みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。
今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、会場の南千里をいったん離れて項を進めています。
会期中に約2000万人以上を運んだという、このメインルート。企画展での写真展示とともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。千里中央にて。
万博会場を目の前にした、現在の「阪急山田駅(大阪府吹田市)」付近。出典①。
千里中央から「中国自動車道」を間借りしていた「北大阪急行電鉄会場線」が「阪急千里線」と交差していた、企画展の中でも注目されるショットについて、引き続き述べております。
北急の真上をまたぐ「阪急千里線」を走るのは
我が国鉄道史の中で、語られることの多い車両だというところで、前回まで進みました。
この車両は「デイ100形」。
「P-6」という愛称でも鉄道ファンには知られた、戦前に登場した名車です。「P-6」とは、
"Passengers car 6"の略。つまり「旅客用車両として6番目に登場したもの」の意です。
https://ameblo.jp/kyle-of-lochalsh/entry-12831412055.html
ところで「阪急千里線」を含む、現在の「阪急京都線」系統の大半を建設したのは、京阪電車系列の「新京阪鉄道(後に京阪電車新京阪線となる)」だった、という記事を、このシリーズの冒頭で上げたことがありました。
淀川左岸の旧街道に沿い、路面電車規格で路線が敷かれたたことから「京阪本線」にはカーブが連続し、高速運転が困難でした。七条にて。
そのため、淀川右岸の人口希薄地に極力直線の路線を計画、高速運転が可能な新ルートを建設したのが京阪電車系列の「新京阪鉄道」。全通は1931(昭和6)年3月のこと。
「大阪天神橋(現在の天神橋筋六丁目)〜京阪京都(阪急大宮)間」を、34分という超高速で結んだのが、この「デイ100形」でした。
大阪側の始発駅だったのは、この「新京阪鉄道 天神橋駅(後に阪急天六ビル)」。2010(平成22)年まで現存。出典②。
大山崎付近(京都府乙訓郡大山崎町)では、併走する省線(→国鉄→JR)の看板列車「特急燕」を後からあっと言う間に追い抜いたということが語り草になっているほど、戦前としては近代的な内外装で、破格の高性能を有する大型車両として知られているものでした。出典③。
新京阪線を含む千里・嵐山線は戦時中、京阪が強制的に合併させられていた阪急と分離する戦後の混乱の中、紆余曲折を経て割譲されてしまうのですが、阪急の車両となった後も高性能の「デイ100形」は、優等列車にも積極的に充当されていました。
ただし、昭和初期の製造から40年あまりが経過した先の大阪万博の翌年から、ついに廃車がはじまります。出典④。
後日項で触れますが「阪急千里線」も「北急〜地下鉄御堂筋線ルート」と並び、万博へのアクセスルートのひとつとして機能していました。
連日、押し寄せる観客の輸送に勤しんでいたこの姿は、名車と謳われた「デイ100形」最後の勇姿の一幕、といえるものだったのかも知れません。展示より。
1973(昭和48)年3月、「デイ100形」は全車両が勇退。現在、1両のみが「正雀工場(同摂津市)」に動態保存されています。出典⑤。
話しが本題から逸れましたが、戦前からのスター車両と、さながら近未来都市の万博会場へと向かう、北急の車両。印象に残るシーンだったに違いありません。出典④。
果たしてこの構図、現在はどのようになっているのか。南千里からひと駅、足を延ばして現地・山田へ行ってまいりました。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典① 朝日大阪朝刊 2023年9月10日付け19面 大阪東部・河内地域面)
(出典②「フリー百科事典Wikipedia#天神橋筋六丁目駅」)
(出典③「カラーブックス512 日本の私鉄3 阪急」高橋正雄・諸河久共著 保育社刊 昭和55年10月発行)
(出典④「私鉄ガイドブックシリーズ5 阪急・京阪・阪神」慶応義塾大学鉄道研究会編・誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)
(出典⑤「フリー百科事典Wikipedia#新京阪鉄道P-6形電車」)