散歩中に見付けた面白い形の樹冠をした木

 

 

お父さんのお母さん、つまり君たちのおばあちゃんは、神戸の空襲で焼け出されたあと、親戚が住む広島県の倉橋島に辿り着き、島の小学校で代用教員として働いていました。

 

そのおばあちゃんは、広島に原爆が投下された日のことをお父さんによく話してくれました。

 

 

その日、つまり昭和20年8月6日、おばあちゃんは何かの用事で朝から勤務先の学校に出勤しており、教え子たちの何人かも登校していたそうです。

 

そうしたところ、突然、それまで経験したことのないような強い光が教室の窓から差しこんできたというのです。

 

その時刻は午前8時15分。

 

教室に居た生徒たちは、口々に「なんだ、なんだ」と言いながら、いっせいに光が差しこんできた窓の方に向いました。

 

もちろんおばあちゃんも窓の方に行き、みんなで窓の外を見たそうです。

 

するとその瞬間、遥か遠くから「ドーン」という物凄い地響きのような音が聞こえてきました。

 

それは、広島市中心部の上空600メートルで原子爆弾が炸裂した音だったのです。

 

そして暫くすると、閃光が差し込んできた方向であり「ドーン」という物凄い音が聞こえてきた方向でもある広島市の方角の上空に、巨大なきのこのような雲が立ち昇っていくのが見えたそうです。

 

もちろん、当時田舎の小学校の若い一教師に過ぎなかったおばあちゃんには、その時それが何だったのかは全く想像がつきませんでした。

 

その日、島の人たちの間では、「なんやしらんが、アメリカの殺人光線らしいで。」「広島、のうなってしもうた(無くなってしまった)そうじゃ。」というような様々なデマが飛び交っていたそうです。

 

 

「原爆のことを『ピカドン』って言うでしょ。あれは本当なのよ。突然『ピカッ』と光が差しこんできたと思ったら『ドーン』というものすごい音が聞こえてきてね。そうしてしばらくしたら、モクモクモクーって何とも言えない不気味な雲が立ち昇るのが見えたの。あれがきのこ雲だったのね。」

 

まだお父さんが小さかった頃、おばあちゃんはそんなふうにして昭和20年8月6日に自分が経験したことを何度も話してくれました。

 

 

広島に原爆が投下された当時は、おばあちゃんのお母さん(お父さんの母方の祖母)(小町のおばあちゃん)も元気でした。

 

それで小町のおばあちゃんは、原爆投下の翌日か翌々日くらいに、握り飯をたくさん作って、誰かの舟に乗せてもらって広島まで行き、親戚とか知り合いとかを訪ねて回ったのだそうです。

 

それが原因だったと言われていますが、小町のおばあちゃんは、それから15年ほどして胃がんを発症し、61歳でこの世を去りました。

 

※母方の祖母についてはこちらこちら

 母の戦争体験については、こちらこちらこちらこちらも