きょうのきょうみ[理想]
私には理想がある。
理想の生活もあるし
理想のクルマもある。
理想の旅行もあるし
理想の仕事もある。
今日の興味はそんな「理想」だ。
☆ ☆ ☆
私の人生の大半の時間は
「仕事」で埋められている。
だから人生観や想像も
「仕事」から始まる事が多い。
そんな仕事の話から
理想について語っていく。
世の中は白物家電で溢れている。
趣味性の高いクルマも
釣竿もスーツも筆記用具も
今ではみんな白物家電だ。
もちろん私の仕事たる保険も
今では白物家電になってしまった。
我が国が世界に誇る白物家電は
どれも「壊れない」。
そしてどれも「均一」だ。
そこに機械としての「正解」があり
それを私も誇りに思う。
だから
お客とメーカーや販売店が話し合い
買い手に必要な洗濯機を作り上げることなんて
出来ないし
しない。
そのモノには当然、
買い手から見た「深み」などない。
お客も白物家電にはそれを求めない。
白物家電はそれでいいのだ。
が、しかし
クルマも釣竿もスーツも筆記用具も
そして保険も、
今ではそんな「深み」のないモノになろうとしている昨今を
私は憂う。
道具として優れている事は当然だが
総てではない。
感性や個性、拘りや人生観…
それら諸々が文化を形成し
人間を創る。
優れた道具ってだけでは
文化や人間は造れない。
機能だけで
すべては計れない。
☆ ☆ ☆
私の理想は
お客様の大半がわがままであることだ。
すべての保険のオーダーは
唯一無二。
そのオーダーに完璧主義的に応えたい。
もちろん
我々は哲学を持って仕事をしているのだから
その哲学から大きく逸脱したことは出来ないし
しない。
お客様に不安が残る商品を
お客様が求めても
そんな設計は出来ないし
しない。
お客様と我々の間にその鬩ぎ合いがあって
良い。
☆ ☆ ☆
先日、スーツを買った。
俗に「吊るし」と呼ばれる
汎用のスーツだ。
生地はナカナカ良いモノだし
仕立てもそれなりだ。
身体にもしっくりくる。
何とかっていう
ブランドのタグが付いていて
金額的にも安くはなかった。
が、
私はそれを
ほとんど着ない。
スーツを作るのを
すっかり忘れていて
急に暑くなった昨今
急いで買い求めたそれを
結局、ほとんど着ずに
しまってある。
☆ ☆ ☆
身体にしっくりくるのは
当然だが
心にしっくりくるモノは、なかなか
ない。
もしかするとそんなモノを
「本物」と呼ぶのかもしれない。
だとしたら私は
「本物」になれるだろうか。
私が作った保険は
「本物」だろうか。
本物が欲しい。。
本物だけに囲まれたい。
それが私の「理想」だ。
きょうのきょうみ[カメラ]
私の父は
その頃にありがちな
仕事ばかりの人間だった。
毎日12時をまわってから帰ってきて
しかもいつも酔っていた。
そして度々
寝ている私を起こして
お土産として買ってきたお好み焼きを
食べさせた。
当然の事ながら
「美味しい」と言わなければならない義務を負っていた私は
必死に眠気を抑えて一口食べ
「美味しい」と口にした。
そんな父だった。
それでも、たまの休みには
必ずどこかへ連れて行ってくれたし
私には「誰よりも愛されている」という自信があった。
今日の興味はそんな話からのスタートだ。
☆ ☆ ☆
もう彼是、30年近く前の話だが
その父が亡くなった。
38歳だった。
その頃の私は5歳。
幼稚園の年長になる少し前だった。
だから当然、最初に書いた話は
半分は私の中の事実だが
残りの半分は
私の中の創作と
聞きかじった話の合作だ。
私自身が父親になったばかりの頃
そんな合作で出来た父のイメージを
手探りながら追いかけた事がある。
父親とは何か。
まったく自身が持てずに
そのイメージばかりを追いかけたことがある。
当然、相手はイメージだから
大きくなったり小さくなったりして
まったく追いつけなかったし
きっとあのまま追い続けたら
今頃私は病にかかっている。
結局「私と父は違う人間なんだ」と割り切り
それは終わったのだが
最近になって
少しだけそれが気になっている。
☆ ☆ ☆
ちょうど10年前。
自宅を増改築した。
