亡き母宛の郵便物
母は、戦時中に教え子を引率して島の高射砲陣地を見学したときの話をよくしてくれた。
神戸の和田岬の近くに住んでいた母は、神戸の空襲で焼け出されて倉橋島に辿り着き、島の小学校で代用教員をしていた。
その関係で母は、当時教えていた子どもたちを引率して、島の山頂付近にあった高射砲陣地を何回か見学したそうだ。
見学に行くと、その高射砲がいかに優秀であるかを兵隊さんが説明する。
「なにしろ、わが軍の高射砲は極めて性能が高い。高度〇○メートルを通過する敵機をも確実に撃墜することができるのであります。従って、敵は1機たりとも本高射砲陣地を超えることができない。かかる次第で帝国の防空圏はいかにも安泰であるから、諸君は安心して勉学に励まれたい。」みたいなことを得々と説明してくれたのだそうだ。
しかし実際には、確かに敵機が島の上空に飛来した際には高射砲が迎え撃っている光跡は見えるものの、敵機の飛行高度は高射砲の光跡のはるか上であり、敵は涼しい顔をして島の上空を通過して行ったのだという。
「まあ兵隊さんも小学生が見学に来ている手前、本当のところを話すわけにもいかなかったんだろうねえ。なんというか、今思えば大風呂敷だけど、でも子どもたちはみんな神妙な顔をして聞き入ってたわね。」そんな風に母は言っていた。
当時まだうんと若くて独身の教員だった母。
どんな風にして教え子たちを山の高射砲陣地まで引率し、兵隊さんとどんなやり取りをしながら見学を遂行していたのだろうか。
その高射砲陣地に向かう道の途中には、母の教員時代の同僚で親友だった女性がずっと住んでおり、母は亡くなる直前までその方と年賀状のやり取りをしていた。
母が亡くなった際にはその親友の方にも喪中の葉書を送った。
母がどんな先生だったのか、その同僚の方に聞いておけばよかったが、母が亡くなる直前にその方から届いた年賀状には、息子さんと思われる方の字で、「母は認知症がひどくなり云々」と近況が報告されていた。
恐らくその方ももうこの世にはおられないであろう。
残念である。