山下晴代の「そして現代思想」

山下晴代の「そして現代思想」

映画、本、世界の話題から、ヤマシタがチョイスして、現代思想的に考えてみます。
そしてときどき、詩を書きます(笑)。

「性」

性というのは、当然生殖のことである。子孫を増やすため、生殖する。
しかし、人間は精神というものを持ってしまった。昆虫のように、深海魚のように、「無私」でできない。
人類最大の不幸。どんな人間にも、ロマン=快感がいる。
その昔、小倉駅前に「おにーさん、500円でどう?」
と声をかけてくる女がいた。誰も避けていた。
しかしあるとき、物好きな男がハナシのタネに応じてみようとした。
後日譚……臭くて臭くて……500円だけ払って逃げ帰った、とか。
まあ、ある程度年を取ると、自然性の観念から離れていく。
それは生物として自然なことである。マスメディアや商業主義のせいで、妄想を抱く年寄りもいるが。
それはともかく、ある種の自称詩人の女性の詩などを目にすると、
いつまで経っても、性の観念から逃れられないヤカラがいる。
彼女らが書く詩のほとんどが、恋愛=性がテーマというか、そういう物語に引きずられている。何を書いても、そこへとつながっていく。
一生、そこから逃れられない。
なんでやろか? と私は考えてみた。
彼女らの自我形成期に、
すでに性の精神のようなものが存在し、
それが世界になってしまった──。
性が形成する妄想は、こんにち、
さまざまな犯罪を生み出している。
文化人類学的、
レヴィ・ストロース的、
オクタビオ・パス的、
二重の炎。

 

 

「父の日」

6月16日は、ユリシーズの日ではなく、父の日だった。どうせ母の日のついでに商業主義が作った記念日だろう。母の日といえば、カーネーションを贈るのが定番となっている。父の日は、食い物だとか、お酒だとか、洋服だとかいろいろ。
母が、「おじいさん(自分のつれあい)の夢を見た。あ、おじいさん死んでたんだ、と思った」と、半分眠りながら言った。
私は、壁に掛けてある父の写真に向かって、
「おじいさん、父に日しなくてごめんね。だってあんたもう死んでるからね」と手を合わせた。父は神道。仏壇にまつられている。
キリスト教の起源はユダヤである。ギリシアは幾何学。ローマは法。
これら三つが、ヨーロッパの精神の基礎を形作った。
危機は第一次大戦の時やってきた。
と、ヴァレリーは書いている。
ヨーロッパを支える三つの精神のなかで、日本人がいちばん弱いのは、
法であると私は思う。
ヨーロッパに父の日はあるのだろうか?
 

 

【poème】

Tra un fiore colto e l'altro donato
I'inesprimibile nulla
(Giuseppe Ungaretti "Eterno")

elle viennent
autres et pareiles
avec chacune c'est autre et c'est pareil
avec chacune l'absence d'amour est autre
avec chacune l'absence d'amour est pareille
(Samuel Beckett )

Between Ungaretti and Beckett God

 

「花論」

花々が咲く
異なっていて同じである
それぞれ 別の花であり同じ花である
それぞれ 匂いは異なっている
それぞれ 匂いは同じだ
ベケットを真似たこの詩に
欠けている言葉を
足して

 

 

Françoise Hardy 死去


"Tirez pas sur l'ambulance !
Je suis déjà à genoux."(「救急車を撃たないで!
 あたしはもう跪いてるんだから」)


……そんな歌詞が口をついて出る。


Prier pour l'âme.
(冥福を祈る)

「細田傳造の詩を「ちゃんと」(笑)読む」

「ディック」(『納屋』1号)──「ミネ」なのかべつの人なのか。細田はテキトーなことを書いているふりして、ほんとうのことしか書かない。しかし意味は「隠されている」。宝さがしのおもしろさ。宝をさがしていくうちに、とんでもない世界に拉致されている。この詩は、細田お得意「下ネタである。海に流した「おしっこの一滴」の旅である。聞いたことのあるような単語やイミフの単語までいろいろ出てくる。読み手に同意を求めてくるわけではない。ナンタケット、といえば、捕鯨船が出発する島である。福島の処理水が海に流され、分析上は問題ないという「エビデンス」があるにもかかわらず、中国がいろいろ風評を流している。そして最後は内容に意味を与えず、「越冬つばめ」で終わる。
詩に転換される。