その時、古ぼけたカメラが一台、
埃をかぶってでてきた。
母に聞くと
父が生前、使っていたものらしいことがわかった。
その頃、カメラに興味がなかった私は
「これ貰っていい」という姉に
「どうぞ」と預けた。
父の形見だから
姉が持っていてもいいだろうと考えてのことだ。
姉は私よりもずっと人間らしい
素直な人だから
「父のカメラ」である事よりも
「一眼レフのカメラ」である事が嬉しかったようで
それを当時住んでいた都内に持ち帰り
気分を楽しんだようだ。
そして最近、
「長男としての役目を果たす」という
規定のレールに戻った私が部屋を片付けていると
またまた
古ぼけたカメラが一台、
埃をかぶってでてきた。
母に聞くとそれは
またまた父の形見のカメラだった。
しかし2台目ではない。
都内に持って帰った姉が
飽きたからといって置いていったそうだ。
まったく素直な人間らしい姉なのだ。
☆ ☆ ☆
「アサヒペンタックスSP」
当時は注目されたカメラである事は最近知った。
姉が使っていて壊したのか
勝手に壊れたのかは知らないが
このカメラはフィルムを巻かなくなっていた。
カメラを知らない私だから
人伝に頼み
修理を依頼した。
修理費用は数万円。
それだけ出したらヤフオクで
しっかりメンテナンスをされた同機種が
買えるのではないかと思ったが
それはそれと言うことで…。
修理をお願いしたついでに
写真の撮り方まで教わってきた。
その時に
このカメラが当時注目されていたことを知った。
そしてそれが
少しマニアックで高級だったことも知った。
ついでに随分堅牢に出来ている事も知った。
その話を教えてくれた某カメラ屋さんは
随分楽しそうに話してくれた。
その時、
そのカメラに
父のイメージが綺麗に重なった。
注目されマニアックで高級だった父の姿。
そして父の思い出話しをする方は今でも皆、一様に楽しそうだ。
いつまでたっても息子に追いかけさせる父。
堅牢さもまったく一緒だ。
☆ ☆ ☆
あの頃の父が私を撮ったのと同じように
そのカメラで私が娘の写真を撮る。
ファインダー越しにポーズをとる娘を
いつもより愛おしく感じるのは気のせいか。
そんな哀愁じみた事を感じる私にも
38歳が少しづつ近づいてくる。
そろそろ超えなくてはいけない事は
重々承知だ。
しかし、そのカメラは
電池がなく露出計が動かない事を除いては
完璧な仕事をする。
超えられるか。
きょうのきょうみ[みどり]
私はみどりが好きだ。
オレンジも好きだ。
理由はない。
小さい頃、アウターを買ってもらう時に選ぶ色は
大抵オレンジだったし
カーテンはみどりだった。
今日の興味は
そんな「色」の話だ。
☆ ☆ ☆
子供の頃はよく
「何色が好き?」とか
「何色にする?」などと聞かれた。
大人になってからは
好きな色を宣言することや
色を選んで人に伝えることは
殆どない。
それでも自分で何かを選ぶ時には
子供の頃と変わらないオレンジやみどりを選ぶ。
そんな事を先日感じた。
☆ ☆ ☆
今、仕事の事務所を移転中だ。
事務所だから当然だが
その中には多くの色を配置する。
多くの事務所は
青やグレーが比較的多い。
何も考えずに頼むと
パーテーションや椅子、ロッカーなど
多くのものがその色になる。
だから色々な色を配置するといっても
だいたい似たような色使いになる。
落ち着いた、いかにも仕事場な感じだ。
きっとその色が一番仕事がしやすいのだろう。
確かに落ち着いて仕事をするには
もってこいな気がする。
何の問題もない。
しかし私は
オレンジが好きだ。
だから私の事務所は当然
オレンジである。
椅子もパーテーションも
ゴミ箱だってオレンジだ。
オレンジと白と黒。
殆どそれだけで出来ている。
☆ ☆ ☆
先日来、クルマを探している。
名車なのか迷車なのかわからないが
兎にも角にもクルマを探している。
旧い車を買うとき、
大切なのは色ではない。
その個体の程度や
メンテナンスの状況がとても大切だ。
買ったは良いが
走らない、止まらない、曲がらないでは
困るからだ。
そもそも旧いクルマは
良い個体が少ないから
色に拘ると探せない。
