暫定ながら、ついに完乗を果たしたJR東日本の全路線。その続編ということで、引き続き「キュンパス」を使い、北東北からあちこち寄り道しながら、帰阪の途に就こうという旅日記をお送りしています。
ここは「東京駅(東京都千代田区)」。あまたある出入り口のうち、西側にある「丸の内南口」を探索しています。

さて、この改札口横にある自動券売機の付近には、丸く白地にかたどられた模様が床に記されています。


原敬(はら・たかし、1856-1921)は、現在の岩手・盛岡で、旧幕藩の南部氏に仕える武士の家に生を受けた政治家でした。
明治維新の後、苦学の末に新聞記事となり、その後に外務省へ入省、キャリアを重ね1900(明治33)年5月、結党されたばかりの「立憲政友会」の一員に加わり、政治家としての道を歩みはじめました。

原敬は「平民宰相」という諢名でも知られていますが、当時は華族や貴族など、爵位を持つ者のみが国政に、さらに総理大臣に任命されるという慣例がありました。出典①。
そんな中の1918(大正7)年9月、国政の実力者のひとりとなっていた原は、それら爵位を持たずして最初の総理大臣となりました。
諢名はそれによるものですが、民主主義を重んじる原が就任したことで、地元はじめ、国民からの期待は高いものがあったようです。生家は盛岡郊外の「仙北町駅(盛岡市)」付近だといいます。出典②。

日本に政党というものがようやくにして根づきはじめたこの頃、総理大臣や内閣は、軍閥やいわゆる政治閥(明治維新の中心になった薩摩・長州・土佐・肥前)の有力者によって形づくられていました。
原は「立憲政友会」という政党に属していて、内閣の閣僚も政党から任命するという、現在の政党政治をはじめて行ったことでも知られています。我が国では歴史的なことです。出典①。

しかしながら、原が総理に就任した前後は第一次大戦が終結した直後。戦勝国として国際連盟(現在の国際連合の前身)で常任理事国に選ばれるなど、世界の列強国の仲間入りを果たすものの、国内の政情は非常に不安定な頃でした。

大戦の終結で軍需産業が弱体化し、株価の暴落など経済的に苦境に陥っていました。
さらに「大正デモクラシー」が全国的に広がりを見せたこともあり、第一次大戦を機に世界的に軍縮の動きが広まり、原はその矢面に立たされることになります。出典③。
1921(大正10)年11月4日、自らが所属する立憲政友会の大会に出席するため、この駅から京都に向かう列車に乗り込もうとした際に、原の政策に反対を掲げていた過激活動家に暗殺され、命を落としました。享年65歳でした。
まさにこの場所が、原の襲われた場所だというのです。
わたしのブログでは政治的なことをあまり述べないようにしてはいるのですが、先日にはトランプ・前アメリカ大統領が遊説中に狙撃されるという事件がありました。朝日大阪朝刊 2024(令和6)年7月15日付け 1面より。
主義主張はともかくとして、このようなことが起こるということには、憤りを禁じ得ません。
原がこの世を去った後、政党政治はようやく軌道に乗り始めたかと思われました。出典①。
しかし軍部によるクーデター、いわゆる「5・15事件(1932年)」や「2・26事件(1936年)」を端緒にし、政治に軍部が関与することで、世は対話より交戦へと基調は変わり、次第に先の大戦へと進んで行くのでした。余談でした。

ところで、原が政治の中枢にあった頃に進められた鉄道の敷設において、「我田引水」ならぬ「我田引鉄」と呼ばれるエピソードもありました。「一ノ関駅(岩手県一関市)」から三陸方面に延びる「JR大船渡線(おおふなとせん)」の敷き方が、そのひとつとして知られています。
これには原敬も一枚噛んでいたといいます。

陸中門崎(りくちゅうかんざき)と千厩(せんまや)という駅を直線で結ぶはずが、予定区間から外れた摺沢(すりさわ)という地域に拠点を構える有力者が、立憲政友会から選挙に臨んだことから、線路を曲げたというもの。
先日「一ノ関駅」の記事でも触れましたが、以前、実際に乗り鉄した様子はこちらもどうぞ↑2017(平成29)年7月23日アップ。


美しい造形美の東京駅ですが、さまざま考えさせられる丸の内南口でした。

さて、東京は夕方5時前に発つ予定にしています。幸い数時間ありますので、ここからも「キュンパス乗り鉄」を再開することにします。

次回に続きます。
今日はこんなところです。(出典①「新詳日本史図説」浜島書店編集部編著 1991年11月発行)
(出典②「各駅停車全国歴史散歩4 岩手県」岩手日報社編 昭和56年1月発行)
(出典③「図説日本史通覧」黒田日出男監修 帝国書院編 2014年2月発行)