「ムササビ」(『納屋』1号)─細田は、まま見かける「詩人」のように絵空事のようなことは書かない。高層のオフィスビルに入るのも、氏の日常であろう。しかし、紀伊國屋の田辺茂一みたいにクサくない。実業家なれど、そのへんの変態ジジイのふりをしている。細田はこのフリを愛している。昆虫のセックスを、「交尾」とは表現しない。記憶のなかで父母の性交を思い浮かべ、透明化しようとひっちゃきにならない、どだいスケールがちがう。言葉を使って小さな物語を作ろうとしない。どの行を引いたろか、と思うが、どれも素早い速さで逃げていく。「ただひとつの地名でも詩になる」と、吉田健一は書いている。それに似たことをやっているのが細田傳造である。細田の詩は、読んで楽しめばいいのである。

「オフィスビルというところに入った/駅から五分/家賃については考えたくない」そうだろ、そうだろ(笑)。一句でけた。

 国立の富士見通りのマンション新築取り壊し(字余り、無季)。

「挽歌」

詩というものは、だいたいにおいて、でたらめである。とくに定型でない詩は、言葉が従わねばならない規律などなにもないのであるから。ただ単に抽象的な言葉を連ねたものを詩と信じる人々がいて、とくに商品ではないのだから、その人のご自由である。それがいいと思うひとびともいてそれもご自由である。ただ世界の、少なくとも文学史に残っている詩の書き手は、個人的なこと具体的な現実に触れないで何か書いている人々は一人もいない。それをいれなければ、詩にならないからだ。さて、ベケットの「Enueg Ⅰ」という詩であるが、このEnuegという言葉は、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語辞典には、出ていない。これは、フランスのプロヴァンスの方言である。いちばん近い言葉は、ennuiである。それでこれは、地方の悔やみ歌みたいなものの形を借りたものである。

Exseo in a spasm
tired of my darling's red sputum

ボクハ出テ行ク痙攣しながら
愛する人の赤い痰壺を見飽きて

と、高橋康也は訳しているが、全然違う!
Exseoはラテン語で、「立ち去る」「脱する」「旅立つ」
spasmの中へ「消える」のであるが。spasmは、「痙攣」である。
つまり、痙攣「のなかに」旅立つ。へんな表現だが、ベケットはこういう使い方をする。
sputumは「痰」で、「英語的に」spasmと韻を踏んでいる。
「痰壺」は訳しすぎで、red sputumは、「赤い痰」つまり「血痰」ではないだろうか?
ことほどさように
詩は個人的なものであり、
その言葉の使い方も、というか、「言葉の使い方のなかに」
詩が存在する。
とくに外国語の訳は、
ごまかしがきく。
慣れ親しんでない外国語の場合、英語からの訳というのが、常套的にありうる。うまいぐあいに原著と重なり合う場合もあるが、遠ざかってしまうものもある。どうせ
読者はわかりはしない。
ベケットの難解なこの詩は、お葬式の時に
挽歌を歌う、玄人の真似をして
つくったものである。
その昔、原田康子なる作家がいて、
テレビドラマ化された作品があった。
「挽歌」という題だった。
若い女が、
不倫で夫を奪う。
妻は川か海か、水に飛び込んで自殺する。
はたして、
どっちが勝ったのか?
羅和辞典片手に、
ベケットの詩など訳す気になれない。
愛する人の血痰に倦んで、
痙攣のなかに逃げる。
あるのは、
死の静けさ。
ベケットはいつも、
死の周囲の汚物を
洗い清める。

 

 

 

 

 

「ボヴァリー夫人、あるいは、絶望という名の電車」

Nous étions à l'Étude, quand le Proviseur entra, suivi d'un nouveau habillé en bourgeois et d'un garçon de classe qui portait un pupitre.
ぼくらが自習にいると、校長先生がブルジョワの新入りと勉強机を持ったコヅカイを連れて入ってきた。
この新入りがのち、その妻が不倫にのめり込み、
「ボヴァリー夫人」と呼ばれるのだが、果たして、
「ぼくら」の「ぼく」とは誰なのか?
Kさんは不倫はしなかったが、同様に死んだ。
夫は詩人でKさんも詩人だった。
夫は周囲に箝口令をしき、
のち再婚して「しあわせ」になった。
私は彼らの同人誌に入っていて、結婚祝いもあげた
関係だが、夫だった男は
私から逃げ回っている。
何十年もなんの接触もないのに。
あるいは、Kさんが、私の背後に見えるのかもしれない。
ブロックしているならちょうどいい。
ここにはっきりと記録しておこう。
Kさんの魂を鎮めるために。
絶望するには素質がいる。
そういう素質がなければ、なかなか死の方向へ進めるものではない。
たしか、ボヴァリー夫人を映画で演じたのは、
イザベル・ユペールではなかったか。
原文は明確で思想がある。
その思想は、不倫物語ではなく、
写実だ。事実だけを書いていく書き方。
最後は、夫、ボヴァリーの死で終わる。