世界中を探しても
「ない」という事もある。
そんな旧いクルマを探している私だが
今回は「色」の指定がある。
「みどり」だ。
そのクルマに限っては
「みどり」でなければならない。
もし「みどり」がなければ
買わない。
欲しくない。
人からは「わがままだ」と言われるが
私にとっては
とても大切なことなのだ。
☆ ☆ ☆
きっと色に本質はないだろう。
家具だって
クルマだって色なんてどうとでもできる。
塗り直せば良いだけの話だ。
しかし私にとって色は
とても大切だ。
もちろん
オレンジやみどりといっても
幅が広いから
オレンジやみどりだったら
何でもいいわけではない。
私には私の
好きなみどりが存在し
好きなオレンジが存在する。
そんなモノに囲まれて生きれたら
どれだけ幸せだろう。
私にとって色はとて大切な事なのだ。
そんな事を最近考えた。
きょうのきょうみ[ブランド]
クルマ好きな私が
最近気になっているニュースは
「タタ自動車」による「ジャガー」と「ランドローバー」の買収だ。
今までの株主であるフォードのリストラの一環で
買収総額は2650億円。
今日の興味はそんな伝統的ブランドのあり方だ。
ジャガーといえば
イギリスの伝統的な高級車メーカーで
特にスポーティーなクルマを美しく作る事で知られる。
ランドローバーは英国王室御用達のオフロード4WD専門メーカー。
「砂漠のロールスロイス」と呼ばれる
これまた高級車メーカーだ。
一方の「タタ自動車」は
近年急成長するインドの財閥系企業で
先日、28万円という超低価格車を発表し世界を驚かせた。
そんな3社が各々のブランドを持って
1つのグループとして活動していくことになったのだ。
☆ ☆ ☆
自動車に限らず
イギリスの伝統的な高級ブランドは
過去、何度も買収の対象にされてきた。
今回の2社も元々米フォードが株主だったのだから
イギリス国内から見れば
外資から外資へ株主が変更されたに過ぎない。
外資を使って自国の経済成長を図るのだから
「さすがイギリス」て事にもなる。
ただ今回面白いのは
「タタ」がインドの会社であり
インドは元々イギリスに直接統治されていた国ということだ。
かつての宗主国たるイギリスの伝統ブランドを買収することは
時代が大きく変化している事を端的に表す。
そう思って今回の買収をみると
情緒や歴史を感じ、とても興味深い。
さて、
昨今、自動車会社の買収や合併は日常茶飯事だ。
日本国内の自動車会社だって
他の自動車会社から資本的に独立しているのは
トヨタとホンダくらいしか残っていない。
あとは多かれ少なかれ他社の資本を受け入れている。
その殆どはトヨタ資本だがどちらにしても
自分達のアイデンティティを守る事は
容易ではなくなった。
そんな時代のタタによる買収劇だった。
☆ ☆ ☆
私が考えるに
クルマのブランドとは
すなわち器だ。
素晴しいクルマを開発出来る技術があって
それに莫大な開発費がかかって
その開発費を回収するとなれば
美しい器が必要だ。
だからこそBMWはロールスロイスを買収したし
メルセデスはマイバッハという往年のブランドを復活させた。
フォルクスワーゲンもベントレーを買い取ったし
イタリアでは国内での高級ブランドの合従連衡が進む。
その意味では
日本国内の自動車産業には
大きなメーカーはあっても
高級ブランドは一つもないと言っていい。
それは何も日本に限った事ではなく
殆どの国にない。
それでも合従連衡が進む理由は
技術や販売店の問題が殆どで
「その名前がほしかったから」
「その器がほしいから」ではなかろう。
しかし「タタ」。
まさしく名前がほしかった。
「ジャガー」と「ランドローバー」という
超高級なネームが欲しかった。
これで成功したら「タタ」には
どのメーカーよりも多くの賛美が集まるだろう。
☆ ☆ ☆
私は「ランドローバー」が実は好きだ。
だから今回の買収劇に多少期待している。
もしも「ランドローバー」のアイデンティティを
しっかり守りながら
経営基盤が強化されるのなら
そんなにいい事はない。
もちろんブランドを持ったことがない
