本日のテーマ

便利になったのに、

なぜ私たちは満たされないのか

 

 

私たちは今、とても便利で快適な時代に生きています。

 

スマートフォン一つで、
人とつながることも、調べることも、買い物をすることもできます。

 

時間も手間もかからない。
本当に素晴らしい時代です。

 

しかし、私は最近、ある違和感を覚えることがあります。

 

それは、
「本来必要だったものが、必要でなくなってきているのではないか」
という感覚です。

 

先日、テレビである実験が紹介されていました。

 

無重力の環境でラットの筋力を調べたところ、
しばらくすると筋肉が衰えていたそうです。

 

筋肉は、使わなければ衰える。
これは、生き物として当たり前のことです。

 

では、私たち人間はどうでしょうか。

 

現代は、体を動かさなくても生活できる環境が整っています。
さらに、SNSやITの進化によって、人と直接会わなくてもつながることができるようになりました。

 

とても便利です。

 

けれどその一方で、
人と人が直接関わる機会や、
会話の中で生まれる気づきや安心感が、
少しずつ減ってきているように感じます。

 

人は、人との関わりの中で、
安心し、学び、気づき、そして整っていく存在です。

 

もしその機会が減っているとしたら、
知らないうちにストレスがたまり、
それをうまく解消できなくなっているのかもしれません。

 

便利さは、私たちの生活を豊かにしてくれます。

 

しかし同時に、
本来必要だったものを、静かに削ってしまう側面もあるのではないでしょうか。

 

筋肉と同じように、
人との関わりや、考える力、感じる力も、
使わなければ少しずつ弱くなっていきます。

 

だからこそ私は思うのです。

便利な時代だからこそ、
あえて人と会う。
あえて話す。
あえて考える。

 

そうした「本来必要なこと」を、
自分の意思で取り戻していくことが大切なのではないかと。

 

人, 男, 屋外, 持つ が含まれている画像

AI 生成コンテンツは誤りを含む可能性があります。

 

便利さに流されるのではなく、
便利さを使いながら、自分を失わない生き方を選ぶ。

 

それがこれからの時代に必要な在り方なのかもしれません。

 

 

本日のテーマ

自分だけは大丈夫!?

 

 

社会のルールは、みんなが守ることで成り立っています。
もし誰も守らなければ、たちまち秩序は崩れてしまうでしょう。

 

けれど、こんな考えが頭をよぎることはないでしょうか。
「自分一人くらいなら大丈夫だろう」
「みんなもやっているのだから、自分もいいだろう」

 

こうした小さな例外の積み重ねが、やがてルールを形だけのものにし、社会のモラルを少しずつ崩していきます。

 

これは特別な人の話ではなく、誰の中にもある考え方かもしれません。
「自分だけは」という思い。
場合によっては、自分はどこか特別であると感じてしまうこともあるでしょう。

では、こんな話があります。

 

ある村で、酒盛りをすることになりました。

 


村人たちは、それぞれ徳利に酒を入れて持ち寄り、一つの大きな釜に注いで飲むという約束でした。

その中の一人、嘉助はこう考えました。
「自分一人くらいなら、酒の代わりに水を入れても分からないだろう」

そうして水を入れた徳利を持って行き、何食わぬ顔で釜に注ぎました。

ところが、同じことを考えていたのは、嘉助だけではありませんでした。
権兵衛も、弥吉も、同じように水を持ってきていたのです。

やがて酒盛りが始まりましたが、釜の中にあったのは酒ではなく、ただのぬるい水でした。
皆の顔は、酒ではなく気まずさで赤くなりました。

「まさか、みんなが同じことを考えていたとは……」

誰も何も言えないまま、場は白け、酒盛りは静かに終わったそうです。

 

この話は、どこか他人事のようでいて、実は私たちの身の回りにも起こっているのではないでしょうか。

 

会議のとき、「自分は発言しなくてもいいだろう」
皆でやることに、「少しくらい手を抜いてもいいだろう」

 

もし、全員が同じことを考えたらどうなるでしょうか。
物事は前に進まなくなり、やがて組織も社会も機能しなくなってしまいます。

 

「自分だけは」という心は、小さなもののようでいて、確実に全体を蝕んでいきます。

 

だからこそ大切なのは、
“自分一人でも守る”という在り方ではないでしょうか。

 

私はこう思います。
誰も見ていないときの選択こそが、その人の人格をつくる。

 

■ジャン=ポール・サルトル の言葉
「われわれはつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそうしたら、どんなことになるだろうと」

 

 

本日のテーマ

粗末にしない

 

 

物を大切にすることは、単に節約することではありません。
それは、物に感謝することだと私は思います。

 

私たちの身の回りにある日用品や、住まい、道路、そしてさまざまな環境設備。
それらはすべて、地球の資源からつくられています。

 

つまり私たちは、地球の恵みを使いながら生きているということです。
新しい物が生まれるたびに、そこには必ず資源が使われているのです。

 

だからこそ、身近な物の扱い方を、あらためて見直してみたいものです。
食べ物、日用品、電気、水――それらをどのように使っているでしょうか。

 

「粗末にしない」という生き方を体現した人物に、徳川光圀 がいます。
水戸黄門のモデルとして知られる人物で、戦前の修身の教科書にも、その姿が記されています。

 

粗末にしない —— 徳川光圀

光圀は、水戸の殿様であり、『大日本史』という名高い歴史書を編さんした人物です。
不自由のない身分でありながら、常に倹約を心がけていました。

着る物や食べる物は質素なもので、住まいも決して豪華ではありませんでした。
居間は狭く、天井や壁には反故紙が貼られていました。

その反故紙も、ただの紙ではありません。
他人から届いた手紙などを再利用し、自らの手で丁寧に貼ったものでした。

日常で文字を書くときも、新しい紙ではなく、反故紙の裏を使っていました。

あるとき、女中たちが紙を粗末に扱っているのを見て、光圀はある行動を取ります。
冬の寒い日に、紙すき場へ連れて行ったのです。

そこでは、女性たちが冷たい水の中に入り、川風にさらされながら、手足を真っ赤にして紙をすいていました。
その光景を目の当たりにした女中たちは、自分たちが何気なく使っていた紙が、多くの人の苦労の上に成り立っていることを知ります。

それ以来、彼女たちは紙一枚たりとも粗末に扱わなくなりました。

 

 

物を大切にするという行為は、単なる習慣ではありません。
そこには、人や自然への敬意が表れます。

 

見えないところにある努力や支えに思いを向けられるかどうか。
それが、その人の人間性を表しているのではないでしょうか。

 

私はこう思います。
物を粗末にしない人は、人生もまた粗末にしない。

 

■徳川光圀 の言葉
「九分は足らず、十分はこぼれると知るべし」