本日のテーマ

トラウマを克服する~わたしの実践法~】

 

 

トラウマに悩まされている人は意外に多いのではないでしょうか。

 

トラウマとは、
過去に嫌な出来事があり、それが心に強く残っている心の傷のことです。

 

その内容は人によって異なります。

 

 大きな大ケガや激しい痛みを伴うケガ…
 暴力的な行為の被害…
 虐待の被害…
 戦争体験…
 親しい人の突然の事故や事件での死…

 

わたしもトラウマに、20代から30代までの15年ほど悩まされて生きてきました……。

 


誰でもそうですが、心に残った傷は容易く治せるものではありません。
過去のことが何かの拍子で突然よみがえり、苦しめられ、その恐怖で、対人恐怖症や自信喪失、消極的になることもあります。

 

わたしは、22才の時に大きな交通事故に遭遇し、死の淵から生還した経験があります。
その後、長年に渡り事故のフラッシュバックに苦しめられてきました。


 

事故は、運転席が大破するほど激しい追突事故でした。
わたしを襲うフラッシュバックは、自分が運転する車が激突する瞬間の映像がよみがえってくるのです。
その度に、恐怖感に駆られ、汗が滲みます。
そんなトラウマに15年も悩まされ続けてきました。

 

なんとか忘れようと努力するのですが、フラッシュバックはそんなことをよそに突然襲ってきます。
疲れ果てながらも、どうしたらこのトラウマから解放されるかを考え続けてきました。
そしてようやく気づくのでした。
「忘れることは本当の解決ではない。納得しなければいけない…」
ということに。

 

トラウマは恐ろしいと思っていることです。
恐ろしいと思っていることはその原因のもとを絶たなければいつかは思い出してしまうものです。

 

わたしは今までの自分を振り返りじっくり考えてみることにしました。
すると、どうでしょう、同じことを繰り返している自分がいたのです。

 

そこで自分と向き合うようにして、自分に問いかけてみました。
「過去のことを引きずって何になるの?」

 

この時、もう過ぎてしまった過去を思い出し、大切な今という時間を奪われて行っていることに気づきました。

 

過去は過ぎたことであり、どうすることもできないこと。
その過去に、今という時間を過去の嫌な思い出に引きずり込まれていたのです。
なんともったいなことをしてきたことでしょう。
15年間どうすることもできない仕方ないことに悩まされてきたのです。
このままでは死ぬまでつきまとわれてしまいます。

 

ココでようやく気づいたことは、
「どんなに悩んでも、悔んでも、恐れても、どうすることもできない過去のことである」
ということでした。

 

その時から、わたしは過去をすべて学びに替えることにました。
事故に遭遇することで、
「どんなマイナスが起きたかではなく、何を学んだか…」
を考えるようにしました。

 

すると、不思議ですが、様々なことを学んでいることに気づくのです。
・ケガをした時に体が不自由になり、体の不自由な人の思いを理解することができた。
・健康でいられることがどれほど価値があるものかを知った。
・死の淵から生還し、人生について真剣に考えることができた。
・不自由は体のわたしが人から優しくされ、優しくすることの大切さを知った。

・仕事に3年間就くことができず、仕事ができることのありがたさを知った。

 

学んだことは次から次に出てきました。
これだけのことを与えてもらい成長させてもらっていたのです。

それに気づいたわたしは、“事故の体験”に手を合わせ心から感謝しました。

「事故に遭わせていただきありがとうございました…」

 

すると、“奇跡が起きた”のです。

この時点から15年も苦しまされてきたフラッシュバックはなくなったのです。

わたしは驚きました!

 

この気づきから人生が変わっていきました。

「起きてしまった、起こしてしまった仕方ないことは、悩んでも悔やんでもどうすることもできない。ならば、どうするかのみを考える」

 

この経験以来、わたしの人生は、後悔はしないで反省し、学びに替える生き方をするようになっていったのです。

 

 

 

本日のテーマ

【子どもが育つ環境を考える

現代に孤独な人が多い~】

 

 

子どもに対する教育は多くの人の力が必要です。

 

人間という字は、

「人」の「間(あいだ)」と書くように、人同士の間の社会という環境で、もまれながら学び育っていきます。

様々な経験を積んだ人の知識や知恵からいろいろなことを教わりながら一人前に育てられていきます。

 

教育とは、このように様々な経験を持つ人の力が必要なのではないでしょうか。

昔は3つの教育の環境があるといいます。


1、家庭教育
2、学校教育
3、地域(社会)教育

 

というように昔はさまざまな立場の人たちから教育をされながら子どもたちは育っていきました。

しかし、現代では1と2の機会はあるのかもしれませんが、肝心な3が失われてきてしまったように感じられます……。

 

 

わたしは3の地域(社会)教育がとても重要な役割を果たしていたと思っています。

 

地域教育とは、

地域や近所の大人や年上の人たちと接することで得られる教育です。

この教育は、家庭や学校では行き届かないことを補ってくれていました。

 

わたしの子どもの頃には多くの人から声をかけられ、また多くの人に声をかけながら育ちました。

 

 近所のおじさん、おばさん、お兄さん、お姉さん…
 商店街のおじさん、おばさん…
 乾物屋や出前の配達のお兄さん…
 顔なじみのお巡りさん…

 

多くの人から声をかけられてきました。
周囲の人から自分の存在が認められていたことを感じていました。
そしていろいろな話をしました。
 

 わからないことを聞いたり…
 遊び方を教わったり…
 叱られたり…
 褒められたり…
 面白い話を聞いたり…

 

そんな人たちと触れ合う中で親や学校から教わっていないことを学んできました。
嫌なことがあってしょげていると、近所のお兄さんが、
「どうした。何かあったのか?」
と声をかけてくれました。

 

今考えると、この地域が肝心なことを教えてくれていたことに気づかされます。
この地域の教育が欠落したとしたら、家庭や学校だけでは不足している教育は誰が教えるのでしょう。
今の社会を見ていて、そのしわ寄せが表われているような気がしてなりません。

 

それが、

 礼儀やマナーの欠如…

 個人主義(自分勝手)…

 叱ってくれる人がいない…

 相談相手がいない…

 

昔は、

 近所のおじさん、おばさんから叱られていました…

 寂しかった時、誰かがいてくれ、かまってくれました…

 相談してみようと思う人が側にいてくれました…

 

現代では、このようなことができなくなっているのではないでしょうか?