高級車を作ったこともない「タタ」が相手だから
不安もある。
が、期待の方が大きい。
BMWに買われてからのミニやロールスのように
アイデンティティをしっかり残した
クルマ作りや経営基盤の強化を是非してもらいたい。
私は「タタ」に期待する。
きょうのきょうみ[tokyo]
あまり人には話さないが
私はTV東京がとても好きだ。
お得意の株式情報や経済情報系の番組ではない。
TV東京の情報バラエティー系の番組が好きだ。
今日はそんな話を…。
☆ ☆ ☆
私は
「人生の大半は無駄で出来ているべきだ」と思っている。
もちろん無駄に時間を浪費するのも
無駄なモノを買うのも好きではないが
無駄が大切だと思っている。
例えば「釣り」という行為。
人は魚を釣って食べる。
食べない魚を釣ることは
ある意味では「悪」だという事になっている。
魚だけではない。
象牙を採る為に象を狩る事や
ミンクを狩る事、
その他諸々
食べないのに、必要ないのに採る事を
「悪」と感じることはあるだろう。
ちなみに私にはある。
しかし
それは本当に「悪」だろうか。
それが人間らしいのだろうか。
そんな疑問を持ちつつ
今日の話を進める。
☆ ☆ ☆
スポーツフィッシングというモノがある。
俗にキャッチ&リリースと言われる
魚を釣って川へ返すという
なんとも無駄な釣りの話だ。
このスポーツフィッシング。
私も一時期やっていた。
その頃が一大ムーブメントだったのかも知れない。
多くの方が湖へ来て
駐車場はいつも満車だった。
その頃は何も考えずに
楽しんでいた。
それがある時
議論の的になった。
最初は外来魚による生態系の破壊から話が始まった。
それは一理ある考えだと私も思ったが
その議論に加わるのは止めておいた。
楽しむ自分と
一理あると思う自分の整合性がまったく取れていなかったからだ。
そんな私をよそに
その話は次から次へと進む。
感情的な軋轢も含んで
最後は前述の
「食べないモノを釣るなんて…」との議論だった。
そこまで進んでから興味津々で話に加わるのも
おかしなことなので
私はその議論からは避けてきた。
結局、話に加わることはなかったし
今でも私の中の整合性は取れていない。
☆ ☆ ☆
ただ
「食べないモノを釣る」
そして「逃がす」と言う行為は
私は重要だと思う。
それは「人間が人間らしく生きる」行為なのかもしれないと…。
その行為は自宅の庭に花を植える行為と似ている。
「食べないモノを植える」という一点においてのみだが
似ている。
自宅の庭が「サツマイモ」だらけだったら
なんと寂しいことか。
食べるだけ、生存するだけの行為がすべてだったら
なんと人間とは寂しい生き物か。
だから
その意味において
スポーツフィッシングは正しい。
人間らしい。
無駄でいい。
もちろん自宅の庭に
花も実もなって
食べることまで楽しめるものもあるから
2択にする必要はない。
食すためにする釣りは間違いでもないし
それでいい。
☆ ☆ ☆
文初に話を戻そう。
あまり人には話さないが
私はTV東京の情報バラエティーがとても好きだ。
それはきっと
スポーツフィッシングが好きなのと似ている。
花を植える行為と似ている。
アナログで
4・6・8・10と回した後に
1・3・12を選ぶ行為もまた
面白い。
最後になってから選ばれる東京12チャンネルの
その存在自体も好きだ。
私は
「人生の大半は無駄で出来ているべきだ」と思っている。
だからTV東京が好きなのかもしれない。
面白い。。
きょうのきょうみ[エンジン]
今、私は自動車ディーラーにいる。
朝、いつもの通りクルマで子供達を保育園に送り
先生と少し会話をしてから子供達を預け
エンジンを掛けたままにしておいたクルマに乗り込んだ。
家から保育園までは約二分。
ここまで来てから暖気をするのが私の日課だ。
今日はそんな日常から始まるいつもの日常なはずだった。
☆ ☆ ☆
しかし今、私は自動車ディーラーで暇を持て余している。
「エンジン異常!!」の表示と共に
異音が聞こえる。
こんなの久しぶりだ。
私はクルマを所有している。
実感する。
愛着がわく。
直れ!治れ!
