徳川綱條は徳川光圀の甥にして養子となり、1690年に光圀隠居のあと、綱條が3代目の水戸藩主になった。
『水戸黄門』では当然ながら、いろいろな役者が演じて、何度も登場するが、問題はドラマの中の光圀の旅費がどれだけかかったかだ。
光圀は史実では水戸と江戸の往復を中心に、せいぜい北は日光、勿来か筑波山、南は鎌倉か熱海にまで行ったくらいであった。移動にも馬や駕籠を使ったらしい。
光圀は史実では水戸と江戸の往復を中心に、せいぜい北は日光、勿来か筑波山、南は鎌倉か熱海にまで行ったくらいであった。移動にも馬や駕籠を使ったらしい。
『水戸黄門』のドラマでは光圀が家臣数名を連れて何度も日本国中を旅していた。
この路銀はおそらく水戸藩の出費であろう。
この路銀はおそらく水戸藩の出費であろう。
そうなると綱條が藩主になってからの10年間、水戸藩は光圀の勝手な旅の繰り返しで、出費が巨額に達していた可能性がある。
『水戸黄門』第38部第5話で光圀が吉宗と出会ったのは第9話の時代設定(元禄の丑年)から考えると1697年。「史実」では吉宗がこの年に江戸で綱吉に謁見している。
それから20年、吉宗が享保の改革をおこなったのは幕府の財政を立て直すためで、それは元禄時代に出費がすさまじかったからだろうが、元禄時代に水戸藩の財政難を幕府が支援する羽目になっていたとすれば、これは光圀と綱條の責任では?
それから20年、吉宗が享保の改革をおこなったのは幕府の財政を立て直すためで、それは元禄時代に出費がすさまじかったからだろうが、元禄時代に水戸藩の財政難を幕府が支援する羽目になっていたとすれば、これは光圀と綱條の責任では?
吉宗は綱條の時代の財政難の後始末をさせられたわけだが、紀州で出会った光圀の漫遊を見て、持ち前の外出癖が強化され、江戸に入っても続いたようだ。こちらは財政面の問題はなかったのだろうか?
綱條は1718年に没したが、その直前、1716年から1718年までの綱條が『暴れん坊将軍』第8部の第10話に登場する。
綱條の家臣であったはずの水戸藩の三浦伊賀守が間部詮房と組んで綱條を誘拐、暗殺を謀ったが吉宗が阻止した。
間部詮房が新井白石とともにやっていた正徳の治は綱吉の政治に対する批判か継承か、それが問題である。批判であれば享保の改革は正徳の治の延長のはずだ。
すると間部詮房は幕政から追放されたことに対する逆恨みで、綱條誘拐に協力したことになる。
綱條の家臣であったはずの水戸藩の三浦伊賀守が間部詮房と組んで綱條を誘拐、暗殺を謀ったが吉宗が阻止した。
間部詮房が新井白石とともにやっていた正徳の治は綱吉の政治に対する批判か継承か、それが問題である。批判であれば享保の改革は正徳の治の延長のはずだ。
すると間部詮房は幕政から追放されたことに対する逆恨みで、綱條誘拐に協力したことになる。
もっとも綱條の時代の出費を考えれば、家臣が反撥するのもわかる。問題は光圀没から吉宗が将軍になるまでの16年間、水戸藩の政治がどうだったかということだ。
吉宗が将軍になった1716年から綱條の没年1718年まで2年。
三浦も間部は綱條が幕政復帰への障碍と考えていたようだが、結果から見れば彼等が綱條の命など狙わずとも、2年待てば復帰できたわけだ。なまじ余計なことをしたため、三浦は吉宗のお庭番によって「成敗」され、間部は幕政復帰を断念しただろう。
三浦も間部は綱條が幕政復帰への障碍と考えていたようだが、結果から見れば彼等が綱條の命など狙わずとも、2年待てば復帰できたわけだ。なまじ余計なことをしたため、三浦は吉宗のお庭番によって「成敗」され、間部は幕政復帰を断念しただろう。
私利私欲によって動くと却ってその目的を失うということである。