本日のテーマ

余命宣告されたら

 

 

私はこれまで、人が亡くなる間際に、幾度となく立ち会うことがありました。

 

そのたびに、悲しく、やるせない思いになりました。

そして同時に、

「人は本当に死ぬのだ」
「自分にも、いつかこの時が来るのだ」

ということを、自分自身に言い聞かせてきました。

 

もし、ある日突然、自分が重い病気にかかり、余命を宣告されたとしたら、その時、自分は何をするだろうか。

そんなことを考えるようになりました。

心の準備もなく、突然余命を宣告されたら、きっと落胆し、絶望感に襲われることでしょう。

自分の人生の終わりを告げられるのですから、心が乱れるのは当然のことだと思います。

その時、自分は果たして冷静でいられるのか。

実際にその場面に立たされてみなければ分かりません。

しかし、私には「こうありたい」という一つの思いがあります。

 

その思いを持つきっかけになったのが、俳優の鈴木ヒロミツさんでした。

 

鈴木ヒロミツさんは、二〇〇七年三月、六十歳で永眠されました。

鈴木さんは、ある日突然、余命三か月の宣告を受けたそうです。

 

メガネを掛けた男性

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宣告された時は、動揺し、怖くて、心も大きく乱れたといいます。

しかし、やがて鈴木さんは、

「あと三か月しかない」

ではなく、

「まだ三か月ある」

と考えるようになりました。

そして、その三か月を力の限り生き抜こうと決意されたのです。

鈴木さんは、愛する人、お世話になった人たちに、感謝の思いを込めて手紙を書くことにしました。

著書『余命三カ月のラブレター』の中には、奥様や息子さんへの深い思いがつづられています。

死を前にして、怖さがなかったわけではありません。

棺に横たわる自分を想像し、火葬される自分を思い、どうしようもない恐怖に襲われることもあったそうです。

それでも鈴木さんは、家族への愛と感謝を言葉にしました。

もし生まれ変わることができるなら、息子さんの子どもとして生まれたい。

今度は自分が、息子さんの背中を洗ってあげたい。

家族で笑い合いながら、楽しく暮らしたい。

そして、そのように思える息子を産んでくれた奥様に、どれほど感謝しても足りないほどありがたく思っている。

 

そのような思いが、手紙の中に込められていました。

このラブレターは、ご家族や知人だけでなく、多くの読者の心を打ったことと思います。

私は、鈴木ヒロミツさんの生きざまから、大切なことを教えていただきました。

たとえ残された時間が短くても、人は誰かに何かを残すことができる。

たった三か月でも、感謝を伝え、愛を伝え、人の心に生きる力を届けることができる。

その見本を見せていただいたように思います。

 

私は、このように素晴らしい方々の生き方から気づきをいただき、学びをいただき、成長の糧とさせていただいていることに感謝しています。

合掌。

 

生きるということは、時間の長さだけでは決まらないのだと思います。

大切なのは、生きている時間に何を感じ、誰に何を伝え、どのように生きたかではないでしょうか。

 

鈴木ヒロミツさんは、最後に次のような思いを残されています。

人にはそれぞれ願いがある。
愛する人と一緒に生きたい。
お金を稼ぎたい。
生きてきた証を残したい。
人の役に立ちたい。

人生には、嫌なこともたくさんある。

それでも、生きる目的が何であれ、楽しんでほしい。

楽しもう、楽しもうと思い続けてほしい。

人生は本当に楽しいものだから、どうか楽しむために生きてほしい。

 

その言葉には、死を前にした人だからこそ伝えられる、深い願いが込められているように思います。

 

もし余命を宣告されたら、私はどう生きるのか。

その問いは、死を考えるためだけのものではありません。

今をどう生きるのかを考える問いでもあります。

 

いつか終わりが来る人生だからこそ、今日という日を大切にする。

感謝を伝えられる人には、今伝える。

愛する人には、今、愛を示す。

やりたいことには、今、向き合う。

余命宣告は、特別な人だけの問題ではありません。

人は誰でも、限りある時間を生きています。

だからこそ、残された時間の長さではなく、今日をどう生きるかを大切にしたいものです。

 

参考文献:『余命三カ月のラブレター』鈴木ヒロミツ著 幻冬舎

 

 

本日のテーマ

人生の訓練】

 

 

自分が求める能力や技能を身につけるためには、訓練が必要です。

 

訓練とは、あることを教え、継続的に練習させ、体得させることをいいます。

 

つまり、訓練の目的は、知識や技術を頭で知るだけでなく、自分のものとして身につけることにあります。

 

子供, 座る, 少し, 少年 が含まれている画像

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昔は、女性が結婚する前に「花嫁修業」と呼ばれる訓練をすることがありました。

料理、掃除、裁縫、礼儀作法など、家庭を持つために必要なことを学ぶ機会だったのでしょう。

現在でも実践している人はいるかもしれませんが、以前ほど耳にしなくなりました。

 

私は以前、雑誌の編集長をしていた時、読者にこのような問いを投げかけたことがあります。

「もし、親になるための試験があるとしたら、どのような試験内容になるでしょうか」

 

夫婦間の人間関係。
子どもの出産。
育児。
教育。
家庭のつくり方。

 

