子②令和元年12月作。ただし、上部に描かれている牛乳パックなどの絵は、裏に印刷されているものを透かして写したもの。


 

母はよく、戦時中機銃掃射に遭った話をしてくれた。

 

母は、神戸の空襲で焼け出されたあと、広島県の倉橋島で代用教員となり、住んでいた集落から岬をひとつ越えたところにあった分校で教鞭を執っていた。

 

その頃すでに制空権は米軍に奪われており、島の上空は本土を空襲する米軍機の通り道になっていた。

 

その日も母はいつものように岬を越えて分校に向かっていた。

 

すると1機の米軍機が現れた。

 

といっても、何もない田舎の島の岬に過ぎない。

 

撃つ必要があるとは思えない。

 

ところがその米軍機は、明らかに面白半分に母を目がけて機銃掃射を行ってきたという。

 

松の木に隠れて九死に一生を得た母は、その日胴震えが止まらず、以後しばらくの間、飛行機の爆音が聞こえるたびに体が震えて歩けなくなったそうだ。

 

そのとき母に機銃掃射が当たっていたら、私は今この世には居なかった。

 

機銃掃射の中を生き延びた母には感謝の言葉しかない。

 

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