きょうのきょうみ[ナビ] | 心からにっき@ASOBI

きょうのきょうみ[ナビ]

私のクルマには

ナビゲーションシステムなるモノがついている。

俗に「ナビ」と言われる地図の

出来損ないみたいなモノだ。

「この先、踏み切りです」や

「この先、右カーブです」など

見ればわかることまで

親切に教えてくれる。

まったく

「小さな親切、大きなお世話」な奴だ。

その「ナビ」についての考察が

今日の興味だ。


☆          ☆          ☆


クルマの装備で「ナビ」ほどナンセンスなモノはない。

「ナビ」なんて付けない方がカッコいい。

必要以上に車内を明るく照らし

運転者に道路の先の状況まで教えてしまうモノなんて

ない方がカッコいいに決まっている。


例えば

クルマが好きな方は

クルマを操る楽しみを知っているだろう。

自分で先の角を見て

右へ左へ操る楽しみを知っているだろう。

まだ知らない角を曲がると

そこにはまた知らない世界が広がる。

なんと気持ちのいいことか。


感触や感覚でブレーキを踏み

綺麗に止める事は意外と難しいという事も

知ってはいないだろうか。

自動車評論家や雑誌のライターに言わせれば

それには車重も大きく関係してるというのも

ご存知だろう。


旅行が好きな方なら

迷子も楽しみの一つと思えはしないか。

地元の方に道を聞くというふれあいに

温かさや地域性を感じる事もあろう。

車中での地図を見ながらの会話が

旅情を盛り上げ

旅先のイメージを広げる。

こんな経験はないだろうか。


そんな事はみんな知っていて

それでも「ナビ」をつけるなんて…。

まったくナンセンスな話だ。


☆          ☆          ☆


しかし実は

格言う私も10年以上前から

ナビのついたクルマに乗っている。

ナンセンスと非難しておいての

自分への裏切り行為をし続けている。

正直に話してしまえば

ナビがカッコいいと勘違いした時期もあった。

まだ普及していないナビを

自分のクルマに装備することへの

優越感もあった。

大きな携帯電話を持って歩いていたのと似た感覚だ。


しかもそれを使い続けている。

もう優越感なんてないのに使い続ける。

クルマを変えてもナビは装備してきた。

自分を裏切り続けてきた。

そこにナビがナビたる所以があろう。


ナビは一度手にするとなかなか抜け出せない。

ただ混んでいるだけ、信号待ちで並んでいるだけでも

ナビに目が行ってしまう。

渋滞情報を確認するためだ。


なんとなく知っている場所へ行くときも

目が行く。

もちろんナビのデジタルな表示では

場所のイメージなんてわかないが

それでもそこに頼る。


「右折です」と言われれば

右に曲がるし

「この先、渋滞です」と言われれば

回避ルートをナビ上で探す。

頭の中で考えるなんて事は

ほとんどしなくて良い。


とにかく便利で都合がいい。

ナビは一度手にするとなかなか抜け出せない

麻薬だ。


☆          ☆          ☆


まったく矛盾している。

ナビゲーションシステムは矛盾している。

この二律背反…。


ナビは我々の行動を常に監視し

注意し、教える。

頼りになるといえばその通りだが

我々に思考を止めさせる。

困ることは大幅に減るが

楽しいことや嬉しいことも減る。

自分がどんどん不感症になっていく。

感覚を失う。

だから楽になる。


ナビは擬似的近未来も教えてくれる。

ある意味ではタイムマシーンだ。

どこが混んでいて

どこで事故があって

目的地に何時に着くか。

本来

そんな事は行ってみて初めてわかる事だ。


しかも最近のナビときたら

どこの店が美味しくて

近所の美術館では

誰の作品展を開催していて

ここの夜景が綺麗ですよなんて

勝手に教えてくれる。

当然その分、

想像力は衰え、考えなくなる。


もちろん多くのナビは

「そんな事は教えてくれるな」と言えば

教えない。

しかし機能が付いていて

それが便利で都合がいいとなれば

使ってしまう。

本当に麻薬だ。


お気づきの方もいらっしゃるかもしれないが

これは「ナビ」に限った事ではない。

例えば「携帯」にも言える事だし

ネットにも当てはまる。

TVもそうだ。

ただ、新しいモノの方が

この矛盾の幅が大きいというだけだ。


☆          ☆          ☆


便利な麻薬と想像力の欠如。

この世は二律背反から出来ているのかもしれない。


そうでないかもしれないし

そうなのかもしれない。


まったく矛盾だ。