父さん。
既に母さんから聞いていると思いますが、母さんが末期がんと診断されたあと、僕は、母さんと最後の時間を一緒に過ごすため、妻を説得してこの海辺の街に一軒家を求めました。
そして、僕たちの住んでいたマンションも母さんが一人で住んでいたマンションも共に引き払って、ある夏の日、みんなで引っ越してきました。
なぜこの海辺の街を選んだのか。
それは、この街には、父さんが育ち、父さんと母さんが出会った瀬戸内の海軍の街を彷彿とさせるものがあったからです。
母さんもほんの少しかもしれませんが、遠い昔のことを思い出し、父さんとの思い出を辿ることが出来たのではないかと思います。
この街に引っ越してきてすぐのころ、妻が庭に無花果を植えました。
その無花果が今年、写真のような立派な実をつけました。
父さんは官舎の庭の無花果のことを覚えていますか?
僕がまだうんと小さかったころ、母さんが何かの記念だと言って、当時住んでいた東京郊外の官舎の庭に小さな無花果の木を植えていましたね。
何の記念だったのか、なぜ無花果だったのか、当時母さんに聞いたはずなのですが、忘れてしまいました。
母さんと最後の時間を過ごしたときに、もう一度、何の記念だったのか、なぜ無花果だったのかを聞けばよかったのですが、母さんの体調はみるみる悪化し、残念ながらその話を聞けないまま、この街に来て8か月ほどで、母さんは父さんの所へ旅立ってしまいました。
父さん母さん。
庭の無花果にまつわるこの話は、人様にとっては何ということもないつまらない話です。
でも、僕にとっては、父さん母さんの思い出に繋がる大切な話のひとつなのです。
子どもたちがもう少し大きくなったら、父さん母さんのあれこれと一緒に、是非話してあげようと思っています。