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神戸で生れたお父さんのお母さん(君たちのおばあちゃん)は神戸の高等女学校に進学し、薬専(今の薬科大学)目指して一所懸命勉強していました。

 

しかし、女学校在学中に神戸製鋼に勤めていた父親(倉橋のおじいちゃん)が病気で亡くなってしまったため、泣く泣く進学を諦めました。

 

その後おばあちゃんたちは神戸の大空襲に遭って家を焼かれてしまうのですが、お父さんはこの神戸の大空襲の話をおばあちゃんからよく聞かされました。

 

 

当時おばあちゃんたちは神戸の和田岬の方に住んでいたのですが、自分たちが空襲に遭う前から、既に阪神間では断続的に空襲が行われており、神戸でも頻繁に空襲警報が発令されていたそうです。

 

空襲警報が解除されて岬に行ってみると、ある日は大阪の方の空が真っ赤になっており、またある日は西宮方面が激しく燃えているのが見え、岬に来ていた人々は口々に「次は神戸やろか。」などと話していたそうです。

 

そして遂におばあちゃんたちの住む地域が大空襲に遭う日がやってきました。

 

その夜、焼夷弾が落とされて町中が火の海になる中、逃げ惑う市民たちは、山側に逃げた人達と海の方に逃げた人達と、大きく二つに分かれたそうです。

 

このような場合、町中が火に包まれていることから、まず思いつくのは、水のある場所に逃げて熱さや炎から身を守ることでしょう。

 

実際、その大空襲の夜には多くの人々が海の方に向って逃げて行ったそうです。

 

しかし、海の方向に逃げて行った人々の中には命を失ってしまった人が多くいました。

 

それはなぜか。

 

それは、その空襲が行われた夜の時間帯には、神戸では山側から海側に向って風が吹いていたからです。

 

そのため、空襲の炎は山側から海に向かって吹く風に煽られて海側に広がり、海の方向に逃げた多くの人が炎や煙に巻かれて命を落としてしまったのです。

 

しかしこのときおばあちゃんは、自分の判断で山側の方向に逃げました。

 

なぜかというと、おばあちゃんは海陸風という気象現象を学校で習って理解していたからです。

 

小学校の5年生くらいになると理科で習うと思いますが、海陸風というのは、海水と陸地との間に温まり方・冷め方の違いがあるために神戸のような海沿いの街で観測される気象現象のことです。

 

まず、日中は太陽の日差しによって海よりも陸地のほうが早く温められるため、陸地に上昇気流が起きて海側から山側に向って風が吹きます。

 

しかし夕方になって気温が下がってくると、陸地の方が海よりも早く冷えていくため、夕方以降は陸地よりも海の方が温度が高い状態になります。

 

このため、夜になると海上で上昇気流が起き、今度は山側から海側に向って風が吹きます。

 

そして朝になって太陽がまた顔を出すと、陸地はどんどん温められ、朝のある時間を境にして陸地の温度が海水よりも高くなって陸上で上昇気流が起き、再び海側から山側に向って風が吹き始めます。

 

これが海陸風の原理です。

 

そして、この繰り返しの中で、朝と夕方に各1回、風の向きが変わるときに生じる無風の状態を「凪」と呼び、朝に起きる凪を「朝凪」、夕方に起きる凪を「夕凪」と呼びます。

 

おばちゃんは学校でしっかり勉強をしていたので、神戸では夕凪を境にして風向きが変わり、夜は山側から海側に向って風が吹く、ということを理解していました。

 

そのため、神戸の大空襲があったその夜も、自分の判断で母親や弟を連れて山側に逃げ、空襲から命を守ることができたのです。

 

おばあちゃんは、お父さんに何度もこの神戸大空襲の話をしてくれました。

 

そしていつも必ず以下のようなことを付け加えてくれました。

 

「自分たちが神戸の大空襲を生き延びることができたのは、学校の勉強のおかげである。学校の勉強は一見何の役にも立たないように見えるけれど、生きていく上でいつか必ず何かの役に立つことが含まれている。だから面白くなくてもしっかり取り組まないといけない。」

 

空襲を生き延びたあと倉橋の小学校で教員をしていたおばあちゃんらしい貴重な言葉だと思います。

 

君たちもおばあちゃんの言葉を肝に銘じて一所懸命勉強してください。

 

※おばあちゃんについてはこちらこちらこちらも