧である月照上人とこの場所で幕府転覆の策を謀ったと云われています月のおじ

 

 

前回来たときは、庭園も回遊した記憶がありましたが、今回は立ち入りが禁止されていました×入口の門を抜けると、石畳の道に導かれて建物内への案内があり、西郷さんの書島津藩の家紋が記された火鉢やお膳などの生活備品が展示されていました丸十字また室内ではガイドさんによる丁寧な説明がありました。旗振・青このお寺があまり知られていないのか、参観者は疎らでした。

 


尊王攘夷運動の弾圧を行っていた井伊直弼の打倒について、即宗院の採薪亭で話し合われていたようですニヤリこの後、危機が迫ったので、月照とともに伏見に脱出したそうです走る


境内奥地の「採薪亭」跡地

 

左の石の階段を登って、鳥羽伏見の戦い薩摩軍が洛中に向かって砲撃を加えたと伝わる裏山の山頂へ向かいました大砲今は木に覆われていますが、洛中が見渡せる場所だったようです山西郷さんは明治になってから、明治維新までの戦いで戦死した薩摩藩の524霊を供養するため斎戒沐浴をして揮毫を行い、自筆した「東征戦亡の碑」を建立されたそうですお墓

 


薩摩藩士「東征戦亡の碑」(左)。

部分拡大で西郷さんの名前が確認できます。(右)

 

西郷さんの情の深さに改めて感心させられました驚き約150年後も多くの人に人柄と功績が慕われている理由の一端が覗えました目

次に、同じく西郷さんと月照上人が密議をしていた、歌の中山「清閑寺」を訪れました寺
清閑寺ヘは、清水寺の子安の塔から歩いて約5分で行くことができます塔ただ、清水寺と違って人気が少ない道なので、女性の一人歩きは避けるようにという看板もありました注意
 写真左の山道を行きます。清閑寺山号の歌の中山とはこの辺りの地名のようです♪おんぷ

 
 
写真奥が「郭公亭」跡です!幕末に西郷隆盛と月照が謀議を行った史跡を示す石碑です石現在の清閑寺にはその跡が残っているだけとなっていますなく

 


 
清閑寺には、要石(かなめいし)があり、ここから京都市内が扇のように見えます扇子3

 


 
また、清閑寺には高倉天皇に仕えた小督の局の供養塔や小督桜もありますサクラ小督は「平家物語」で書かれたように、ここで平清盛に尼にさせられたところだそうですハゲランス

 

 

また清閑寺は江戸時代の京都の名所案内記「都名所図会」にも載っていたようです本訪れる人も少なく静かで、清水寺の喧騒と正反対の落ち着ける歴史あるお寺でした顔
時々、西洋系の外国人が訪れていましたが、予想に反して日本人は少ないようでした地球

 

 

ペンネーム:Nanibah

 

深草にはあまり観光客が来ないけれど、素敵なお寺がいくつかありますステキ11月24日に海外から来た留学生のみなさんといっしょにそんな深草のお寺を散策しました地球

最初に行ったのは伊藤若冲五百羅漢があることで知られる石峰寺です石石段を上がると、中国風の山門が私たちを出迎えてくれました。凱旋門

 


石峰寺は18世紀に創建された黄檗宗のお寺ですお寺山号は百丈山(ひゃくじょうざん)。伊藤若冲が晩年にここで草庵を結び、第7代の密山(みつざん)和尚の協力を得て、羅漢さんの石像を作りましたお坊さん五百羅漢と呼ばれますが、実際には五百体以上あるようですパカッ

羅漢さんたちは長い年月、竹林の中で静かに世界を眺めているように見えます竹愛らしい顔、ユーモラスな顔、厳格な顔など、表情も様々です。笑私たちもこの竹林で落ち着いた気分になれました。羅漢さんたちの静寂を邪魔しないため、写真撮影は禁止されています撮影禁止

石峰寺伊藤若冲のお墓があることでも知られていますお墓当時は土葬だったため、このお墓の下に文字通り若冲が眠っているとのことですZZZ

お墓の横には筆塚があり、幕末の三筆の一人、貫名海屋(ぬきなかいおく、または貫名菘翁 ぬきなすうおう)が書いたとされる撰文が見られます書道

毎年、若冲忌に、石峰寺所蔵の若冲の掛け軸が公開されると聞きましたので、ぜひ見てみたいと思っています掛軸

 


大きな干し柿が青い空に映えて、とてもきれいでした柿

 

 

次に訪問したのは宝塔寺ですGO山号は深草山(じんそうざん)。深草は町名では「ふかくさ」、山号では「じんそう」と読むんですね読む

境内はひっそりとしていて、私たち以外の訪問者はおらず、古いお寺を独り占めという感じでしたお寺

もとは真言宗の極楽寺という寺院でした天使源氏物語」にも極楽寺のことが記されています。様々な経緯で、14世紀に日蓮宗に改めたとのことですキラキラ

宝塔寺の総門と本堂と多宝塔は重要文化財に指定されています重要重文の建造物はやはりどっしりとした威厳がありますバーコード

 


