みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。


今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、会場の南千里をいったん離れて項を進めています。



会期中に約2000万人以上を運んだという、このメインルート。企画展での写真展示とともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。グーグル地図より。



「中国自動車道(中国道)上り線」を借用して敷設されていた「北急会場線」(最外は「府道大阪中央環状線、中環」)。


「仮・千里中央駅(大阪府豊中市)」を出発し一路、万博会場中央ゲートに直結していた「万国博中央口駅(同吹田市)」に向かっています。



豊中市から吹田市に入るこのあたりで「阪急千里線」との立体交差に差し掛かります。


前回の記事でも触れましたが、千里丘陵で開催された先の大阪万博における鉄道輸送を語る上で、欠かせない「出会い」があった場所です。




ここからは企画展会場で頂いた、ニュータウン地図より。出典①。


現在では、ちょうどこのあたりになります。

「大阪モノレール」と「阪急千里線」が交差する「山田駅(同)」付近。相互に乗り換えられる交通の拠点になっています。北が左。


いま企画展展示を訪問している「南千里」からは、千里丘陵の竹林やトンネルを抜けたひとつ北にある駅です。




しかし、平成に入り開業したモノレールの駅はともかく、万博の前(昭和42年3月)にはこの交差より北側の「北千里駅(同)」まで開業していた「阪急千里線」の側でも「山田駅」はなかった、といいます。「阪急山田駅」開業は万博から3年後、1973(昭和48)年11月のこと。



これもやはり万博に関する理由があったからというのですが。これは、後日項にて。出典②。



さて、先日から触れておりますがこの当時、北急が走っていた線路の場所は、本来は中国道上り線(中国吹田インターチェンジ・名神・近畿自動車道方面)として利用されるものでした。

それを暫定的に隣の下り線(池田・宝塚・吉川=よかわ、兵庫県三木市=方面)と、この付近では対面通行する形にしていました。いまでは終日大変な通行量ですが、さすがに交通量は少ないですね。



中国道と北急の両外側、中環にパトカーの姿。「二代目クラウン」ではないか、と係の方。クルマにはまったく疎いのでアレなんですが、パトカーでは、令和の現在でもおなじみですね。


さらに気付いたのですが、それに続いているのが装甲仕様のバス。これひょっとして、くだんのパトカーが先導して要人が移動しているさ中だったのでしょうか。



そのまわりを流しているクルマも、いまとなってはレトロな設えのものばかり。確かに、これは気になりますが、後方には万博パビリオンも見えます。もうすぐ万博会場です。


本題に戻り「万国博中央口駅」を出たばかりの北急の列車。それをまたぐのが「阪急千里線」ですが、この車両というのが、日本の鉄道史において語られることの多い名車なのでした。



この車両の名称は「デイ100形」「P-6」という愛称でも親しまれていました。出典③。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「千里ニュータウンマップ2018」千里ニュータウン再生連絡協議会発行 2018年3月)

(出典②「鉄道模型フェスティバル2023」阪急うめだ本店 パネル展示)

(出典③「カラーブックス512 日本の私鉄3 阪急」高橋正雄・諸河久共著 保育社刊 昭和55年10月発行)