困ったことや、苦しいことをかかえてしまった時、誰に相談するのでしょう?
もし、親や学校の先生に相談できないことであればどうすればよいのでしょうか?

 

わたしはこの時代が、人が生きていく上で大切な根本を忘れてしまっているように思うのです。
それは、

「人との関わり合いの大切さであり、人とのコミュニケーションから人間関係を築いていくことです。それは自分を理解してくれる人、相手を理解できる人をつくっていくこと」

です。

 

現代社会を生きる若者たちに孤独を感じるのです。
突き詰めていけば、
 自殺…
 うつ病…
 いじめ…
 不登校…

は孤独が原因の一つと考えられないでしょうか。

 

わたしの子どもの頃、孤独なんていう言葉はあまり聞いたことがありませんでした。

社会がそんなことを気にしていなかったと思います。
それは、皆が一緒に生き合っていたからなのでしょう。



(57年前の4才の頃のわたし。近所のおじさんに注意されているところ……)

 

人間は、多くの人と触れ合い、語り合いながら生きることが望ましい教育なのではないでしょうか……。

 

昔は大家族で生活をしていました。
おじいちゃん、おばあちゃんの知恵はとても重要な役割がありました。
お父さん、お母さんにはない深い経験から成る知識と知恵があったからです。
そして、近所の人たちもそれと同じで家族にない知識と経験があったのです。
現代社会を生きるわたしたちは、一人の子どもが多くの人の力を借りて育つことのメリットに目を向けなければならないのではないでしょうか。


アメリカインディアンオマハ族の格言…

「ひとりの子どもを育てるには、村中の努力が必要だ」

 

 

 

 

本日のテーマ

愛する技術】

 

 

日頃の会話ではよく、

「愛」

というキーワードが出てきます。

しかし、この「愛」についてですが、改めて考えたことがあるでしょうか?

 

もしかして「愛」とは、その人が認識した愛の深さや広さがあり、人によって愛への認識や愛し方が異なるのかもしれません……。

 

 

「愛とは何ですか?」
この問いにどれだけの人が答えを持っているでしょう。

 

愛とは
 好き…
 恋… 
 恋愛…
とも違うように思えます。

 

では、恋と愛の違いは何でしょう?


 

わたしは、「恋」と「愛」については、

好意をもっていることには変わりがないのですが、深さに違いがあるように思います。

 

また、愛にも色々な対象があります。
 異性への愛…
 夫婦愛…
 家族愛…
 親子愛…
 兄弟愛…
 友人愛…
 人類愛…
 動物への生命愛…
 物への愛着など…

 

みなさんは愛についてどう思われますか?

ドイツの社会心理学、精神分析の哲学の研究者であるエーリッヒ・フロムは、
「愛は技術だ」

と言っています。

 

わたしにとってはとても興味深いことで、同感です。

その一方で、「愛」に技術があるとは思えない、そんな人もいるでしょう。

 

わたしがなぜ愛には技術が必要だと思うかですが、

技術とは深さとでもいうのでしょうか。

人は自分が愛だと思っている愛し方しかできません。

だから愛を学び、愛し方を知ることにより、相手をもっと深く愛することができます。

 

愛が長つづきしないという人は、愛の技術が足りないのかもしれません。

もし心当たりのある方は、フロムの見解を参考にしてみてください。

では、フロムの著書『愛するということ』(鈴木晶訳 紀伊国屋書店)の一文をご紹介しましょう。

 

「愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三者の誤りは、恋に『落ちる』という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに『とどまっている』という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人同士だった二人が、たがいに隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。(略)ふいに親しくなるというこの奇跡は、二人が性的に引きつけあって結ばれるとか、性的な関係から交際がはじまった場合のほうが起こりやすい。しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ、だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。(略)愛することをやめてしまうことはできない以上、愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである」

 


そう言われてみれば、生きることはまさしく技術です。
人生は経験を生かし、生きる技術を磨きながら生き方を形成しているわけですから、これは技術をつけながら生きていることになります。
それと同じように愛にも技術があると納得できます。
未熟な愛は長続きしない、なんだか自分の若い頃を言いあてられているようでした。
幼い愛から、成熟した愛、まるで小学校から大学まで学問のレベルがあるように、愛にも技術のレベルがあることを感じます。
また、フロムは“愛する対象”についてこのようにも述べています。

 

「愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの『対象』にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。ところがほとんどの人は、愛を成り立たせる対象であって能力でないと思いこんでいる。それどころか、誰もが『愛する』人以外は誰も愛さないことが愛のつよさの証拠だとさえ信じている」

 


愛の技術を磨くことにより、愛する対象者も広くなるということです。
きっとマザー・テレサは、高いレベルの愛の技術を持っていたのでしょう。

 

マザー・テレサの言葉…
「貧しい人々が一番求めているのは、哀れみではなく、愛なのです」