説明に来たサービスの方の言葉に耳を傾ける。
実車を見て話を聞く。
自分で手で触ってみる。
感触を確かめる。
直る。治る。
ホッとした。
☆ ☆ ☆
新車の
シャンとした姿が好きな方がいる。
新車を数年で乗り継ぐ方がいる。
欲しいと思ったモノのパンフレットを
じっくり見ている方がいる。
欲しいとなったら買う前から多くの
エネルギーを使う方がいる。
私の一部もそうだ。
それもいい。
しかし私の他の一部はそうではない。
たった一つのモノを大切に使いたい。
手をかけて、お金をかけて、時間をかけて
少しずつ少しずつ愛着がわいてくる。
やっと、私の平日の愛車は
その対象になってきた。
嬉しい。
久しぶりにクルマという個体が好きになった。
☆ ☆ ☆
「もう問題ありません」
直った。治った。
今日はもう
仕事なんてしたくない。
よし。
彼と一緒に、このままどこかへ行ってしまおう!!
「♪♪♪♪」
「もしもし…」
仕事だ。
仕事をする。
では。。。
きょうのきょうみ[964]
最近、ずっと欲しいクルマを探している。
軽トラからフェラーリまで好きな私だが
最近は他のクルマが目に入らない。
今日の興味はそんな「964」だ。
☆ ☆ ☆
彼是数ヶ月、「964」と呼ばれるクルマを探している。
色は深緑。
内装色は黒。
マニュアルで極力改造されていない程度の良いモノを探している。
走行距離は問わないが
しっかりとしたメンテナンスがされている個体に限る。
「しっかりとした」といっても
定期的にオイルを交換しているなど
一般的なメンテナンスがされていれば問題ない。
そんな「964」を数ヶ月探している。
☆ ☆ ☆
1988年。
時代はバブル真っ只中。
ホンダからは和製スーパーカーたるNSXが発売され
それに触発されたかフェラーリからは348が世に送り出される。
そんな中、
業績難に喘ぎ、倒産さえ囁かれたポルシェ社から発売されたのが
ポルシェ911の第三世代たる「964」だ。
伝統のカエル顔に最新の装備を詰め込むも
ポルシェ社の業績を回復するに至らず
たった5年で4世代目の993にバトンを譲る。
現代スポーツカーでありながら
クラシック911の匂いがする。
そんな964が欲しくてたまらない。
☆ ☆ ☆
964を探すと
そのほとんどはティプトロニックと呼ばれるオートマチックだ。
私の体感では90%程。
19年前にはもうオートマが主流で
それがポルシェでもだとは
思っても見なかったが
考えてみれば
当然の事かもしれない。
現在発売されているスポーツカーのほとんどは
オートマチックやセミオートマチックで
クラッチレスの2ペダルなのだから
致し方ない。
しかしだからこそ私は
マニュアルが欲しい。
例えサーキットのラップタイムでオートマの方が速くても
例えマニュアルのクラッチがデリケートであっても
答えは変わらない。
私が探している964は
マニュアルの深緑で
極力改造されていない程度の良い個体なのだ。
☆ ☆ ☆
だから是非。
是非是非。
情報があったら
ご一報下さい。
きょうのきょうみ[ジャケット]
今、ジャケットが欲しい。
随分暖かくなり、春らしい陽気になったからか
少し大人ぶりたくなったからかはわからないが
ジャケットが欲しい。
もちろん大人のジャケットの話だ。
今日はそんなジャケットの話を…。
☆ ☆ ☆
昔から、男の春の装いといえば
「ジャケット」と決まっている。
もちろん毎年新調しなくとも
まったく着ない年があっても
それでも
春の定番は「ジャケット」という事になっている。
