トリビアの泉~へぇの本~VI』(2004年3月24日第1刷)という本には2004年1月1日から2月25日までに放送された『トリビアの泉』で紹介されたトリビアが収録されている。
その57ページと58ページで「水戸黄門の旅、最大の遠出は鎌倉」(トリビアNo.331)とある。

光圀が日本全国を旅行などしていなかったことは、昔のNHK『歴史への招待』でも取り上げられていて、当時、確か『水戸黄門』で徳川(水戸)光圀が東野英治郎、佐々木助三郎が里見浩太朗、渥美格之進が大和田伸也だった時期だと想う。当時購入した『歴史への招待』の本はすでに手元にないので、『トリビアの泉』でまた扱ってくれて助かった。

『トリビアの泉VI』58ページで徳川博物館の脇伸哉氏が「確かに水戸黄門こと徳川光圀の旅で一番の遠出は鎌倉です」と語っている。この本によると、光圀の旅行の旅程は『甲寅紀行(こういんきこう<かふいんきかう)』『鎌倉日記』などの書物に記されている。それによれば、光圀の旅は9回で、『III』の58ページで距離を比較してある。
それを参考にして、地名に関する補足を加えて引用してみた。

1回目:江戸~日光東照宮、130km。
2回目:江戸~筑波山(つくばさん)~水戸、91km。
3回目:水戸~勿来関(なこそのせき)~水戸、210km。
4回目:水戸~鎌倉、225km。これが光圀の旅の最長記録。鎌倉からいつ戻ったかはこの本ではわからない。
5回目:水戸~藤代(ふじしろ<ふぢしろ)~江戸、80km。
6回目:江戸~藤代~水戸、80km。5回目で水戸から江戸に行った光圀が6回目で帰郷したか。
7回目:江戸~板久潮来?)~水戸、112km。
8回目:西山荘~江戸、98km。
9回目:江戸~銚子→水戸、165km。

また、「補足トリビア」によると、水戸藩では藩主は江戸に常駐する決まりがあり、水戸に帰国する際には幕府の許可が必要で、光圀は水戸と江戸を往復したり領内を視察でまわることはあっても、日本各地を漫遊することはできなかったようで、また、光圀は徒歩でなくほとんど、かご(駕篭、駕籠)か馬で移動したらしい。

要するに光圀はほとんど関東地方の中を移動していただけである。立ち寄っている場所は茨城、千葉、東京、神奈川、北関東に近い福島県いわき市くらいである。光圀が立ち寄った勿来(なこそ)は福島県の中でも南端で、茨城との県境の近くにあり、関東地方は目と鼻の先だ。

インターネットで『新編鎌倉志』に関する記述を観ると光圀が若かったころ、熱海まで行ったこともあるらしいが、もちろん、ドラマで描かれているような隠居の時代ではないし、熱海は静岡県の東部で神奈川のすぐ近く。関東地方のテレビの天気予報では、なぜか静岡県から伊豆半島だけ切り離して予報に入れている場合があるが、熱海はその伊豆半島の東の付け根あたりだ。光圀の行動範圍はほとんど関東地方に限られていたと言えるだろう。

ドラマ『水戸黄門』では、漫遊で近畿地方を訪れた隠居時代の光圀が、若かったころの吉宗と会う話があるが、本当に両者が出会ったかどうかはっきりしない。ただ、假に吉宗と光圀が十代に出会っていたとしても場所は紀州でなく、江戸城であっただろう。

光圀が隠居していたとき、吉宗は数え年で7歳から17歳。特に『水戸黄門』第29部第5話第40部で松尾芭蕉が存命のときであれば、吉宗が11歳までの時期になる。
第40部第2話で光圀は日光を訪れている。

2011年の毎日新聞電子版4月5日付によると茨城沖水産物が千葉の銚子漁港で水揚げを拒否されたらしい。
茨城と千葉は利根川を挟んだ隣県同士で、銚子は水戸光圀が訪れた場所でもある。
こんな近くで水揚げ拒否となると、都道府県が独立国家になって互いに鎖国しているようだ。
「国境をなくして世界を一つに」などという夢は現時点では現実的でない。口蹄疫、鳥インフルエンザ、原發事故のときには国境や税関が多いほど安全が守られる。
そもそも「国境をなくす」こと自体が「侵略」なのである。


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2009年8/19