「2025年大阪・関西万博訪問記」その42〜4月26日編④ポルトガルパビリオン訪問 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


4月13日(日曜日)に開幕した「EXPO2025 大阪・関西万博」。6度目となった4月26日(土曜日)の訪問記をお送りしています。




東ゲートから大屋根リングの外側に沿って、反時計回りでぷらぷらと散策しています。

タッチパネルをかざしてのAR体験が楽しかった「カナダパビリオン」はまた再訪したいところ。垢抜けた外観です。4月22日アップ。



その、カナダの左隣に「ポルトガルパビリオン」がありました。なかなか奇抜な外観です。


大屋根リング上から。



よくよく近づいてみますと、なんと外壁(正確には外装)はロープの群だという。これはおしゃれなものですね。


10分ほどの待ちで入場。暗い館内では、自由観覧のシステムでした。自分のペースでゆっくり観られる、これがいちばん良いのですが。



そんな中、展示室の真ん中には地球儀が鎮座しています。大きなものですが…


これが、次々とその画像が変わって行きます。あの「大航海時代」に入ってから、世界地図の変遷をたどることが出来るもの、とスタッフの方から解説がなされたのですが。

「カンティーノの地図」。現在の地図と比べますと、日本など姿形もありません。1502年作成。


アメリカ大陸は、長細い諸島のみ。


おっ、さすがにヨーロッパは現在のそれに近いですね。500年以上前のものですが、それより以前より、位置関係ははっきりしていたのですね。興味深い。


続いて「ラザロ・ルイスの地図」。1563年作成。ようやく、日本は島国とわかったよう。


アメリカは半分しかありません。


ヨーロッパ。先ほどよりかなり整っています。


そして「ジョセ・ダ・コスタ・ミランダの航海用地図」。1706年作成。

ポルトガルはじめ、オランダなども日本に渡来してだいぶ後のものですので、日本や周辺の姿形は割と想像がつきます。ただ、彼らが北海道を見つけるのは、まだ後のことのよう。


先住民のみだったアメリカ大陸にも、ヨーロッパから探検が進んでいたことがこれからわかります。


ヨーロッパやアフリカ。
ほとんど現在と同じことに驚きます。しかし、これでも300年以上前の地図です。

航海技術や、地理的関係を調べる技術はやはり高いものがあったのだなと感心します。


ところで、くだんの興味深い地球儀のかたわらにはこのような図画がありました。


日本にやって来たポルトガル人たちの姿。
そう、先ほど触れた「大航海時代」を契機に、日本とポルトガルとの間には、歴史的な交流がはじまるのでした。以下、解説は出典①、図表は②・③。


大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。

1541年7月27日、ポルトガル船(あるいは明=中国=船)が豊後国(現在の大分県)神宮寺浦に漂着したのが日本へのポルトガル人の最初の上陸であったとされている。


そして1543年、種子島(現在の鹿児島県)へポルトガル商人が漂着し、鉄砲伝来が起こる。

ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触ののち通商を求める商人の動きが活発化した。また、貿易はキリスト教布教を伴って行われるものとの戦略があり、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。


1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。

その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった。


ポルトガル語を源流とする日本語。有名なものばかりですね。京都随一の繁華街・先斗町(ぽんとちょう)もそのひとつ、と言われています(諸説あり)。続きます。


ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。


同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、天正遣欧少年使節の派遣なども行われた。

1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世の日本語とポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。



しかし1587年には豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡された。

江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は踏襲されている(1614年のキリスト教禁止令)。家康の晩年には、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限された。



以降、南蛮貿易での利益を重んじる以上に、キリスト教の流入を恐れた徳川政権は、オランダのみが独占する長崎の出島のみを残すという、鎖国政策を取ることになります。

ちなみに、オランダパビリオンはポルトガルパビリオンから、会場の真ん中を突っ切ること、ゆっくり歩いて10分ほどでした。


個人的にはですが日本史が好きなもので、日本とポルトガル、というと、以上のようなエピソードがまず出て来たのでした。


言葉や文化の伝来もさることながら、教科書には必ず載っている「鉄砲の伝来」というのは、すなわちそれまでのいくさのやり方を根本的に変えるもの。

領地や権力爭いが激しかった時代背景も鑑みると、その力関係には計り知れない影響があったに違いありません。先んじて積極的に鉄砲技術を用いた信長公など、確かにそうでしたから。


パビリオン展示ではそのあたりより、海洋資源や開発、その未来についてのイメージ映像が、次室でメインになっていました。


これ、さまざまパビリオンを巡って来た中ででも印象的なひとつでした。3分割でどうぞ。




海洋資源や技術開発に関する展示は他にもありましたが、海、自体を主人公にしたストーリーものは、いまのところここだけ。

それだけ、なにか他人事のように思えないといいましょうか。



最後にはグッズショップがありました。




これ、きれいな模様やなあと見とれるのですが置き物でしょうか。箸置きではないでしょうけれど(汗)


他に種類のあるグッズにも、やはり海にまつわるイラストやデザインが施されていたのが印象的でした。やはり、海とは切り離せないお国、なのだろうということが良くわかりました。


ということは、ロープは航海に欠かせない必需品だった、とわかりました。なるほど!

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「フリー百科事典Wikipedia#日本とポルトガルの関係」)
(出典②「新詳日本史図説」浜島書店編・著 1991年11月発行)
(出典③「図説日本史通覧」黒田日出男監修・帝国書院編 2015年2月発行)