総門から見える赤い門が仁王門です。重文ではありませんが、花天井が素敵です花

 


17世紀に建てられた本堂には日蓮と日像の像が安置されているそうですクラッカー

 


多宝塔は15世紀に建てられました塔2層で高くはないのですが、形状が美しく、見ていて心が和みますあはは

 

 

慈母観音菩薩像の近くの紅葉が美しく色づいていましたもみじ

 


宝塔寺の裏の七面山(しちめんざん)を少し上ると、七面宮があり、そこには七面大明神が祀られていますやま。。。木の間から穏やかな町の風景を眺めることができますくもり。

この日、最後に訪問したのは元政庵瑞光寺です音符やはり山号は深草山で日蓮宗のお寺です草江戸時代に元政上人(げんせいしょうにん)が草庵を結びました。元政上人は武家に生まれましたが、出家して隠棲しましたマゲヅラ教養が深く徳の高い元政上人を慕う求道者が多く、文人や商人などがたびたび深草を訪れたそうです本求道者の指針となるように上人は『草山要路』を書きましたきゃは♪この書は求道者や研究者に現在も読まれているそうです検索アイコン

元政上人(げんせいしょうにん)は石のお墓を作らず、竹三竿を立てるように言い残しましたビックリマーク竹だけの質素な墓は今も大切に守られているようですが、外から見ることはできませんでした目

瑞光寺は山門も茅葺です。小さな山門ですが、趣がありますね手

 


17世紀に建てられた本堂も茅葺屋根が美しく、「寂音堂」と名づけられています♪その名の通り、とても静かで質素な雰囲気ですが、ある種の優雅さも感じられますお菓子の家

 

 

晩秋の一日を深草の寺で過ごした留学生たちは、観光客で賑わう伏見稲荷神社の近くに隠れた名所があることに驚いていましたとりい

歩き疲れた身体を癒すため、深草商店街の小さなうどん屋さんで温かいうどんを食べて、みんないい気分で帰りましたうどん彼らが喜んでくれたので、案内者の私もほっとしましたはなまる

 

 ペンネーム:京田辺のアラ古稀一休

 

初詣に京都十六社朱印めぐりのうち、六孫王神社粟田神社に行ってきました柴犬
京都十六社朱印めぐり、元旦から2月15日までに十六社すべての神社を年頭にお詣りして各神社より朱印を授かることで一年間あらゆるご利益が得られるというものです神社
十六社は、熊野 若王子神社 · 熊野神社 · 新熊野神社 · 御霊神社 · 藤森神社 · 栗田神社 · 市比賣神社 · 岡崎神社 · 長岡天満宮 · 御香宮 · わら天神宮 · 六孫王神社 · 吉祥院天満宮 · 西院 春日神社 · 今宮神社 · 豊国神社のことです!
小生は年齢、体力を考慮して毎年少しずつお詣りしています。今年2社をお詣りしたことで残りはあと3社を残すことになりましたはた

 

六孫王神社
源氏の祖である源経基は、清和天皇の六男を父として生まれ、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていましたキラキラまた王の長子満仲公が遺骸を当地に埋葬し、その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりだそうですお墓
このため、当神社は清和源氏発祥の宮と呼ばれています耳
六孫王神社は、南区壬生通八条角にあり、もとは平清盛の西八条殿近く(現在の梅小路公園)まであったものが東海道新幹線の工事で現在のように狭くなったそうです0
ご利益は、出世開運家運隆昌良縁祈願と言われています家

 

 

境内
 


経基公の和歌(拾遺和歌集)
 


六孫王神社本殿

 

 

神社は訪れる人もそれほど多くなく、参拝しやすい場所で、静かな雰囲気であり、いかにもご利益がありそうであった人

 

粟田神社
平安時代の貞観18(876)年に出羽守藤原興世が、勅命により社を建てて御神霊をお祀りされましたのが当社の始まりとされ、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)ほかとされています驚き
神社前は昔の東山道で、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)、厄除の神様として知られていますスーツケース
また、かの義経も奥州へ下向の折、旅立ちの安全祈願に立ち寄ったと言われています。
神社は三条通岡崎道下がるにあり、参拝客が絶えなく、境内に摂社も多くありました音符

 

神社入り口
 

 

 

本殿
 


拝殿には名刀匠 三条小鍛冶宗近のゆかりと思われる刀剣が祀られていました日本刀

 

 

義経が奥州下向の時に祈願したと伝わる摂社の出世恵比寿神社

 

 

粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近、粟田口藤四郎吉光 等を祀る末社の鍛冶神社

 

 

粟田祭で行われる風流行列「粟田大燈呂」は、青森県のねぶたのルーツだとのことでした青森県

 


粟田神社も歴史が深く、いかにもご利益がありそうな神社でした。
これらの十六社は、いずれも多くの観光客が押し掛ける神社ではなく、静かな雰囲気でのんびりと京都の神社巡りができるところですZZZ来年に残りの3社を巡りたいと思いますがんばる