ジャケットは定番だから
テーラーメイドな一着を持った上で
落ち着いた色使いでありながら
少し遊び心のあるモノを持ちたい。
一部分の生地を変えてあるモノや
デザインが若々しいモノ、
ポケットの位置で遊ぶのも良いだろう。
そんなジャケットを持っていたい。
さて、
私はジャケットを定番と書いたが
実のところ、ジャケットが定番であるという結論に
最近、自信がない。
ジャケットだけではなく
定番だと思っていたモノの多くが
実は定番ではないのではないかと
最近よく感じる。
例えば
ライターの定番はデュポンやダンヒル等の
ローラータイプのガスライターだと思っているが
実のところどうなんだろう。
シューズはオールデンのプレーントゥ。
筆記具はパーカー。
社長はベンツで
部長はクラウン。
コロッケは肉屋。
子供は風の子。
定番が本当に定番か自信がない。
定番とは
流行や情勢に左右されず
安定した売り上げを確保できねばならない。
一般に、当たり前でなければならない。
その当たり前があるからこそ
センスのあるなしに係らず
人とは違う個性が作られる。
その基本たる定番がなければ
多くの人間は
オシャレや個性なんて楽しめない。
当然の事だ。
☆ ☆ ☆
もう10数年前になるか。
高校生の服装が崩れていった。
それまでは一部の学生だけが
崩していた服や髪型を
ほぼ全員が罪悪感もなく崩すようになった。
今では
短すぎるスカートも
色を抜き過ぎて痛んだ髪の毛も
誰も気にしなくなった。
そんな変化の頃、まだ高校生だった私は
「そんな事はどうでも良いじゃないか」
「彼らの個性も分かってあげないと」と
さも理解者かのように振舞う大人に
違和感を感じたのを今でも覚えている。
良いわけがないじゃないか。
着崩していた私が言うのも変な話だが
制服を着崩して良いわけがないじゃないか。
基本があるから、それに反発したり
抵抗したり、変化を求めたり…。
それが健全な少年の姿ではないか。
それに相反する大人が
理由のない基本を
基本として教え
社会が構築されるのではないか。
お互いに成長していくのではないか。
結局、彼らの服装がだらしなくなったという
変化をもたらして定着してしまった。
まったくもって「個性」などとは違う。
しかもそれは定番ではない。
本来あるべき高校生の定番は
今も変わらず生徒手帳に書いてある。
大人の男はもう少し
毅然とした様を定番にし、
それを見せるべきではないか。
毅然とした服装をしろという意味ではない。
定番は定番として
折り目正しくあるべきではないかという事だ。
それがあって初めて
砕けたり、崩したり、
あるいはもっとドレッシーにと
個性を楽しめるのではないか。
今年の流行だけでなく
そういう事にも気を使う大人になりたいものだ。
☆ ☆ ☆
春の休日はジャケットを羽織り
少しのドライブで到着する自然公園を
散策するような大人になりたい。
たまに着るカジュアルな洋服までも
大人の装いに変えてしまう。
そんな大人になりたい。
もうできるか。
まだ早いか。
そろそろそんな年になってきた。
きょうのきょうみ[ナビ]
私のクルマには
ナビゲーションシステムなるモノがついている。
俗に「ナビ」と言われる地図の
出来損ないみたいなモノだ。
「この先、踏み切りです」や
「この先、右カーブです」など
見ればわかることまで
親切に教えてくれる。
まったく
「小さな親切、大きなお世話」な奴だ。
その「ナビ」についての考察が
今日の興味だ。
☆ ☆ ☆
クルマの装備で「ナビ」ほどナンセンスなモノはない。