考えてみると、親になるということは、とても大きな責任を伴うことです。

しかし、多くの場合、十分な準備や訓練を受けないまま、その役割に入っていきます。

初めての体験には、分からないことがたくさんあります。

それはまるで、初めて行く場所へ、地図を持たずに出発するようなものです。

 

アメリカの臨床心理学者、カール・ロジャースは、夫婦の関係について次のように述べています。

「現代の結婚は、とてつもない実験だ。それなのに多くの人は、そこでの共同作業について何の準備もしていない。このような作業をはじめるまえに、せめていくらかでも基本的な学習をしていたならば、いかに多くの苦しみや失敗を避けることができたか、はかりしれない」

 

この言葉には、深く考えさせられます。

訓練や学習は、すべて準備です。

備えあれば憂いなし、という言葉があります。

 

人生で起こる出来事に対して、何の準備もなく向き合えば、迷い、悩み、誤った判断をしてしまうことがあります。

しかし、事前に学び、考え、訓練しておけば、同じ出来事に遭遇しても、受け止め方や判断の仕方が変わります。

 

人生にも、訓練が必要です。

人間関係の訓練。
働くための訓練。
親になるための訓練。
困難を乗り越えるための訓練。
自分を整えるための訓練。

 

人生は、いきなり本番に立たされることが多いものです。

だからこそ、日頃から学び、自分を訓練しておくことが大切なのではないでしょうか。

 

モンテーニュの言葉に、次のようなものがあります。

「不幸は大半が、人生に対する誤った解釈のしるしである」

 

人生を正しく受け止め、よりよい判断をするためにも、学びと訓練を重ねていきたいものです。

 

 

本日のテーマ

失うことは与えられること】

 

 

今まで持っていた大切なものを、突然失った時、人はどうなるのでしょうか。

 

かけがえのないもの。
代わりのきかないもの。
当たり前だと思っていたもの。

 

それらを失った時、人は大きな衝撃を受けます。

 

ある日突然、今までの生活がどん底に落ちてしまったら。
ある日突然、大けがをして、体の自由を奪われたら。
ある日突然、大切な人との別れが訪れたら。

 

大切なものであればあるほど、失った時のショックは大きくなります。

しかし、大切なものを失った時、そこには今まで見えなかった世界が見えてくることもあります。

 

事業に失敗すれば、仕事、プライド、信用、生活の安定を失うことがあります。

事故やけがをすれば、健康な体、自由、仕事、自信を失うことがあります。

大切な人との別れでは、愛、支え、協力、心のよりどころを失うことがあります。

 

私は取材を通して、こうした厳しい環境に置かれた人たちを何人も見てきました。

そして、大きな苦しみに見舞われながらも、それに耐え、努力し、再び立ち上がった人たちには、共通するものがあるように感じました。

 

私自身も、拙著『幸せをつかめる人、つかめない人』の中で、自分の人生の苦しみに触れています。

私もまた、大きな苦しみに二度見舞われ、それを乗り越えてきました。

人生のどん底にいた時は、どんなに頑張っても、思うようにいきませんでした。

頑張っても、頑張っても、うまくいかない。

そして、失うものが一つ、また一つと増えていく。

やがて、本当にどうすることもできなくなった時、ようやく気づき始めました。

豊かな時には気づかなかった、一番大切なものにです。

うまく表現することは難しいのですが、裸にならなければ見えないもの、とでも言えばよいのでしょうか。

すべてを失ったように思えた時に、はじめて見えてきたものがありました。

私は、その大切なものを心に刻み、新たな決意で人生を歩み始めました。

これは、私自身の体験から得た実感です。

 

体の障がいを乗り越えた方に、星野富弘氏がいます。

星野富弘氏は、絵入り詩集『風の旅』の著者です。

大学を卒業して教師になり、二か月目のことでした。

勤務先の学校の体育館で宙返りに失敗し、頭の骨を折る大けがを負い、その事故が原因で体の自由を奪われてしまいました。

その後、九年間の入院生活を送ることになります。

体は不自由なままで、精神的にも耐えきれないほどの苦痛に苛まれたといいます。

しかし、そこから新たな挑戦が始まりました。

口に筆をくわえ、絵を描き始めたのです。

やがて、その絵に自分の詩を添えるようになりました。

星野さんは、著書の中で次のように述べられています。

「もしかしたら、失うということと、与えられるということは、となり同士なのかもしれません」

 

草を食べている帽子をかぶった男性

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この言葉には、深い意味があります。

失うことによって、大切なものに気づいた人は、こう考えるようになるのかもしれません。

 

失うことは、与えられることでもある。

失ったからこそ、得られたものがある。

もちろん、失うことはつらいことです。

 

簡単に受け入れられるものではありません。

しかし、失ったことによって、今までとはまったく違う環境に立たされ、そこで新たな発見をすることがあります。

 

そして、今まで気づかなかった新しい自分に出会うきっかけになることもあります。

本当に大切なものは、目に見えないところにあるのかもしれません。

あるいは、見えにくいところに隠れているのかもしれません。

それは、自分が裸になり、何もかも失ったように感じた時に、初めて見えてくるものなのかもしれません。

 

フリーチェの言葉に、次のようなものがあります。

「人生は学校である。そこでは幸福より不幸のほうが良い教師である」

 

失うことは、ただ奪われることではありません。

そこから何に気づき、何を学び、どう生き直すのか。

その時、人は失ったものの奥に、与えられたものを見つけるのかもしれません。