みなさんこんにちは。前回からの続きです。
さて、念願の参拝を終えまして、あとは帰阪するのみ。参道にあるおしゃれなカフェで「飛鳥鍋風うどん」なる、ご当地名物を頂いている…というところでした。
ところで、こちらのカフェで見つけたのが、橿原神宮で祭神とされている「神武天皇」にまつわる絵巻物でした(複写)。
明治期に作成されたものだというのですが、初代天皇にまつわるものという、日本の歴史上、語り継がれている事象について、これを少し拝見したいと思います。
その経緯はあまりにも長いので割愛するのですが、戦のさ中、突き立てた弓に留まった「金鵄(きんし、金色に輝く鳶)」の放つ光で、長髄彦(ナガスネヒコ)という敵を退散させた、というエピソードも有名です。
橿原からは少し北西の、県内の生駒付近での戦いと言われています。
そういえば先ほど、参拝した時に頒けて頂いたお守りも「金鵄」でした。
「神武天皇」と、后ともども祭神と崇める橿原神宮とに共通する、象徴だとわかります。「金鵄幸運御守」志納500円。
国家統一を果たしてこの地に都を築き、初代天皇に即位したのが「紀元元年(紀元前660年)2月11日(旧暦1月1日)」のこと。戦前では「紀元節」、現在の「建国記念の日」です。
さて、前回記事でも少し触れたのですが、この「橿原神宮」ではその「紀元」という表記をあちこちで見かけました。
その「神武天皇」が初代天皇に即位した日を、天皇を中心にした日本という国家が成立したはじまりの日、として起算する表記方法が「紀元(皇紀とも)」と呼ばれるものです。
ちなみに今年は「紀元2683年」だそうですが、いまから83年前、つまり「紀元二千六百年」に当たる1940(昭和15)年には、それを記念して国を挙げての祝賀行事が催されました。
それでは、その様子については毎度おなじみ「フリー百科事典Wikipedia#紀元二千六百年記念行事」と、平成改元直後に発売されたビデオシリーズ「NHKビデオ 映像でつづる昭和の記録その4 昭和13〜15年」の巻から、拾ってみることにします。ブログ主所蔵。
明治期に入り、近代国家に名を連ねるようになった日本という国家の精神的なイデオロギーは天皇を中心にした「立憲君主制」と、その根底にある「国家神道」という思想に基づいたものでした。
ゆえに、その始祖に当たる初代天皇が即位したことを記念する節目、ということになりますので、現在では想像がつかないほどの大々的な祝賀行事だったことが伺えますが、ゆかりのこの神宮への参拝も、さかんに行われたようです。
1940年(昭和15年)の橿原神宮参拝者は約1000万人、伊勢神宮は約800万人を数えた。(後略)
当時、日本は朝鮮半島や台湾、樺太南半分や南洋諸島などを領有、委任統治していたので、本土である内地も合わせると、総人口は1億人あまり(現在の国土だけで計算すると7000万人台、とされています)。
政府の推奨もあったのでしょうが、それから考えても、たった一年でものすごい数の参拝客が押し寄せたことがわかります。出典①。
ところで、行きしなに気づいたのですが、この「橿原神宮」の大鳥居脇にある、大きな石碑。
裏を確認すると「紀元二千六百年記念」と記されています。
さらに、橿原とは関係のない「大阪市」が寄附したことがわかるのですが、天皇や皇室にまつわる史跡や神宮に寄付や寄贈をするという、こういった例は、他にもあまたあったようです。
昨夏に、信貴山の「近鉄東信貴ケーブルカー」跡を辿った乗り鉄記のことでした。
ケーブルカーの目的地だった「信貴山朝護孫子寺(同生駒郡平群町)」境内にも、そういえばこのような鳥居があったのを思い出しました。
国を挙げての華々しい記念式典から、実に86年もの月日が経過したということになります。出典④。
ただ、この大規模な祝賀行事とその時代背景。その後に続く、3年半にも渡る世界大戦への参戦という事実を鑑みるに、これは現代日本に至るまでの、歴史の大きな転換点であったようにも感じます。出典⑤。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」広田尚敬写真・吉川文夫解説・山と溪谷社発行 1984年7月)
(出典②「フリー百科事典Wikipedia#1940年東京オリンピック」)
(出典③「同#紀元2600年記念日本万国博覧会」)
(出典④「図説日本史通覧」黒田日出男監修・帝国書院編・発行 2015年2月)
(出典⑤「新詳日本史図説」浜島書店編・著・発行 1991年11月)