「ナビ」なんて付けない方がカッコいい。
必要以上に車内を明るく照らし
運転者に道路の先の状況まで教えてしまうモノなんて
ない方がカッコいいに決まっている。
例えば
クルマが好きな方は
クルマを操る楽しみを知っているだろう。
自分で先の角を見て
右へ左へ操る楽しみを知っているだろう。
まだ知らない角を曲がると
そこにはまた知らない世界が広がる。
なんと気持ちのいいことか。
感触や感覚でブレーキを踏み
綺麗に止める事は意外と難しいという事も
知ってはいないだろうか。
自動車評論家や雑誌のライターに言わせれば
それには車重も大きく関係してるというのも
ご存知だろう。
旅行が好きな方なら
迷子も楽しみの一つと思えはしないか。
地元の方に道を聞くというふれあいに
温かさや地域性を感じる事もあろう。
車中での地図を見ながらの会話が
旅情を盛り上げ
旅先のイメージを広げる。
こんな経験はないだろうか。
そんな事はみんな知っていて
それでも「ナビ」をつけるなんて…。
まったくナンセンスな話だ。
☆ ☆ ☆
しかし実は
格言う私も10年以上前から
ナビのついたクルマに乗っている。
ナンセンスと非難しておいての
自分への裏切り行為をし続けている。
正直に話してしまえば
ナビがカッコいいと勘違いした時期もあった。
まだ普及していないナビを
自分のクルマに装備することへの
優越感もあった。
大きな携帯電話を持って歩いていたのと似た感覚だ。
しかもそれを使い続けている。
もう優越感なんてないのに使い続ける。
クルマを変えてもナビは装備してきた。
自分を裏切り続けてきた。
そこにナビがナビたる所以があろう。
ナビは一度手にするとなかなか抜け出せない。
ただ混んでいるだけ、信号待ちで並んでいるだけでも
ナビに目が行ってしまう。
渋滞情報を確認するためだ。
なんとなく知っている場所へ行くときも
目が行く。
もちろんナビのデジタルな表示では
場所のイメージなんてわかないが
それでもそこに頼る。
「右折です」と言われれば
右に曲がるし
「この先、渋滞です」と言われれば
回避ルートをナビ上で探す。
頭の中で考えるなんて事は
ほとんどしなくて良い。
とにかく便利で都合がいい。
ナビは一度手にするとなかなか抜け出せない
麻薬だ。
☆ ☆ ☆
まったく矛盾している。
ナビゲーションシステムは矛盾している。
この二律背反…。
ナビは我々の行動を常に監視し
注意し、教える。
頼りになるといえばその通りだが
我々に思考を止めさせる。
困ることは大幅に減るが
楽しいことや嬉しいことも減る。
自分がどんどん不感症になっていく。
感覚を失う。
だから楽になる。
ナビは擬似的近未来も教えてくれる。
ある意味ではタイムマシーンだ。
どこが混んでいて
どこで事故があって
目的地に何時に着くか。
本来
そんな事は行ってみて初めてわかる事だ。
しかも最近のナビときたら
どこの店が美味しくて
近所の美術館では
誰の作品展を開催していて
ここの夜景が綺麗ですよなんて
勝手に教えてくれる。
当然その分、
想像力は衰え、考えなくなる。
もちろん多くのナビは
「そんな事は教えてくれるな」と言えば
教えない。
しかし機能が付いていて
それが便利で都合がいいとなれば
使ってしまう。
本当に麻薬だ。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが
これは「ナビ」に限った事ではない。
例えば「携帯」にも言える事だし
ネットにも当てはまる。
TVもそうだ。
ただ、新しいモノの方が
この矛盾の幅が大きいというだけだ。
☆ ☆ ☆
便利な麻薬と想像力の欠如。
この世は二律背反から出来ているのかもしれない。
そうでないかもしれないし
そうなのかもしれない。
まったく矛盾だ。
きょうのきょうみ[姿勢]
先日来、姿勢を気にしている。
自分自身の仕事に対する姿勢や
人に対する姿勢、
物事に正面から取り組む姿勢の話ではない。
実際の身体の姿勢を気にしているのだ。
人は姿勢をよくするだけで
痩せると聞く。
食物の消化にもよく
快腸になると聞く。
肩こりや腰痛にも効果があると聞くし
なにより見栄えがいい。
だから私は
「姿勢を正そうキャンペーン」を
一人で実施してる。
☆ ☆ ☆
私は多くの昭和生まれの方と同じように
足よりも胴が長い。
平成生まれの方のような体形に
憧れを持ちつつも、嫉妬心からか
「食生活の変化」を理由に
心配している顔をしたりする。
そんな昭和生まれの典型だ。
そんな私は
実は「姿勢がいいね」とよく言われた。
遠い過去の話だが
「姿勢がいい」と言われて育った。
しかし、そんな過去はさて置き
最近そう言われる事はまずない。
きっと姿勢が良いというのは幼少期だけで
今では、そんな事もないのだろう。
ということを考えた時、
私の脳裏には
とても穢い中年男性が浮かんでくる。
胴体が長く顔が大きい、
手足が短く、背中が丸い。
これでメタボだったら…。。
怖い…。
さて、
私はいつでも美しくいたい。
美しさの基準は人それぞれだろうが
少なくとも、自分が穢いと思って
人生を生きたいと思う方は
稀ではないかと思う。
他人から褒められなくともいい。
でも、自分では穢いと思いたくない。
私はそう思う。
胴体が長いことや
手足が短いことは
どんなに嫉妬しても変えられない。
顔が大きいことを変えるにも無理がある。
しかし、姿勢やメタボは自分でなんとかなりそうだ。
そこで、先日から姿勢を気にしだしたというわけだ。
☆ ☆ ☆
まず手始めに
椅子の座り方を変えた。
仕事用の椅子の高さを変え
肘掛の高さを買え
そして坐の位置を変えた。
もちろんクルマの椅子の座り方も変えた。
ハンドルを両手で持って余裕があるようにし
背凭れを立たせた。
歩く姿勢や立つ姿勢も気をつけているが
その時だけ気にすると、いつか忘れてしまう。
私はそんな自分の愚かさを知っている。
しかし椅子は、座れば強制的に私の姿勢を治すし
なによりその事を思い出させてくれる。
大切なことは「姿勢を気にしている」と
気にし続けることだ。
☆ ☆ ☆
私自身の創成期、
私はあえて姿勢を崩していた頃がある。
私だけではない多くの方がそうしたように
それの方がカッコよく見える時期があるのは
正常な成長過程ではないかと自己弁護をする。
そんな姿勢の崩し方だ。
その経験から言うと身体の姿勢は
すべての姿勢と密接に関係しているように思う。
本格的な武道を習った経験はないが
「健全な精神は健全な肉体に宿る」と耳にした事がある。
健全な肉体とは
健康的な肉体のことであり
健康的な肉体とはつまり
姿勢のことではないか。
そう考えると
今、行われている
この「姿勢を正そうキャンペーン」は
私自身の今後の人生に大きな影響を与えるかもしれない。
姿勢を正してすべてのことが解決するなら
こんなにいい事はない。
ということで
「姿勢を正そうキャンペーン」への参加者を募る。
もちろんキャンペーン参加者に
特典はない。
参加意思の確認もないし
報告の義務もない。
しかし募る。
参加した方にはきっと
すばらしい未来が待っているに違いない。
そう信じる。
